「……図書館……」
 重い扉が、きしんだ音をたてて開いた途端、成美は思わずつぶやいていた。
 古い本が持つ独特の臭いがしたのと、天井まで届く高い書棚が見えたからだ。
 実際、それは書棚だった。幾筋もの書棚と、そこにぎっしり詰められた本の量に、成美は足がすくむような威圧感を覚えた。一体どれほどの蔵書だろう。個人が収集する域をはるかに超えているようにも思える。
「すごい量だな」
 隣で雪村も、圧倒されたように呟いた。
「冗談だろ、まさか――この中からタイトルも何も判らない本を探すのかよ」
 先にたって書棚の列の中に消えた雪村の、呆れたような声がした。
「しかも、見ろよ。色んなジャンルがひとつの棚にごちゃまぜになっている。この棚は医学書と犯罪学が半々で、次の棚は経済書……音楽史、詩集、宗教学。――こうも無秩序だと一度収めた本を探すのは至難だぞ」
「全て、お嬢様が好んでお集めになられたものでございます」
 成美の背後に立つ志都が、室内全ての電灯をつけてくれた。
 明るくなった室内で、再び成美は圧倒された。広い――とてつもなく広い。そして見渡す限り天井まで届く書棚が並んでいる。一体何冊の本かあるのか見当もつかないほどだ。
「私が読み聞かせた童話から、このお屋敷で最後にお暮らしになった年まで。お嬢様のお求めになった本は一冊残らず、全て順番通りに残しております」
「順番、というのはどういう」
 一番手前の書棚を見上げながら、呆然と成美は訊いた。見る限り全て外国の原書で、成美に理解できそうなものはひとつもない。
「言葉通り、水南様のお買い求めになられた順番です。水南様は一冊残らず本の配置をご記憶で、迷うことなど一度たりともございませんでした」
 氷室と一緒だ、と成美は思った。
 氷室もまた自ら書痴と自称する通り、異常なまでの本の収集癖をもっていて、一度読んだ本は、内容も、収めた場所も、ほぼ完璧に記憶している。
 けれどそれは、この書庫の圧倒的な物量の前にはごく常識的な量にすぎず、また――彼が何に影響されて本を収集するようになったのか、それもこの部屋が全て雄弁に物語っているようだった。
 氷室の人格は――その一部は、紛れも無く水南に強い影響を受けて形成されたのだ。
 初めて彼の部屋に入った時、彼がひどく躊躇しながら書庫を見せてくれたことを、成美は目が覚めたような気分で思い出していた。
 その時も不思議に思った。書痴と自身を卑下していたが、本を多く読むことは別に恥ずべき趣味ではない。なのに彼は躊躇した――多分、私に見せることに、無意識のためらいを覚えたのだ。
 何故ならその書籍の山の中に、彼は水南の幻影を見出していたから――
 わからない。
 彼は水南から逃げたかったのだろうか。
 それとも、心のどこかで飢えたように彼女を求めていたのだろうか。私と過ごしたその時にも、ずっと。
「……随分掃除が行き届いてますね。どの棚をみても埃ひとつない」
「それが私の仕事ですから」
 雪村と志都の会話が、成美を現実に引き戻した。
「お嬢様ほどではございませんが、私もこの部屋の本の配置と数なら、ほぼ正確に記憶しております。毎日掃除しておりますから、自然に覚えてしまうのです。私の記憶する限り、天さんがお屋敷に戻られた前と後では、本の数にも配置にも、ひとつの違いもございませんでした」
「……つまり氷室氏は、本を持ち出さなかった、ということなんですね」
「それは間違いないかと存じます」
 書棚の影から出て来た雪村が、成美を見て眉を寄せた。
「どうしたよ、ぼんやりして」
「……いえ、圧倒されて」
「まぁ、確かにすごいよな」
 雪村は頷きながら成美の傍らに立つと腕を組んだ。
「ざっとみたけど、原書はあるわ専門書はあるわ。正直、難解な本ばかりだ。さすがの俺も歯がたたない。後藤水南ってのは、ただのブルジョアお嬢様じゃなかったんだな。趣味で集めたのならともかく、内容を理解して読んでいたんだとしたら、―― 一種の天才だよ」
「……そうみたいですね」
 ただそれは、僕より頭のいい人が隠してしまったものなので――
 氷室の言葉は、嘘でも比喩でもなく本当だった。
 後藤水南は、氷室の上をいく頭脳の持ち主だったのだ。
 敵わない。
 雪村の後について歩きながら、成美は自分が、何かひどく途方もないことに挑んでいるような気持ちになっていた。
 これだけの本を読み、氷室をして自分より頭がいいと言わしめた女。
 生涯に渡って氷室の心を縛り続け、そして今でも振り回し続けている女。
 あの氷室でさえ、敗北を認めて逃げるしかなかった女――
「……ひどく、気味の悪い絵ばかりだな」
 雪村の言葉につられるように顔をあげた成美は、壁のかけられた巨大な絵を見て、思わず眉をひそめていた。
「ゴヤだな。昔美術館でレプリカを見たことがある。これもお嬢様のコレクションだとしたら、相当な悪趣味だぞ」
 裸の巨人が、子供を鷲掴みにして貪り食っている絵だ。その隣には、黒一色で描かれた一つ目の怪物が薄ら笑いを浮かべている絵がある。
「ルドンだ。これも内面のひとつだっていうなら、絶対に病んでる」
 その隣には、複数の女が1人の男を押さえつけて刃で切りつけている絵。
 壁には、そんな奇怪な西洋画が、隙間を埋めるようにして延々と飾られている。
 怖い。
 よく判らないけど、この部屋の空気に、自分の存在そのものが飲み込まれそうな気持ちになる。
 この部屋の主はもう亡くなっているはずなのに、その存在感に圧倒されそうになる――
 気づくと、雪村の背が壁の前で止まっている。
 ――雪村さん……?
 顔をあげた成美もまた、そこで動きを止めていた。
 目の前の壁に、いきなり女の顔が現れたからだ。
 透き通るような白い肌。黒く潤んだ大きな瞳。薔薇の花芯のような淡い唇――
 それは1枚の水彩画だった。
 14か、15くらいだろうか。朝露のように瑞々しい少女の笑顔が、成美の心の奥深くにいきなり強く刻印されたようだった。
「お嬢様です」
 背後で、志都の誇らしげな声がした。
「中国の高名な画家を呼んで、お嬢様が16の年に描かせた肖像画でございます」
 あれほど身近だった後藤水南という女の顔を、迂闊にも、今、初めて見てしまったことを、成美は知った。
 これほど、美しい人だとは思わなかった。
 単なる顔の造りの問題ではない。存在そのものから、光のオーラが溢れ出ているかのようだ。
 それだけではなく、心の清らかさや優しさ、そして深い悲しみのようなものも、この少女の微笑みからは窺い知れる。
 あれほどに氷室を苦しめたはずの女なのに、この絵の少女からは、邪気というものがひとつも感じられない……。
「……他の絵とは、随分趣が違っていますね」
 控え目に、雪村が訊く。
「他の絵は、本同様に水南さんが収集されたものですか」
「……大層恐ろしげな絵があるため、誰もこの部屋には入りたがりません。だんな様など扉に近づきもなさいませんでした。ですからお嬢様は、このお部屋を天さんとの逢引の場所に使っておられたのですよ」
 淡々と答えた志都の視線が、挑発的に成美に向けられる。
「天さんも、お嬢様の肖像画だけは大層気に入っていて、お嬢様がお屋敷を留守にしておられる時など、いつも絵の下に佇んでいたものでした。何時間も――飽きることなく」
 最初から判っていたはずだった。
 私は水南さんには敵わない。
 どこをどう比べたとしても、きっとなにひとつ優っているところはない。
 こんな人相手に、私は一体何をしようとしているんだろう。
 私は一体、なんのために、ここに来たんだろう。――
 
 
                  6
 
 
「なにボケッとしてんだよ」
 ごんっと頭を叩かれて、成美はようやく我にかえった。
「安心しろ。誰もお前とお嬢様を比べたりなんかしてねぇよ。――違いすぎて」
「な、なんですか、それ」
 ようやく痛みが知覚される。成美は叩かれた頭に手をあてた。
「てか、今の、めっちゃ思い切り……すんごく痛いんですけど」
「ブスがいっちょまえに落ち込んでるからだ。落ち込むってことは、ある程度自分に自信があるってことだが、そっちの方が驚きだよ」
「……慰めてんですか。それともトドメさしてんですか」
「後者に決まってんだろ」
 ほんっと腹立つ。
 なんだって私の周りの人たちは、こうも口が悪くてデリカシーってやつがないんだろう。
「こんな馬鹿に嫉妬するしかない向井さんにいたく同情するよ。お嬢様も、きっと今頃草場の影で泣いてるな」
「すみません。私、今、マジで落ち込んでんですけど」
「なんで? お前は生きてて、ここはお嬢様の墓場も同然の場所なのに?」
「…………」
「生きてる人間が死んだ人間相手に、落ち込んでどうするよ。悔しいのは、むしろお前みたいな凡人に元旦那を奪われたお嬢様の方だろ」
 成美は黙って視線を下げた。その通りだ。
 でも――それでも――
 水南さんの思念は今でも生き続けていると思うのは考えすぎだろうか。
 今でも氷室さんの心の奥深くに根を下ろし、息づいていると思うのは。
 それでも雪村から一撃をくらったせいで、成美の気持ちは随分軽くなっていた。
 そうだ。ここまで来て、もう迷っている場合じゃなかった。
「向井さんは?」
「出てった。なんか用事があるとかいって。なんのお構いもできませんが、泊まりたいならお部屋を用意していますってさ」
「……ありがたい申し出ですけど、寝てる暇は」
「ないだろうな」
 ここから――この本の山の中から、タイトルも作者名も判らない本を探し出す。
 成美は途方に暮れる思いで、雪村を振り返った。
「向井さんの言ったこと、本当だと思います?――タイトルも作者名も判らない本とか」
「嘘だとしても、確かめる術はない」
「じゃあ本当だと仮定して――、一体なんの目的で、水南さんはそんな謎かけを残したんでしょう」
「そんなの、俺たちが何時間かけて考えたってわかるもんか」
 雪村は肩をすくめた。
「――きっと、氷室さんには意味があるんだ。そうだとしか思えない」
 つまり氷室さんだけには通じるヒントだってことだろうか。
 青い表紙、タイトルも作者名もない本。
「……私たちに、探せると思います?」
 雪村は軽く息を吐いた。
「まぁ、腰を据えて探したとしても……これじゃ1週間かけても無理だな」
 見たところ本は1段に2列。しかも順番は買った本人にしか判らない。まさに途方に暮れるような作業だろう。
「でも、やってみるしかない。ここで何も出なきゃデッド・エンドだ」
「そうですね」
 仕事を休めない以上、タイムリミットは明日1日。屋敷はいつ取り壊されるか判らない――無理だとか言ってる場合じゃない。


 
 




 >next  >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。