「あの夜……悪夢のようなあの夜、いきなり押し入ってきた暴漢どもに、私は殴られ、お嬢様は囚われました」
 声を震わせながら、志都は語り始めた。
「お嬢様が懸命に私の命乞いをする声を聞きながら、縛られた私は物置の中に閉じ込められました。そこでどのくらいの時間を過ごしたでしょう。私はお嬢様の身を案じ、気も狂わんばかりでした。実際、狂えるものなら本当に狂ってしまいたかった。時折響く暴漢共の声で、私はお嬢様がどんな目にあわされているか、ほぼ正確に理解できたからです――」
 これは、水南が暴行を受けた時の顛末だ。
 あまりに残酷な描写に、成美は顔を背けていた。
「幾度このまま死んでしまいたいと思ったでしょう。――けれど死ぬことはできなかった。一晩が過ぎ、私はお嬢様の手で助けだされました。毅然としておいででしたが、ひどい暴力を受けられたのは明らかでした。そしてお嬢様は言いました。行かなければならないところがある――必ず戻ってくるから、それまでは決して騒ぎだてしてはならないと。そしてお嬢様は、暴漢共の車に乗って出て行かれました」
 歯を食いしばり、一瞬顔をそむけてから、志都は続けた。
「それから一ヶ月以上が過ぎても、お嬢様は帰ってこられませんでした。私はついに耐えかねてだんな様に――水南様のお父上に連絡をしたのですけれど、黙って帰りを待てと言われるばかりでした。相手は反社会的勢力で、騒げばかえってお嬢様の命が危ういと。もう警察には連絡しているから大丈夫だと――私はそれで得心するしかありませんでした。けれど後で分かりました。だんな様は、何ひとつ手を打っていなかった。自身の選挙のことしか念頭になかったんです!」
「水南さんは……どうやって戻ってきたんですか」
「ある夜、ご自身で……、何事もなかったのように戻られました。すぐにもかかりつけの医師を呼びましたけれど、検査の以前に、お嬢様にはもうお覚悟ができているようでした」
「覚悟というのは、妊娠の、という意味ですね」
 何も言えない成美に代わって、雪村が辛い質問を続ける。
「……お腹の子の、父親は」
「父親? それが判る状況だとでもお思いですか? 水南様は一月以上も行方しれずになっていた。あの晩ですら、水南様を辱めたのは、1人だけではないのですよ!」
 あまりにむごい情景に、成美は思わず目をきつく閉じていた。
「私がどれだけ強く堕胎を勧めたかお判りでしょう。ええ、神の教えなどクソ食らえです。神はお嬢様を助けてくださらなかった。それどころか、とてつもなく残酷な十字架を負わせた」
「…………」
「あなたに何が判るでしょう。私が知っている以上の! 何が!」
 薄い唇を震わせて成美を睨む志都の目が紅く染まり、薄い水の膜に覆われた。
「あなたは何も知らないのです……、私が知る以上のことは、何も」
 鬼気迫る迫力に、成美は言葉が出てこなかった。ただ胸が締め付けられるような苦しさを覚えた。目の前の女が、まるで実の娘を愛するがごとく、後藤水南を愛していることがわかったからだ。
 死してなお――何年が過ぎても。
「……辛いことをあれこれお聞きして申しわけありません。最後にひとつだけ教えてください。水南さんを襲った連中とは、誠会というやくざですか」
 志都は答えず、顔だけを背けた。それは肯定とも、答えたくないともとれた。
「彼らを、……断罪したいと思ったことは」
「もう死にました」
 そっけなく答え、志都は唇を引き結んだ。「むろん、それで罪の全てが贖われたわけではございませんが」
「死んだ、というのは……事件の関係者全員が、ということですか」
 雪村のその質問には、志都は口を引き結んだまま答えない。
「氷室氏は、そのことをどこまで」
「全ての原因は、天さんにあるのです」
 激しい勢いで、志都は雪村を遮った。
「あの男のために起きた悲劇です。それだけは誰が何と言おうと間違いないのです。お嬢様はあの男のために、自ら進んで地獄に堕ちることをお決めなすった。そうしてあの悲劇が起きたんです!」
 ――それは、一体……。
 呆然とする成美の前で、志都はシーツを顔に押し当てて激しく嗚咽しはじめた。
 やがて向井志都の嗚咽が収まりはじめると、雪村は深々と頭を下げた。
「……向井さん、結果として、立ち入った質問になってしまったことをお詫びします。僕らは何も、過去の出来事を蒸し返すために来たわけではないんです。先日も言ったとおり、年明けから消息を断った氷室氏の行方を探しています」
 志都は虚ろな目をゆっくりとあげて、その雪村を見る。
「……あの場所に、天さんはいませんよ」
「それでも確認しに行きたい。鍵を貸してもらえませんか」
「…………」
 志都の目からゆっくりと表情が消え、その目のままで、志都はずっと握りしめていた巾着を雪村に手渡した。
「あなた方がおっしゃっておられるのは、もう随分以前に閉じてしまった療養所のことでしょう。……須磨さんに会ったのならお判りでしょうが、ミナエ様が長らく養生されていた場所です。そしてご覧になれば判りますが、今となっては鍵などなくてもどこからでも入れます」
「……では、この鍵は」
 しばらく黙った後、志都は体内ではりつめていた何かを吐き出すような息をついた。
「もしかすると、お嬢様の言い残された本があるかと思ったんです」
「…………」
「でも、何もなかった。……何も。正直に申し上げれば、それが何のための鍵なのかさえ私には判りません」
「……………」
「本を、探して欲しいというのは」
 ぼんやりと、ひとりごとのように志都は続けた。
「お嬢様が遺された、最後の、本当に最後の言葉なんです。……あの男が諦めても私は絶対に諦めない。……もしできるなら、もう一度……もう一度お嬢様にお会いしたい……」
 
 
                8
 
 
「おい、マジで俺たち、このまま遭難するんじゃないか?」
「そんな弱気なこと言わないで――ぶっ」
 前を行く雪村の体がせきとめていた枝葉が、勢い良く後ろの成美の顔にはね当たる。
 朝の8時。2人は初夏の草木が生い茂る山道を、文字通り草をかきわけるようにして進んでいた。
 朝露が2人の手や足を濡らし、鋭い枝や葉が、何度も素肌を刺すように焼いた。道は――志都の教えてくれた指示通りに進んでいるはずなのだが、もうそれが道なのかどうかさえ判らない。木々に覆われた頭上は暗く、確かにこのまま遭難してしまいそうな不安にかられる。
「……高そうなスーツが台無しですね」
「うるせぇ」
 2人は、むろん山登りの服装ではない。雪村に至ってはスーツに革靴。気の毒としかいいようがないが……。
 振り返ると、眼下の木々の隙間から後藤邸の屋根がわずかに見える。
 2人は今、この山の頂近くにあると思われる、水南の母親が療養していたという館を目指しているのだ。
「……この道――道といっていいかどうかさえわかりませんけど、随分長く放置されてるって感じですね」
「それでも、向井さんはきっちり道を覚えてたんだろうな。あの老体で登ってったんだ。執念が半端ないよ」
 低木樹の枝をよけながら、前を行く雪村が答える。
 かろうじて人1人が通れる程度には、かつてそこに、地面を踏み固めて作った道が――あったような形跡がある。が、そこには幾重にも草が覆いかぶさり、つい数時間前に向井志都が通った後でなければ、道を見出すことは不可能だったろう。
 ふと、屋敷に1人残してきた向井志都のことが思い出された。
「向井さん、大丈夫でしょうか」
「自分で医者を呼ぶっていってるから、近くに懇意の医者でもいるんだろう。熱も下がってたし大丈夫だよ」
「まぁ、そうですね。お金持ちだからかかりつけの医師でもいるのかも」
 その時雪村が足をとめ、天をみあげながら呟いた。「……おかしいな」
「おかしいって?」
「だって、これじゃ車が行き来できないだろ。上にあるのは診療所だ。医療器具や物資を運ぶ必要があったことを考えると、ここだけがルートのはずがない」
「……でも向井さんはこの道だって」
「実は、この山は県境にあるんだ」
 雪村はそう言って、まだ遠くに見える山頂を仰いだ。
「こっちがわはかろうじて東京だが、山の反対側は隣県になる。そこはもう後藤家の私有地じゃないが……もしかしたら、隣県側から登るルートがあるのかもしれない」
 嘘でしょ。
 成美は途方にくれる思いで、暗く陰った前方を見上げた。
「……そういうの、できれば最初に調べてもらいたかったんですけど」
 他力本願の自分も悪いが、本気で命の危険さえ覚える獣道。ここで2人が遭難したらと思うと空恐ろしくなる。行き先を知っているのはただ1人、限りなく敵に近い向井志都だけ。もし彼女に無視を決め込まれたら――。
「ゆ、雪村さん、私たちが2人して消えたら、心中とか駆け落ちとか」
「馬鹿か。そうなる前に携帯がある。この程度の山じゃ圏外にならないから安心しろ」
 そうでした。
 なんとなく拍子抜けした気分になって、成美はようやく木々の間から見え始めた空を仰いだ。
「……雪村さん、私ずっと考えてたんですけど」
「どうせろくなことじゃないだろうが、言ってみろ」
 軽く咳払いしてから、成美は続けた。
「向井さんは、どうしてああも全てを氷室さんのせいにしたがるんでしょうか。なんだか無理矢理というかこじつけというか……」
 何を言っても、どんな証拠を彼女につきつけても無駄なような気がした。
 向井志都はどんな理由をこじつけても、氷室に責任があるという主張を変えないだろう。
「思い込みといえばそれまでですけど、何か私たちの知らない事実がまだあるような気がして」
「そりゃ、いくらでもあるだろうな。実際向井さんだって、全部を知ってるわけじゃないだろうし」 
 再び歩き出した雪村が言った。気温は出かけた頃から随分あがり、前を歩く雪村のシャツには汗染みが浮いている。
「向井さんは、ある意味俺たちの主張が正しいと理解しているんだ。氷室さんは水南さんが襲われた件に直接にも間接にも関わっていない。――その上で、それでも氷室さんのせいだと言っている、と俺は思う」
「私もそう思います。でも、なんででしょう」
「……神崎香澄と氷室さんがつきあっていたのは事実だし、その神崎香澄が起こした事件によって水南さんは妊娠した。水南さんを襲った連中はもう死んだって向井さん言ってたよな。当の神崎香澄も死んでいる。だったら憎しみをぶつける相手は、氷室さんしか残っていなかったんじゃないのか」
 そうだろうか。
 なんだかそれだけではない別の理由があるような気がする。
 そして、うまく言えないが、その答えをもう私は知っているような気もするのに……。
 眉を寄せた成美は、向井志都の話を聞いている時に感じた違和感を思い出した。
「それからもうひとつ――ちょっとおかしいと思いませんでした? 向井さん、最後にあの男の妻って言ったんです。あの男の妻も相応の報いを受けた――それ、もちろん水南さんのことじゃないですよね」
「……ああ、言ってたな」
 雪村は微かな息をついた。
「おそらくだが、それは氷室さんの父親とその妻のことじゃないのか。つまり佐伯涼と、佐伯杏子だ」
 一瞬言葉を失った成美は急いで雪村の横に駆け寄った。
「でも、氷室さんのお父さんは全然関係ない人ですよね。だいたい向井さん、氷室さんのお父さんと面識があったんでしょうか」
 少し考えた後、雪村は言った。
「あったと、俺は考えている」
「……どういうことですか?」
「考えてもみろ。でなきゃ佐伯涼が、後藤家に妻子を預けるはずがないからだ。今朝の向井さんの口ぶりで確信したよ。両家には親交があったし、向井さんもまた、佐伯涼のことを知っていたんだ」
 雪村はかすかに渋面をつくり、何かを考えこむような目になった。
「佐伯杏子は、氷室さんサイドからみれば被害者であり犠牲者だが、後藤家サイドからみれば家庭をぶち壊しにしたにっくき敵だろう。向井さんが佐伯杏子とその夫……それから子供である氷室さんを憎んでいても不思議じゃないと思う」
「…………」
 その通りだ。
 軽く溜息をついて、成美は再び歩き始めた。
 なんだか、ひどくもどかしい気分だった。
 いつもそうだが、個々の謎には、こうして答えが導き出せる。
 なのにそれをひとつにつなげようとすると、違和感があるというか、しっくりこない。
 つまり全体像が見えないのだ。この時点になっても、何も。
 わからない。
 一体氷室さんは、何を見て、なぜ姿を消してしまったのだろう。
 水南さんが残した謎かけには、何の意味があったんだろう。
 そしてそれが判らない以上、仮に頂上で氷室に会えたとしても、待っている結末はバッドエンドでしかないような気がする――


 
 
 




 >next  >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。