腕時計を見て、成美は微かに溜息をついた。午前2時。
「……なぁ、代われよ」
 少し離れた場所から雪村の声がした。
「なんで俺が壁際ばかりで、お前が中なんだよ。不公平だろ」
「やですよ。だって壁には怖い絵があるじゃないですか」
 2人が――というより成美が一方的に決めた役割分担は、壁側にそった外周の本棚を雪村が、内側を成美が探す――というものである。
 できるだけ絵が目に入らない場所にいたかったのだ。不気味な絵も、この世のものではないほど美しく描かれた後藤水南の肖像画も、どちらも目にしたくなかったから。
 水南の思念に飲み込まれそうだという不安もある。それもあるが、単純な恐怖心もある。
 なにしろ、ただっ広い部屋なのだ。そのくせ照明はさほど明るくなく、夏前だというのに何故かひんやりと冷えている。
 外は暗夜。屋敷は何年も無人で、迷信とはいえ不気味な言い伝えが残っている。向井志都が外に出たきり戻ってこないから、今いるのは雪村と成美の2人だけだ。
「俺だって怖いんだよ。2時だぞ? 丑三つ時だ。ほんとに何かが出そうな気がする」
「ちょっと! 怖いこというのやめてくださいよ」
「今、俺の背後になんの絵があると思う。絞首台にのった血まみれの」
「マジでやめてくださいってば!」
 ちょうど見ている本棚がホラーばかりというタイミングの悪さ。成美は半ば本気で悲鳴をあげていた。
 とはいえ、少しばかり、成美は後藤水南という女性に親近感を覚えるようになっていた。
 書棚は彼女の年齢によってがらりと趣が変わっている。哲学書や心理学の本ばかり読んでいた時期もあれば、大衆文学を読みふけっていた時期もある。
 先ほど見た棚は、海外のロマンス小説が大半を占めていた。ほんの一時期だが、この人もそんなものにはまっていた時期があったのだ。
 ――と、そんな感慨にふけっている場合ではない。
 休むことなく相当数の棚を片端から確認しているものの、いまだそれらしい本は出てこない。というか、何がその本かさえわからないのだから、ただ表紙の色とタイトルを眺めるだけのとりとめのない作業である。
 夜明けまであと数時間。ただ疲れと虚無感だけが募っていく。作業がひどく単純なせいもあるのかもしれないが、感覚的に、こうしていればいつかは見つかる――という手応えみたいなものがまるで感じられないのだ。
「なんか思いっきりあてが外れた気分だな。先があると信じてここまで来たけど、――何もなかったらどうするよ」
 雪村の疲れきった声がした。
「何かあるに決まってますよ。だって」
 と言いつつ、成美にしても、フォローの言葉もでてこない。
「……だって鍵が、残されてたし」
「本当に、ただ忘れてただけだったりして」
 ひどく近くで声がした。振り返ると雪村が書棚に背を預けて立っている。
「いまさら、足元がひっくり返るようなこと言わないでくださいよ」
「そうかな。現実なんてこんなもんだろ」
 溜息をついて、雪村は一番手前の棚から本を一冊抜き出した。
「どうでもいいけど、このペースでいくと朝までかかっても全部確認するのは不可能だぞ」
 それは判ってますけど……。
「とてつもなく無駄なことをしてるって気がしてしょうがない。氷室さんは年末、一体どんな気持ちで1人きりで本探しをしたんだろうな」
 亡き妻の愛したものたちに囲まれながら。
 彼女の生きた証たちに囲まれながら――
「……お前には悪いが、頭の中は、水南さんのことで一杯だったろうな。そうでなくても、この部屋にくればいつかはそうなる。思い出が胸にあふれて、きっと、身動きもとれなくなる」
「…………」
「本探しは、もしかしてそれが目的かな。だとしたら、あながちお前の妄想もデタラメってわけじゃない。水南さんは黄泉の世界から、見事に元だんなの後ろ髪をつかみとったわけだ」
 そうかもしれない。
 でも――それでも氷室さんは、一度は私のところに戻ってくれた。それが、再び消えてしまったのは……
「……それって、本当に本なんでしょうか」
 本棚に視線を巡らせながら、成美はふと呟いていた。
「え?」
「水南さんが探して欲しいと言い残したもの。だって、作者名もタイトルもないって、本としてありえないですよ。手作りの本ならともかく」
「ま、そりゃそうだが」
 雪村も思案げに顎に手をあてた。
「……本だけど、本じゃない」
「でも、本の形はしている」
「日記とかかな。もしかして」
「だったら最近のものですよね。年代の新しいものから順に探してみましょうか」
「というより、それが日記の類なら、本当に書棚にあるのかってことだ」
「……え?」
 成美が視線を向けると、雪村は少しだけ眉を寄せた。
「だってここの本は、お嬢様が買った順に並んでるんだろ? つまりある意味ジャンルわけよりも厳格なルールがあるってことだ。その中に日記なんか混ぜ込まないだろ。普通」
「……まぁ、確かに」
 今まで見た中にも、世間一般的に「本」――「書籍」といわれるもの以外は一冊も混じっていなかった。
「本って、向井志都さんは言ったよな。でも確かにお前の言うとおり、タイトルも作者名もないなんて、普通の本だとは思えない。つまり日記かアルバムが本の形態をとっているという意味かもしれない。それでも本というワードが出て来た以上、誰だって最初に探すのは、この書庫だ」
「そうですね、確かに」
「つまり――お嬢様は、この部屋に氷室さんを招き入れたかった。書棚を氷室さんに見て欲しかった。そういう理屈にならないか」
 なんのために……?
「……自分を、思い出してもらうため?」
「思い出させて、それで?」
 それで?
 成美も眉を寄せていた。
「さっき雪村さんが言ったように、もう一度氷室さんの心を掴むためでしょうか」
「だとしたらその試みは失敗した。氷室さん、この家を逃げ出して、正月休み中のお前のところに行ったんだろ」
「まぁ、そうです」
「でも――それもまた、予想された行動だとしたら?」
「そこまで水南さんが予測していたっていうんですか」
 静まり返った室内に、時計の音だけが響いている。
 成美の手肌にいつの間にか鳥肌がたっていた。
「そんな馬鹿な。いくらなんでもあり得ないですよ。――そんな……」
 もう半年も前に亡くなった人に、そんな真似が。
「ま、あり得ないよな。ちょっとオカルティックな気分になっちまった。きっとこの部屋のせいだ」
 雪村は自分自身に呆れたように笑ったが、成美は笑う気にはなれなかった。
 氷室は、計ったようにその翌日、成美と紀里谷のいる野槌駅に来た。
 紀里谷の姉、葉月によると、紀里谷の車に装備してある追跡装置から位置を把握し、車を――紀里谷を追いかけてきたのだ。
 偶然? もちろんそうに決まっている。あの日安治屋駅に向かったのは、成美が前日から1人で決めていたことで、他人がその内心を知るよしはない……
 黙りこむ成美を見て、雪村は微かな息をついた。
「氷室さんが本を探し出せたかどうかは、本人にしか判らない謎だろうな」
「そう……ですね」
「うまく言えないが、俺は見つけられなかったんじゃないかと思う。見つけた本をそのまま残すってのがどうにも不自然な気がしてしょうがないんだ」
「まぁ、確かに」
「――結果的に、この書庫に何もなかったとして」
 周辺を見回しながら、雪村が言った。
「なかったとしても氷室さんは、その場合、本がどこにあるのか――ある程度予想がつかなきゃいけないはずだ」
「どういうことですか」
「あれだけ曖昧なヒントで物探しをさせるって以上、水南さんと氷室さんにしか判らない何かがあるんだ。2人にしか判らない隠語、……思い出……ワード……」
 雪村は両腕を胸で組み、確信に満ちた表情で頷いた。
「だから結論から言えば、俺たちが本を探すのは、無理だ」
「ちょっ、それ、本当にデッド・エンドってことじゃないですか」
「そういうこと」
「ちょ、そういうことって、どや顔で言われても」
 雪村は少し真剣な目になった。
「というより、そこはもう他人が踏み込める領域じゃないんだ。それが水南さんと氷室さんの2人にしかわからない場所だとしたら、他者が関わるべきじゃない。……そうは思わないか」
「…………」
 他者が、関わるべきではない。――
 今の自分の、曖昧な立場を思い知らされたようだった。黙る成美に気付いたのか、雪村がとりつくろったように咳払いをする。
「いや、この場合お前が無関係かどうかはわからないぞ。それに――実際の所、この部屋にヒントが残されてる可能性の方が高いんだから」
 書棚を仰ぎ見ながら雪村は歩き出した。
「そうじゃなきゃ理屈にあわない部分もある。水南さんは氷室さんをこの部屋に招き入れたかった。それが年末のことで、部屋に入った氷室さんは、年明け早々に、この屋敷に関わる何かの鍵を灰谷市に残して、消えた」
「……つまり、氷室さんは……私にこの屋敷に来て欲しかったんですよね」
「そう。そして来た以上、氷室さんが最後に過ごしたこの部屋にたどり着くことになる――かなり強引なこじつけだが、そう思わなきゃデッドエンドなんだろ」
 雪村の言い方もやけくそ気味だったが、成美もまた、途方に暮れて天井まで届く書棚を見上げた。
 万の本と不気味な西洋絵画に埋もれた部屋。見れば、何かがわかるというのだろうか。でも、それは――あまりに果てしない作業だ。
「本を一冊一冊中まで確認するのは無理だ。そんな時間はないし、氷室さんにもなかったはずだ。だとしたら――なんだろう」
「……絵でしょうか」
「……俺も、同じことを考えてた」
 2人はしばし、憂鬱な視線を交わし合った。
 
 
 ひとまず2人は入り口に戻り、壁の絵に沿って歩き出した。
 一番手前が、ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」だ。最初にも思ったが、こんなもの二度と見たくはない。
「これって、間違いなく手前に凄いのが集められてますよね」
「お化け屋敷の客寄せパンダか。はたまた部屋を護る番犬か。俺なら、絶対にこんな部屋に近づかないぞ」
「私だってそうですよ」
 死と狂気、恐怖と残虐。
 そんなイメージの西洋画が、灰色の壁を不気味に彩っている。
 判らない。本当にこんな奇怪な絵を、水南という人は愛したのだろうか。なんだか、彼女が集めた本の嗜好とは合わない気がする。
 書棚を見る限り、彼女はグロテスクなものを好んでいたわけでも、オカルト趣味だったわけでもない。本の分野は幅広く、彼女が様々なジャンルに平等に興味を持っていたことが窺える。
 なのに――絵の趣味は偏っている。
「この辺りから、ちょっと趣が変わってきてるんだ。水彩画だ」 
「え?」
 別の方角を見ていた成美は、雪村の視線を追って壁の絵を見た。
「俺は壁際の絵をひと通りみたからな。ここまでが名のある画家の西洋画で、ここから先は作者不明。灰色一色で描かれた風景画ばかりだ。全部同じ絵で、ある意味手前の絵より鳥肌もんだぞ」
「そ、そうなんですか」
 ややおぞけをふるいながら視線を移した成美は、思わず小さな声をあげていた。
「嘘……」
 これは――― 
 この絵は――
 灰色一色の色彩。白い空間が殆どで、その片隅に鳥瞰した家の屋根がぽつんと描かれている。
 複雑な台形が重なりあった灰色の屋根……
「どうした、日高」
「……雪村さん、私……この絵を、見たことがあります」
「え?」
「……これ……この家……、多分だけど、この家です」
「この家?」
「……屋根の形……、この屋敷を……母屋を、上から見下ろしたものなんです」
「なんでお前にそんなことが判るんだよ」
「だって、見たじゃないですか、一緒に」
「? なにを」
「グーグルアース。このお屋敷の鳥瞰図を、ネットで見たじゃないですか!」
 成美は思い出していた。
 灰谷市役所で、後藤邸をグーグルアースで初めて見た時、どこかでみた屋根の形だと思ったのは何故だったか。
 それは、一度見たことがあったからだ。
 あの日、氷室と会った最後の日、安治屋駅で。
 駅にかかっていた灰色一色の寂しい絵画。それが、後藤邸の鳥瞰図だったのだ。
 間違いない。
 今目の前にある水彩画は、安治屋駅の絵を描いた作者と同一人物が、同じ風景を描いたものだ。
「……でも、どうして」
 呟いた成美は、壁にかけられた絵を次々と見ていった。
 同じ風景画が全部で20枚。その全てがひとつのオリジナルを模倣したようにそっくりだ。
 どうしてこれと同じ絵が、安治屋駅にかかっていたのか。
「お前の記憶を疑うわけじゃないが……確かに屋根の形がそっくりだな」
 呟くように言った雪村は、いつの間にか端末画面に視線を向けていた。
「この屋敷を鳥瞰して描いたもの、か……。最近描かれたものじゃなさそうだが、航空写真でも参考にしたのかな」
「若干斜めから見下ろした絵ですから、航空写真じゃないですよ。――もし、実際に見て描いたものなら、どこか高台から」
 言いかけた成美は、そこではっとして雪村を見ていた。
「も、もしかして例の山頂の別宅じゃないですか? 水南さんのお母さんが療養してたっていう。中村須磨さんが言ってたじゃないですか」
「……マジかよ」
 低く唸った雪村が、ふと何かに気付いたように視線を他所に向けた。
「ここ……ちょっと壁の色が違ってるな」
 絵の1枚に歩み寄った雪村が、背後の壁を指でなぞった。
「壁紙がわずかに変色してる。もしかすると、最近になって絵の配置を変えたんじゃないかな」
「……変えたんじゃないんです」
「え?」
 言葉を濁し、成美は雪村から視線を逸らした。
 変えたんじゃない……多分、――この中の1枚だけが、意図的に別の場所に移された。 
 安治屋駅。
 5月に2度目に行った時、もうこの絵はかかっていなかった。
 だから駅構内を見回した時、奇妙な違和感を覚えたのだ。
「……雪村さん、もしかすると、これがヒントなのかもしれません」
「ヒント?」
「……絵。配置が変わってるなら、氷室さんだって、当然おかしいと思いますよね」
 何故か安治屋駅のことだけは雪村に言いたくなくて、成美はそんな曖昧な言い方をした。
「……雪村さん、山頂の、水南さんのお母さんが療養していたっていうお屋敷に、行ってみませんか」
「っ、おい、冗談だろ。それって十中八九、さっき話した悪魔伝説の発祥の場所だぞ!」
 眉をあげた雪村が青ざめる。
 後藤家の祖先、トワという女性が悪魔と交わったとされる場所。
 成美は、眉を寄せて唇を軽く噛んだ。
「……もし、もしですけど、絵が描かれた場所が山頂なら、そこに何かがあるような気がして。それに鍵……いまさらですけど、あれだけ古い鍵は、近年の住宅のものじゃないですよ」
「……その可能性は、俺も考えたが……」
 雪村が難しい目をして黙りこむ。
「まいったな。全く行きたくないが、その線が強いような気がしてきた。というのも向井志都さんだが、俺と別れた後、上着を着込んで勝手口から出て行ったんだ。この暑いのに一体どこに行くんだろうと不思議に思っていたんだが……」
「山を登りにいったんでしょうか」
「……そんな気がしてきた。となると行き先は、今お前が言った場所なのかもな」
 雪村は再び黙りこむ。
 仮にそうだとしても、そんな危険な場所に成美を連れて行っていいものかどうか思案しているのだろう。
 成美はまだ、呆然としていた。
 やっと判った。
 あの日、安治屋駅で、氷室はこの絵の存在に気がついたのだ。
 氷室の両親が死んだ安治屋駅に、後藤家を描いた絵が飾っている。
 それはおそらく、水南が氷室にあてた、彼にしか判らないメッセージだったのだ。――
 
 
 




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