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最初の部屋が応接室なら、次の部屋は食堂のようだった。
大きなテーブルにいつものチェスト。倒れたロウソク立てに泥水で満たされた花瓶。全て汚泥で覆われてはいるが、豪華な時代の名残だけは伝わってくる。
壁にかけられた幾つもの絵画。成美は目で数を追ってみた。――全部で14枚ある。形はまちまちだが、どれも真っ黒に汚れている。
どうせなんの絵だか判らないと思った成美は、なにげなく近くの1枚をみあげて、全身が総毛立った。
真っ黒なキャンパスの中、2つのむき出しの目玉が薄ぼんやりと浮き上がり、、絵の中から成美を見下ろしている。
がたん、と背がテーブルにあたり、そのままずるずると座り込んでしまいそうになる。成美は、震える膝を叩いて立ち上がった。
「ひ――氷室さん!」
恐怖とも焦燥ともつかぬ思いに駆られ、絶対にいるはずがない人の名前を呼んだ。
「……氷室さん、どこなんですか」
足が震えて後退し、成美の背中がぬるりとした壁にあたった。
「―――っ」
おそらく雨漏りと湿気がひどいのだろう。床も壁も、腐った泥と黴でぬめぬめしている。そのまま足を滑らせて成美は転び、手足にまとわりつく気味悪さから、逃げるように跳ね起きた。
「氷室さん、どこにいるんですか。いるんなら、出て来てください!」
お願いだから、もう意地悪しないでください。
もう怖いです。
これ以上、こんな場所にいるのが怖いんです。
ここが、水南さんがあなたをいざなった世界なんですか。
ここもまた、あなたと水南さんの過去の一部なんですか。
勢い込んだ靴の踵がぬかるみにとられる。あっというまもなく体のバランスが崩れ、それを背後から雪村が支えた。
「……落ち着けよ、頼むから」
「…………」
ただ息だけをして雪村を見上げると、雪村が少し驚いたように眉を寄せた。
多分、泣いていた――涙が溢れるほどではないけれど。
「もう、やだ……」
「…………」
「……怖くて……」
「………………」
一瞬目を細めた雪村が、うつむいて短い息を吐く。
「……怖いとか、いまさらお前が言うかよ」
だって――と言いかけた途端、ぐい、と肩を掴まれて引き離された。
「てか、重い。いつまで人に寄りかかってんだ、デブ」
「って、あ、すみません」
……デブ?
今、もしかしてデブって言った?
「雪村さん、私はこうみえて極めて標準体型です!」
「床を踏み抜くくらい重いくせに何いってやがる」
「あ、あれはただの勢いで」
言い訳する成美の前で、不意に雪村がしゃがみこんだ。
――雪村さん……?
その手がいきなり左の足のくるぶしあたりに触れる。
スニーカー用のソックスの少し上。素肌の部分だ。
「えっ、ちょっ、セクハラ?」
「っ、馬鹿、怪我してるとこ見てんだよ」
「いいですよ。マジで。痛くないし大したことない――」
慌てて自分の足元を見た成美は絶句していた。
靴下が血まみれになって、スニーカー部分にまで赤い染みが滲んでいる。
「ゆ、ゆ、ゆ」
「大丈夫だから、騒ぐな」
「だって、だって」
「傷は浅いし、なにも動脈が切れてるわけじゃない。……まぁ、8針くらいは縫うんじゃないか?」
うっそ……。
「とりあえず俺のハンカチで止血しとくから」
「……すみません」
あれ? と雪村が自分のポケットに手を入れて首をかしげる。
そういえば、行きの新幹線の中でハンカチを借りたことを思い出し、成美は慌ててショルダーバックの中からハンカチを取り出した。
「これ」
「ああ、悪い」
そっけなく手を伸ばした雪村が、成美の手からハンカチを奪い取る。
「なんだ俺のか」
「……謝って損しましたね」
「言っとくけどもう返さなくていいからな。お前の血染めのハンカチなんて薄気味悪くて使えない」
「えー、困りますよ。だって思い切り雪村さんのイニシャルが刺繍してあるじゃないですか」
「捨てればいいだろ」
「それって、厚意を踏みにじるっぽくないです?」
「安心しろ。これは間違っても、厚意じゃ、ない」
力強く否定され、ハンカチで縛った傷の上をばしっと叩かれる。
さすがに痛みで顔をしかめたが、かろうじて不平は喉で押しとどめた。
「……どうも」
「……ん」
すぐに立ちあがった雪村は、室内を見回して、成美が鳥肌をたてた絵の前で視線をとめた。
「これ、……後藤家にあった絵じゃないか?」
「……え?」
「ほら、書庫にあった気味悪い絵。我が子を食らうサトゥルヌスだよ。絵が汚れてて、サトゥルヌスの目しか見えないが」
あ、そういえば……。
種が割れてしまえば、得体の知れない恐怖心も薄らいでいく。が、気味が悪いことには違いない。
「後藤家の人は、よほどこの絵が好きなんですね。他の絵も書庫の絵と同じものなんでしょうか」
雪村は黙って別の絵の前に歩みよると、手で、絵にこびりついた泥を落としはじめた。
「無理だな。紙そのものがダメになってるから、そこに何が描いてあるのかさっぱりだ」
ふっと溜息をつくと、手をはたきながら振り返った。
「とにかくここから先は、俺が1人で様子を見てくる。お前はここでじっとしてろ。万が一氷室さんがいたら、大声で知らせるから」
もちろんその可能性が殆どないことは、成美にだって判っている。
答えない成美に「動くなよ」とだけ言い残し、雪村は踵を返して、朽ちた扉の向こうに消えた。
「………………」
成美は、何故か急に肩の力が抜けたようになって、ぼんやりと自分の左足に視線を落とした。
まだ雪村の手指のぬくもりが、触れられた肌に残っているような気がする。
手当をしている間中、雪村は一度も成美の顔を見なかったし、成美も雪村を見ないようにしていた。
2人はただ淡々と会話を続け、――まるで沈黙をおそれでもしているように、どちらかが黙ればどちらかが言葉を継いだ。
何もかも自然なようでいて、何かがひどく不自然だった。それをお互いが判っているのに、多分判らないふりをしている。
このままじゃいけないことは判っている。
でも、水面下で見え隠れするこの感情を表に引っ張り出すだけの勇気はない。
そうしたら、今度こそ本当に雪村との心地良い関係が終わってしまいそうな気がして――
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