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「まさかと思いますけど、一晩中、山にいたんですか」
 雪村が声をかけると、泥だらけの靴をぬでいた女は、分厚い防寒着に包まれた肩を微かに震わせた。
 しかし女は、すぐに一部の隙もない能面になる。
「どういう意味でしょう」
「まずは温まってください――顔色が紙のようだ。初夏とはいえ、山の上は随分寒かったんじゃないですか」
 雪村が嘆息まじりに促しても、勝手口に立ったきりの向井志都は動こうとしなかった。
 外からは微かに鳥のさえずりが聞こえる。暁闇はこうしている間にも一刻一刻と開けていく。
 朝の5時少し過ぎ。成美と雪村――そして向井志都。対峙する3人は、全員が睡眠をとっていないせいか目がわずかに充血していた。
「鍵を、貸していただきたいんです」
 動こうとしない志都に、諦めたように雪村が言った。
「昨日僕らがお持ちした鍵です。僕らは勘違いしていた。その鍵は、あなたに渡すべきものではなかった。――それが氷室氏が意図的に残したものなら、僕らが、その場所に行かなければならなかったんです」
「何を言っておいでなのだか」
 そう答えた志都が、その刹那手元のきんちゃく袋を握り直したので、成美はそこに鍵があるのだと悟った。
「向井さん。僕らがいずれその場所に気がつくことを、あなたは最初からご承知だったのではないですか。水南さんが氷室氏に見せたかったのは書棚ではなく、配置の変わった絵だったのではないですか。そしてあなたも、当然そのことは承知していたはずなんです」
 志都は、無言で雪村を見つめたまま答えない。
「書庫に入った僕らがそのことに気づく前に、あなたは大急ぎで先回りして鍵を開けに行った――。僕の推測があっているなら答えてください。そこに一体何があるんです」
 答えない志都のコートの裾は泥だらけで、ウールのロングコートは、肩にも背に小さな枝葉が無数についている。
「私が、私に管理を任されている場所に行ったとして、それがなんだというのです」
「もちろん、なんの問題もないと思います。ただそれが、氷室氏の意図に反しているのかいないのか、僕らには知るよしもありませんが」
「あんな男――」
 凍りついた顔を不意にゆがめ、毒々しい口調で志都は言った。
「あんな男の意図など、私の知ったことではございません。――知るものですか。あなた方がお嬢様の書庫で何に気づかれたのかは存じませんが、この鍵とはきっと無関係です」
「そんなわけない。氷室さんがわざわざ残した鍵なんですよ」
 思わず口を挟んだのは成美だった。志都が、きっとした目で成美を睨む。
「だから、あの男の意図など私は知らないと申し上げたでしょう」
「落ち着いて――知らないならなおさら、僕らは確認しに行かなければなりません。鍵はこの山の頂にある建物の鍵で、あなたは今までそこにいたのだと思います。――鍵を、渡してください」
「お断りします」
「何故ですか。あなたは氷室氏の行方を僕らに探して欲しいのではないですか」
「この鍵と天さんの消えたこととは無関係だからです」
「どうしてそう言い切れるんです」
「そうだからです。あなた方はお嬢様の書庫で絵をご覧なすったんでしょう? そうです。確かに1枚だけ欠けている絵がメッセージです。私にはなんのことやら皆目わかりませんけれど――でも、それとこの鍵とは無関係に決まっています!」
 成美と雪村は、思わず顔を見合わせていた。
 絵はやはり、1枚だけなくなっていた。しかも向井志都は、絵のことを最初から知っていた――つまり、書庫で探すべきもののは、絵で正解だったのだ。
 同時に――今の志都の言葉を信じるならだが――向井志都は、絵に隠されたメッセージの意味までは理解していないということになる。
「教えてください。あなたは一体何を知っているんです。どうして絵がヒントだとご存知だったんですか」
 寝不足のせいか、それとも重要な情報を故意に知らされなかった苛立ちのせいか、ややきつい口調で問う雪村を、志都は血走った目で睨みあげた。
「申し上げました。私はあの部屋のことなら、全てを記憶しております。どんな些細な変化たりとも見逃したりはいたしません。ましてやお嬢様が大切にしていた絵がなくなっているのですから」
「だったら」
「だからといって、その意味までは存じ上げません。私に判るのは、それがお嬢様のなさったことなら――必ず何かの意味があるということだけです」
 激しい口調になって、志都は手に持つ巾着を握りしめた。
「けれどあの男は、その変化の意味にさえ気づかずに丸2日も無為に書棚を見ていたのです。そうして――逃げたんです。お嬢様の思い出と向き合うことに――それに耐え切れなくなって!」
 あの書庫で――。
 成美は何も言えなかった。
 わからない。本当に氷室は逃げたのだろうか。それとも、何かを知ったから出て行ったのだろうか。
「それから3日してあの男は戻ってきて、突如この屋敷を手放すと言い出しました。後のことは全て三条様に任せてあるからと。あの男がこれからどこでどう生きるかなんて私にはなんの興味もないことです。ですがひとつだけ――最後に私は聞きました。お嬢様の本は見つかったのですか、と」
 志都は一息つき、唇に冷たい侮蔑の笑いを浮かべた。
「そんなものは最初からなかった――それが、あの男の答えです」
 本は、なかった。
 それが氷室の出した結論だっだ――
「私には判ります。お嬢様の言う本は確かにあるのです。ええ、あの男にしかわからない場所にです。――なのにあの男はその答えを探すのを放棄した。私には判ります。あの男はまた――またお嬢様から逃げたんです!」
 言い切った志都の膝が折れ、不意に彼女は崩れるように玄関に手をついた。
「――熱がある」
 志都の肩を抱き支えた雪村が、成美を振り返って言った。
「手足も擦過傷でいっぱいだ。向井さん、救急車を呼びましょう。とにかく中に入ってください」
 
 
 
「本当に、救急車を呼ばなくてもいいんですか」
「ただの疲れと風邪です。それに医者なら、私の方で手配できますから」
 客間――おそらく成美か雪村のために用意されたベッドに横たわった志都は、毅然とした口調で、かがみこむ雪村にそう答えた。
「今日は日曜で、どの医療機関も休診だと思いますが、休日外来を僕の方で探しましょうか」
「本当にお構いなく、必要とあらば、私の方で旧知の医師を手配できます」
 頷いた雪村が、どうする? といった目で成美を振り返る。
 みたところ、顔色も戻っているし、口調も眼差しもしっかりしている。本人がこうも拒否しているのに、あえて救急車を呼ぶ必要はないように思われた。
「向井さん、ひとつ……お聞きしてもいいですか」
 ベッドの傍に歩み寄りながら、遠慮がちに成美は言った。 
「さきほど向井さんは、またあの男は逃げた、とおっしゃいましたよね。つまり氷室さんは、以前も逃げたってことですか。……水南さんから」
 志都は答えず、冷たく凍った目で成美を見つめた。
「私――事情は判りませんけど、これだけは言えると信じています。氷室さんは、水南さんを愛していました。……亡くなられてからも、ずっと」
 雪村がこちらを見るのが判る。おそらくそんなことを言う成美に驚いたのだ。あえて気づかないふりで成美は続けた。
「もし氷室さんが逃げたのなら――それが本当なら――原因は氷室さんだけにあったと決めつけていいんでしょうか」
「お嬢様にも原因があると?」
「そ、そうはいいません。でも2人にしかわからない事情みたいなものが、あったんじゃないかと……、そんな風には考えられないでしょうか」
 おそるおそるした反論だが、案の定志都は眉根を寄せ、教師のような厳しい目で成美を見据えた。
「先月、三条様にお会いになりましたね」
「……会いました」
「その時三条様から、あの男がお嬢様と結婚した理由などを、お聞きにはなりませんでしたか」
 言い方は疑問形だが、もう成美が聞いていることを――その内容も含めて確信している口調である。
 ぎこちなく成美が頷くと、志都はゆっくりと両眉をあげた。
「三条様はなんと? あの男がよりにもよってお嬢様の宿敵ともいえる女を愛人にしたとは言いませんでしたか?」
 お嬢様の宿敵ともいえる女? 
 一瞬成美は眉をひそめた。思い当たるのは1人だけだが、神崎香澄の境遇と後藤水南のそれとは、天地ほどもかけ離れている。宿敵という言い方は多少大げさではないだろうか。
「……それは、亡くなられた神崎香澄さんのことですか」
「そうです。あの女がお嬢様にどれだけ強い憎しみを抱いていたか、むろん知らない天さんではなかったでしょう。お嬢様を襲ったのは、神崎香澄とゆかりのある連中に違いないのですけれど、神崎香澄にそうまでさせたのは紛れもなく天さんで、結局その機に乗じて天さんはお嬢様と結婚したのです」
「……確かに三条氏は、氷室氏は知っていて止めなかったというようなことを言っていましたが」
 慎重に言葉を選んで口を挟んだのは雪村だった。
 志都は冷ややかな目を雪村に向ける。
「氷室氏は、本当に神崎香澄の企みを知っていたんでしょうか? 調べてみたんですが、当時彼はドイツに赴任しています。日本で起きていることをリアルタイムで認識するのは難しかったのではないかと思うのですが」
「では結果をどう考えます。結局天さんは、その事件に乗じてお嬢様を手にいれているというのに」
 雪村は一呼吸あけてから、微かに息を吐いた。
「氷室さんは、ただ善意と愛情で、水南さんの苦境を助けたとは思えませんか」
「……善意と、愛情?」
「ええ。実は僕らは、以前こちらに勤めておられた中村須磨さんから、氷室さんと水南さんはかつて真剣に愛しあった仲だと聞いたんです。――それは、決して氷室さんの一方的なものではないと、須磨さんはそうおっしゃっておられました」
「若気の至りというのは誰にでもあるものです」
 冷静に志都は遮った。
「このお屋敷に若い男性は天さんしかいませんでしたからね。厳しいお父上への反発もおありだったでしょう。いずれにしても、一時期かかる熱病のようなものでした」
「……水南さんにはそうでも、氷室さんにはそうではなかったのかもしれません」
「ええ。そうでしょうとも。若い2人がのぼせ上がった挙句、馬鹿な駆け落ちを目論んだことはお聞きでは? お嬢様はすぐに目が覚めたようですけど、天さんはいつまでもお嬢様への未練を引きずっていたようですからね」
 雪村が微かなため息をついた。
「……僕が言いたいのは、氷室さんの中に、意に沿わぬ妊娠をした水南さんを助けたいという、純粋な愛情もあったのではないかということなんです」
「愛情」
 驚いたように目を見開いた志都の顔に、初めてはっきりとした笑いが広がった。
「それだけはないと私が神にかけて断言します。善意、愛、あの冷酷な悪魔にはまるで似つかわしくない言葉ですわ」
「――っ、私にはそうは思えません」
 たまらず、成美は口を挟んでいた。
「愛がなかったなんて思えない。自分の子でないと判っていて親になる覚悟は、どんなにお金を積まれても簡単にできることじゃないでしょう」
「ええ、もちろんその通りですとも! あの男が、父親としての義務をひとつとして果たしていないのがその証でしょう。会うこともなかった。手紙ひとつ書くことさえも。ただ籍をかりそめの宿として貸しただけです」
「それは、――それは水南さんがそう望んだからじゃ」
「だとしても、目を背けて逃げ続けたのは、あの男の最大の罪です!」
 何故かひどく痛いところを衝かれた気がして、一瞬、成美は言葉を失った。
「あの狡猾な父親に似て頭だけはいい男です。その気になれば全てを知り得る力があることは私などでも判ります。でも、そうはしなかった。この7年間! 一度たりとも!」
 激しい口調で言って、志都は両手を握りしめた。
「あの売女の娘が、お嬢様をとんでもない目にあわせた時も、とめることができたのは天さんだけだったでしょう。けれどそうはしなかった。それは天さんの罪も同然ではないですか!」
「――勝手だわ」
 今の状況も忘れ、成美は思わず感情的になっていた。
「そんなの――氷室さんだって万能じゃない。できないことだってあるに決まってます。それに、最初に氷室さんを置いて逃げたのは水南さんじゃないですか。ご両親が亡くなった日に氷室さんを1人きりにしたのは水南さんじゃないですか。なのに――その水南さんを助けられなかったからって、何もかも氷室さんのせいなんですか!」
「おだまりなさい!」
 強い口調になった志都の顔に朱が走る。
「お嬢様を軽々しく批判することだけは私が許しません。何も知らない他人が、お嬢様の何を知っているというのでしょう。いいえ、知りうるはずがございません!」
「あなただって、氷室さんのことを何も」
「よせ」
 雪村が短く言って成美の腕を掴んだ。
 はっと我にかえってみると、腰の辺りで握りしめられた志都の拳が、ぶるぶると震えている。
「あの男は――」
 言葉が途切れ、歯ぎしりが聞こえた。顔を再び朱にそめて、志都は続けた。
「あの男は、私の大事なお嬢様の人生を、滅茶苦茶にしたのです。あの男さえこの屋敷に現れなかったら、お嬢様の不幸はなかった。美しい顔をした悪魔! ええ、あの男は相応の罪を受けたのです。あの男も、あの男の妻も!」
 え?
 あの男の妻――?
 志都は錯乱しているのか、まくしたてるように続ける。
「あなたがたは、お嬢様の身に起きたことそのものを疑っているのでしょう。ええ、あの男もなかなか信じようとはしませんでした。それどころか、あたかもなにもかもお嬢様の企みだったかのようにさえ考えていたくらいです。――確かにお嬢様は頭の良い方で、容易に他者の思惑通りにはなりはしません。けれどあの夜、あの夜起きた悲劇だけは現実のものなのです」
 不意に強くなった風が、がたがたと窓を揺らした。

 
 
 




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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。