「……これは……マジで、……心霊スポットだな」
 隣で呟く雪村に、成美は何も返せなかった。
 鬱蒼と木々の生い茂る山頂に、忽然と姿を現した巨大な廃屋。その周囲はぐるりと男性の背丈ほどもある石塀で囲まれている。
 門扉を探すまでもなかった。塀は、ところどころが無残に崩れ落ち、そこからかいま見える庭の残滓らしき場所には、野草が腰ほどの高さにまで伸びている。
 その奥に見えるのは、2階建て、縦長の洋館。
 屋根の色はもう推測するしかないが、煉瓦をあしらった三角屋根だったことだけは判る。
 その煉瓦は広範囲で剥がれ落ち、建物の壁――もともと白い土壁だったのだろうが、壁は黒い苔のようなもので一面が覆われているようだった。
 2階部分にはいくつかの出窓とベランダ。その幾つかのガラスは砕け、中にひっかかった黒いカーテンがばたばたと揺れている。
 2人が壊れた塀の間から敷地内に入ると、建物周囲には鉄条網が何重にも張り巡らせていることが判った。
 そしてその鉄条網のあちこちに、アルミ製の看板がかけられている。
 入るな、危険。
 ここから先、危険薬物と医療(感染性)廃棄物が建物内外に散乱しています。中に立ち入る際には必ず所有者の許可をおとりください。

 その下に記されている電話番号を、雪村は携帯で撮影した。
「……どこの電話番号でしょうか」
「警備会社かな。……そんなに古い看板じゃない。わりと最近作られたものみたいだ」
 脅しかな、と呟いた雪村は間近に迫った建物を仰ぎ見た。 
「まるで明治時代の建物みたいだな。神戸で似たような建築物を見たことがある。確か、西洋人の住居跡だった」
「確かに、明治に建てられたっていっても通用するくらい古いですね」
「……噂話は、本当なのかもしれないな」
「え?」
「ここはその昔、本当にトワが作った館なのかもしれない。つまり悪魔と」
 その時、2階のベランダあたりから黒い大鳥が数羽、羽撃きをあげて飛び立った。
 成美は思わず変な声をあげて、目の前の雪村の腕に思いっきりしがみついている。
「っ、ばか、離せ、お前が騒ぐと俺までパニックになる」
「だって雪村さんが怖いこというから」
「だってもあさってもあるか。っ、とにかく離せ」
 手首を少し強く掴まれ、成美はちょっと驚いて雪村を見上げた。その刹那二人の目があい、少しだけ気まずい――どう表現していいかわからない沈黙が流れた。
 先に手を離し、顔をそむけて物憂げに息をついたのは雪村だった。
「お前はきれいに忘れてるかもしれないが、俺だってな」
 心臓がどきりとはねた。
 ……俺だって?
 先ほど、一瞬目が合った時の雪村の眼差しに、何故か奇妙に胸が騒いだことを思い出し、成美は慌てて何か――気のきいたジョークを言おうとした。その言葉の続きを、今聞いたらいけない気がする。
「あの、雪村さ」
「怖いんだ」
「………………」
 あ、そうですか。
 俺だって男なんだ――じゃなくて、怖いんだ……。
「いいか。恐怖ってのは伝染するんだ。こんな場所で2度と今みたいな大声出すなよ」
 不機嫌そうに念を押され、成美は唇を尖らせて肩をすくめた。
「……すみませんでした」
 自分1人だけ胸がざわざわしたことがなんだか恥ずかしくなる。 
 そんな場合でも状況でもないと判っているのに。
「とにかく、一周りしてみるか。……どこから入っていいかも判らないし」
 先に歩き出した雪村が、足元を見ながら嫌そうに呟いた。
「なんにしてもここに人がいるってのはありえない。完全に鳥と獣の住処ってところだな」
 眉をしかめる雪村の視線の先には、半ば骨になった小動物の死体が泥の中に埋もれている。
 成美はまた叫びだしそうになったが、かろうじて我慢した。
 さきほど飛び立ったカラスも、何かに群がっているようだった。おそらく屋敷の内部には、迷い込んだ動物の死骸が転がっているのだろう。
「……おかしいな」
「何が、ですか」
 ドキッとしながら成美は訊いた。
 そんな不安なことを言われたら、また雪村の腕にしがみつきたくなる。
「いや、さっきから見てるんだか、こんなに下がぬかるんでるのに向井さんの足跡がどこにもないんだ。本当に彼女、この場所に来たのかな」
「やっぱり騙されたんですか」
「そうじゃないとは思う……。向井さんらしき足跡は途中まで確かに時折あったんだ。……でも、この周辺にはひとつもない」
 鉄条網に沿って周囲を歩いていると、泥に汚れた巨大看板が、遮るように2人の前に現れた。どこからでも目につく大きなハザードマークが、おどろおどろしく2人を見下ろしている。
「医療廃棄物廃棄場所につき、立ち入りを厳に禁ず。この土地には健康上被害が出ると想定される危険薬品が多数……さっきと同じだが、この看板は随分年季がはいってるな」
 読み上げた雪村が、眉をひそめて成美を見下ろした。
「どうする?」
「どうするって……?」
「脅しって気もするけど、この場所で医療行為が行われていたのは事実だしな。……しかも向井さんが立ち入った形跡もないんじゃ」
 ここまで来て、戻るってことだろうか。何も探しもせずに。
 そんな――もうこの場所にしか、手がかりなんて残されていないのに。
「――雪村さん」
 焦った成美は視線をめぐらし、偶然に目にはいってきたものを指さした。
鉄条網を支える杭下の草むらの影から、見間違いでなければ足跡のようなものがのぞいていてる。
「雪村さん、ここ、ほら、足跡じゃないですか」
 折り重なった草を急いでかき分けると、泥のぬかるみの底に、薄く靴跡が残っている。
「……本当だ」
 眉を寄せながら、成美を押しのけるようにして雪村がその前にしゃがみこんだ。
「……向井さん、じゃないな。靴跡が大きい。男のものだ、しかも……山歩きにまるでふさわしくない革靴だ」
 心臓が強く高鳴った。
 立ちあがった雪村が、傍らのフェンスの杭に手をかける。
「……緩んでる。引っ張れば抜ける状態だ。おそらくこの杭を引っ張る時に足を深く踏み込んで、その跡だけが残ったんだろう」
「最近、ですか」
「靴跡の上に草が生えてるから昨日今日じゃない。……でも、何年も前じゃなさそうだ。せいぜ何ヶ月かってところだろうな」
 氷室さんだ。
他にはもう考えられない。
「行きましょう!」
「そう言うと思ったが、ちょっと待て。念の為向井さんに電話するから」
「なんのためですか」
「せめて中が安全かどうか確認したいんだ。――本当に医療廃棄物かなんかがあったら、大変なことになる」
 雪村が携帯電話を耳にあてる。「――出ないな。留守電に切り替わった」
「きっと寝てるんですよ」
「あの人に限ってそれはないだろ」
 雪村が再度携帯電話を耳にあてる。
「病院に行ってるとか」
「医者なら呼ぶって言ってたろ」
 成美はさすがに苛々した。
 危険があるなら最初から言ってくれているだろうし、あえて黙っていたなら、今訊いたところで教えてくれるはずがない。
 雪村はどうやら向井志都を全面的に信用しているようだが、根源的なところで、あの人は氷室さんの敵なのだ。
「すみません、私、行きます」
「は……?」
「危険なのはよく判りました。だから雪村さんは、ここで待っててください」
「ちょ――おい、待てよ! だから電話して」
 雪村の制止を無視した成美は、杭を引き抜き、倒れた鉄条網を飛び越えた。
 
 
「俺が感染症になったら、お前に一生責任とってもらうからな」
「だから、別についてこなくていいって言ったじゃないですか」
「ふざけんな。ここまで来て、表で待ってろっていうのかよ」
 罵り合いながら、それでも足元に気をつけながら進む2人の前に、やがて屋敷が間近に迫ってきた。
 壁はカビとよくわからない植物に覆われて真っ黒にぬめっている。支柱らしき木の部分は水色の塗料が塗られているようだが、大半が剥げ落ちて黒ずみ、その名残は殆どない。
 ガラスが割れて枠だけになった窓には破れたカーテンの切れ端がぶら下がり、いたるところに蜘蛛が巣を張っていた。
 屋根は瓦葺だが、その大半が落ちて梁がむき出しになっている。地面には木っ端微塵にくだけたその瓦が至る所に散らばっていた。
 ぷん、と泥臭い異臭が少し離れた場所にまで漂ってくる。
「……中に、マジで入るのかよ」
「あ、当たり前じゃないですか」
 さすがに雪村も足がすくんでいるようだし、成美も正直言えばそれ以上にびびっていた。なにしろ2人はほぼ普段着なのだ。危険物が襲いかかってきても(それが何なのかは判らないが)身を守るすべは何もない。
「本当に、責任とってもらうからな」
 腹を括ったように言って、まず雪村が歩き出した。
「と、とりますよ。何かあったらですけど」
「本当かよ。一生って意味判ってんのか?」
 判ってるのかと言われても……。
「治療費は払います」
「ふざけんな。それで済む問題か」
 そんなやりとりをしながら入り口を求めて周囲を歩くこと数メートル、すぐに扉のようなものが見つかった。どうやら正面玄関ではなく、裏口――勝手口のようだ。
 といっても扉部分は基礎がむき出しになって、壊れた蝶番がぶらさがり、風でキイキイ揺れている。
「……向井さんの言うとおり、確かに、鍵なんてそもそも必要なかったみたいだ」
 揺れる扉の隙間から、薄暗い室内が垣間見える。強い泥黴の匂いに思わず鼻をおさえて成美は訊いた。
「じゃあ、その鍵は一体なんだったんでしょうか」
「…………」
 雪村は、黙って手にした縮緬の巾着袋を持ち上げた。中には、向井志都から返された鍵が入っている。氷室のマンションに残されていた謎の鍵だ。
「わからない。建物内のどこかの鍵かもしれないが、結局向井さんにも判らなかった」
 再考を促すように、雪村は成美を見下ろした。
「それに向井さんの衣服……確かに草や泥で汚れてはいたが、ここから漂ってくるようなひどい匂いまではしなかった。足跡も、今のところどこからも見つからない。向井さんが向かったのはここじゃなかったんじゃないのか?」
 つまり、残された鍵とこの建物は無関係なのかもしれない――
 2人の前では、壊れた扉が風に揺れ、きしんだ音をたてている。
「……そう、ですね」
 さすがに引き返すことに同意しようとした時だった。
 あるものに気づき、成美は目を見開いた。
「雪村さん、あれ」
「は?」
「なんか、紙袋みたいなものが中に」
「……?」
 成美が指さした先は、勝手口の隙間の向こう。
 薄暗い屋内――石で作られた三和土の上に、白い紙袋が置いてある。
 汚れてもいなければ、風化してもいない。
 今さっきそこに置かれたといっても過言ではないほど、綺麗に白い紙袋だ。
「待ってろ」
 雪村が用心深く、扉を押し開け、玄関の三和土に足を踏み入れた。背後からその様をのぞきこんだ成美ははっと目を開いた。
続く木の廊下は泥と埃にまみれているが、中央付近は木目がむき出しになっている。きっと、何かで埃を払ったのだ。
「空っぽだ。何もない」
 袋を持ち上げた雪村が言った。その雪村の視線も、成美と同じものを追っている。あきらかに誰かの通った跡のある――廊下だ。
 泥が払われた廊下の向こうには、また別の扉がある。しかし完全に閉じられていない証拠に、扉は傾き、片方の底部が廊下に完全にくっついている。
 その向こうに行きたいという成美の焦燥をそらすように、雪村は紙袋を成美の鼻先につきつけた。
「袋は無地だ。何も書いてない。……最近、誰かが何かを持ち込んだのかな。さほど強度のある紙じゃないから、だとしたら極めて軽いものだろうが」
「………花とか」
「え?」
 成美は、雪村から受け取った紙袋の中を睨むように見つめ、その底から一枚のしおれた花片をつまみあげた。
「花びらが底に――萎れてるし、一枚だけですけど、元は白い花だったみたいです」
「本当だ、気付かなかった」
 氷室さんだ。
 なぜだか直感がそう告げている。
 これは、氷室さんが持ち込んだものだ。
「廃屋に花って、なんの意味があるんだろう」
「それは判りませんけど」
 眉をひそめた雪村が諦めたような溜息を吐いた。
「……誰かがここから中に入ったのは、もう間違いないみたいだな。わかった。ひとまず俺が中を探ってみる。何かあったら」
 話す雪村の横をすり抜け、成美は三和土から廊下に駆け上がっていた。
「って――おい! だから俺が行くっていってんだろ」
 2メートルたらずの廊下の向こうは別の扉で塞がれている。錆びついた扉は、手前に引いただけで蝶番が奇怪な音を立てて壊れ、けたたましい音をたてて成美の足元すれすれに落ちてきた。
 頭上から、腐った木の破片がばらばらと降ってくる。
「日高――!」
 構わず成美は、扉の向こうに踏み込んだ。
 広い――ただっ広いホールのような場所だ。
 天井からは半ばずり落ちて歪んだシャンデリア。壁にはいくつも絵がかかっている。そのどれもが泥と黴に覆われてなんの絵だかも判らない。
 いかにも時代を感じさせる古いデザインだが、質のよさそうな応接セットとチェスト。全てが泥と黴まみれで、腐っているのか、みるからにぐずぐずだ。
 豪華な彫り物が施された棚は、ガラス部分が全て壊れて床に落ちている。――その中に収められた幾種類もの洋酒の瓶とカットグラス。
 グラスは手前のものはほとんど割れているが奥の一列だけが整然と残っている。
「――日高!」
「大丈夫です」
 後ろから追いかけてきた雪村に答えた途端に、足が腐った床を踏み抜いた。それでも構わず、足を引き抜いて成美は進んだ。
「お前、さっきからちょっとおかしいぞ。頼むから少し冷静になれよ」
 後から、苛立ったように雪村が追ってくる。
「冷静ですよ」
「どこがだよ。ってか、足! 血が出てんぞ」
 だってもうここしかない。
 もう、手がかりはここにしかない。
 ここで氷室さんを見つけられなかったら、もうどこへ行っていいのかさえ判らない。
 もう、信じるしかないじゃない。
 絶対にここに――氷室さんが何かを残してくれてるって。



 
 
 




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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。