5
 
  
 主よ、あなたを愛するのは、
 あなたが天国を約束されたからではありません。
 あなたに背かないのは、
 地獄が恐ろしいからではありません。
 主よ、私を引きつけるのは、あなた自身です。
 私の心を揺り動かすのは、
 十字架につけられ、侮辱をお受けになった、
 あなたのお姿です。
 あなたの傷ついた、お体です。
 あなたの受けられた、辱めと死です。
 そうです、主よ、
 あなたの愛が私を揺り動かすのです。
 ですから、たとえ天国がなくても、
 主よ、わたしはあなたを愛します。
 たとえ地獄がなくても、
 わたしはあなたを畏れます。
 あなたが何も下さらなくても、わたしはあなたを愛します。
 望みがかなわなくても
 私の愛は変わる事はありません。
 
 

「それは、十字架上のキリストへの祈りです」
 成美は、はっとして振り返った。
 気づけば扉が開き、灰色の髪を後ろでひとつにまとめた痩身の女性が立っている。
 向井志都。以前一度だけ玄関で会った。の屋敷の管理人で、後藤家で長年使用人をしていた女だ。
「キリストの祈りですか」
 振り返って訊いたのは、成美の傍らに立つ雪村だった。
 志都は答えず、押してきたカートをテーブルの傍らにつけて、お茶の用意をし始めた。
 後藤家の1階。30畳ほどもあろうかという広い客間。外からは今も、重機のたてる重い音が響いている。
 成美と雪村は顔を見合わせ、最初に勧められたソファに腰を下ろした。
「イエス・キリストが祈った言葉ではございません」
 お茶の用意を終えた志都が言った。
 年の頃は60代後半か、70の初めだろうか。灰色の髪に、白濁した目。鼻は極端な鷲鼻で、がっしりした顎は中央が割れている。日本人というよりイギリスの老婦人のようだ。
 玄関で成美を出迎えた時から、その表情にはまるで変化がない。蝋で固められた人形のような顔をしている。
「十字架にかけられたイエス・キリストに、フランシスコ・ザビエルが捧げた祈りの言葉でございます。生前のお嬢様が、好んでお読みになられていたものです」
 フランシスコ・ザビエルは、確か日本に来た宣教師だ。歴史の授業で習った気もするが、キリスト教徒でない成美には、それ以上のことは判らない。
「……水南さんは、本当に熱心なキリスト教徒だったんですね」
 雪村の呟きには答えず、志都はわずかに微笑を浮かべた。その笑い方が、肯定というよりは、むしろ侮蔑に近いように思えたので、成美は眉をひそめていた。
「この母屋の取り壊しは、いつ頃を予定されておられるんですか」
 室内を見回しながら、雪村が切りだした。
 大きな家具にはあらかた布が被せられ、それがロープで括られている。壁には、かつて絵画でもかかっていたのか、ところどころ変色した箇所が目立つ。
 いかにも引っ越し間近の屋内である。ただ建物の周辺は相変わらず以前来た時のままで、取り壊しの準備作業にすら入っていないことは明らかだ。
「生憎、まだ日付までは決まっておりません」
 茶の支度をしながら、淡々と向井志都は答えた。
「屋内の家財のいくつかは非常に価値があるもので、旦那様がその所有権を主張なさっているのです。この件について天さんと合意しない限り、家財の処分は一切許さないと――そうおっしゃっておいでですから」
「屋内の家財について、氷室氏は」
「すでに放棄書を書かれて三条様に渡しておいでです。つまり、旦那様が家財を引き取ってくれれば済む話なのですが、あれこれ口実をつけてそうはなさいません。結局のところ、旦那様はこの屋敷の取り壊しに反対なのです」
 旦那様――もちろん氷室を指した言い方ではないだろう。参議院議員で、この屋敷の先代当主後藤雅晴のことである。
 先月、一度だけこの屋敷の前で遭遇した。ひどく尊大で、周囲を気にすることなく怒鳴っていることをのぞけば、中肉中背の、ごく平凡な容貌をした男だった。特徴のない平坦な顔は、今思い出そうとしても難しいくらいだ。――その男が、屋敷の取り壊しに反対している。
「失礼ですが、それは一体、どのような理由で?」
「さぁ。なにかしらの思い入れでもあるのでしょうが、私にはわかりかねます」
「誰でも、生まれ育った家が壊されるとなると抵抗する気持ちがあるとは思います。……向井さんには、思い入れのようなものはないんですか」
「…………」
 その質問は、能面のような女の手を一瞬だけ止めさせた。
「ないわけがございません。だからといって、この屋敷の何かを主張する権利が私にあるわけではございませんから」
 それに旦那様は婿養子で、この家で生まれ育ったわけではございません。
 淡々とそう付け加えると、志都は雪村に視線を向けた。
「いずれにしても、旦那様が家財を運び出してくださらない限り、屋敷の取り壊しはできません。旦那様は天さんと話し合いたいの一点張りですし、三条様も強行な真似などなさらないでしょう。少なくとも天さんが出てこない限り、膠着状態は続くかと思います」
「向井さんは、それまで毎日この屋敷に通われるのですか」
「当然でございます」
「……三条氏が、今のあなたの雇い主になるのかと思いますが――、三条氏は何故、用途もないのにこの屋敷を買い取り、そして性急に取り壊そうとなさっているのでしょうか」
「それがお嬢様の望みだったからでしょう」
「……水南さんの?」
「人はいずれ、いつかは消えます。私も天さんも三条様も、お嬢様とこの屋敷をよく知る者たちも皆、いずれ必ずこの世からいなくなります。お嬢様はそうなる前に全てを消してしまいたかったんでしょう」
 曖昧な言い方だったが、なんとなく志都の言うことは成美には理解できた。
 後藤家は曰く付きの家である。明治の昔に遡れば、どれだけ非人道的なことが行われていたか判らない。その秘密を唯一知る物証――この屋敷がいずれ誰かの手に渡り、秘密が暴かれる前に取り壊してしまいたい。つまりは、そういうことだろう。
「……それを、三条氏が引き受けたというわけなんですね」
 常識で考えれば他人がそこまでするのは異常だが、三条守の水南への思い入れが常軌を逸していることは、そう呟いた雪村も知っているはずだ。
「動機はわからないでもないですが、不思議な気がします。水南さんは、何故生前、ご自分でそうなさらなかったのでしょう」
「何故?」
 志都は眉を寄せ、初めて目に嫌悪をあらわにした。
「ご存じなければ申し上げます。この土地一帯の不動産を所有しているのは水南様でも旦那様でもございません。――天さんだからです」
 その厳しいいいように、雪村も面食らったのか、カップをおいて瞬きをした。
「失礼しました。てっきり氷室氏は相続で所有者になったとばかり――思い込んでいたので」
「お嬢様とご結婚する時に、天さんはその条件としてこの土地屋敷の権利を旦那様から譲り受けたのです。その時に天さんは旦那様と書面で約束を交わしています。決してお嬢様と離婚しないこと、決してこの土地屋敷を手放さないこと」
「…………」
「要するに結婚と引き換えに、天さんは後藤家が担う重荷の全てを背負わされたのです。最も天さんはその重さに少しも気づかず、ただ勝利者のように有頂天になっていましたけれど」
 軽蔑がここまで露わになった言い方もないだろう。
 成美はさすがにむっとしたが、この女の氷室への反感は承知しているつもりである。氷室は後藤水南に思い入れがある人たちから、ひどく憎まれているようなのだ。
「勝利者、といいますと」
 雪村が控えめに、質問を続ける。
「当然ご存知でいらっしゃいますでしょう? 天さんが旦那様の愛人の連れ子で、この家では使用人も同然だったことを」
 冷ややかに志都は続けた。
「その使用人が、水南様の夫になり、従前自分を見下していたもの全てを手に入れた――つもりになった。ですから勝利者のようだ申し上げたのです。実際天さんにとってお嬢様との結婚は、復讐以外のなにものでもなかったのですから」
「それは、違うんじゃないでしょうか」
 絶対に口を挟むまいと思っていたのに、そう言ってしまったのは成美だった。
 しまったと思ったが、その時には感情もまた止まらなくなっている。
「その……、以前ここでお勤めしていたという方にお聞きしましたけど、水南さんと氷室さんには……、2人の間には、きちんとした感情があったんじゃないですか。復讐だけなんて、それは絶対にないと思います」
「絶対なんて、よくも軽々しく口にできますね」
 微かに笑って志都は言った。
「何もご存知ないくせに――知らないからこそ、無神経なことも平気で言えるのでしょうけど」
「それは……どういう意味ですか」
「どういう意味か? お若い方にはまともな日本語も通じないのでしょうか」
 雪村がもうやめとけ、と言うような目で成美を見る。
 けれどその時には、成美ももう感じないわけにはいかなかった。向井志都の敵意は氷室にだけではない。最初から――多分出会う前から、成美にも向けられていたのだ。
「向井さん、今日の本題に入りましょう。鍵を持ってきました」
 その場を取り繕うように言うと、雪村が目で成美を促した。
 我に返った成美は、無理矢理に感情を飲み込むと、用意していた鍵を卓上に置いた。
 そうだ、今この人と言い合ってもメリットは何もない。何を言われても――ただ我慢するしかないのだ。
「向井さん、この鍵で間違いないですか」
「ええ。……間違いございません」
 頷いた志都の、能面にも似た表情に、初めて微かなさざなみが揺れたような気がして、成美は少しだけ意外さを感じた。
 それは初めて感じる、この人形のような女のぬくもり――体温のようにも感じられたからだ。
 志都は大切な宝物でも扱うようにそれを取り上げると、そっと掌に包み込んだ。
「随分古いものですし、今の様式とはまるで違いますが……その鍵は、一体なんなんですか」
 そんな志都の顔を見ながら、雪村が訊いた。
「どこの鍵かという質問なら、答える理由はないし、またその必要もないでしょう」
「そういう意味ではなく――失礼な聞き方だったら申し訳ありません。先月ここを訪ねた時、話すら聞いえてもらえずに門前払いされたのに、彼女が」
 そこで言葉をきり、雪村は一瞬だけ成美を見る。
「ここにいる日高が、氷室さんから鍵を預かっていると言った途端、対応が変わりましたよね。まるで予め、彼女がこの鍵を持ってくることを予想されていたような気がしたんです」
「……鍵は、必ず戻ってくると信じていたからです」
 鍵を食い入るように見つめたまま、呟くように志都は言った。
「だから、そんな不自然な態度に見えたのかもしれません。別にそちらの方が持っていると知っていたわけではございません」
「三条氏が、鍵は、氷室氏が勝手に持ちだしたものだと言うようなことをおっしゃっていました。つまり、この屋敷のどこかの鍵ということなんですね?」
 志都は答えない。
「三条氏は、鍵が戻らない限りあなたが取り壊しに同意しないとも言っていました。この屋敷は早晩取り壊される予定ですよね? 正直、鍵があろうがなかろうが、あまり関係ないようにも思えるのですが」
「申し訳ございませんが、これ以上あなたがたに説明する気はございません」
 早口でそう言いながら、白布で鍵を丁寧に包み込む志都を、雪村はしばらく黙って見つめてから、切りだした。
「では、氷室さんに何かを頼まれたということはないんですね」
「何かとは?」
「日高が鍵を持ってくるのを待つように、――とか」
「いいえ、まさか」
「……そうですか」
 手がかりは、この答えで途切れたも同然である。
 雪村は軽く溜息をついた。
「よく判りました。僕らの勘違いだったようです。氷室氏は単に、うっかりその鍵を持ちだして、再度うっかり自身の部屋に鍵を置き忘れたんでしょう」
 どこまでも低姿勢に見えて強烈な皮肉だったが、志都は答えずに、ガラスのような目で雪村をただ見るだけだ。
「それでも僕らが屋敷の中にまで入れてもらえたのは、何か特別な待遇のような気がするんですが……違いますか?」
「そう申し上げても、いいかと存じます」
「その理由をお聞きしてもいいでしょうか。――少なくともあなたは、ここにいる日高が、氷室氏の現在の恋人だとご存知だったんじゃないでしょうか」
「現在も、といっていいのなら、そうでしょうね」
 雪村から投げられた皮肉をすぱっと成美に投げ返してから、志都は冷笑した。
「では、あなた方を部屋に招き入れた理由を申し上げましょう。お2人が天さんの行方を探しているというのは以前お聞きしました。それは私も三条様も同じでございます。先ほど申し上げましたが、この屋敷の取り壊しが滞っているのは旦那様と天さんの話し合いがまだなされていないからなのです」
「……それで」
「その上で、あなた方は、天さんの行方を探す手がかりがこの屋敷にあるかもしれない――そう思っているのではないですか? 私も全くの同感で、できればその手がかりを天さんをよく知るあなた方に探してほしいとさえ思っているのです」
 さすがに成美は驚き、思わず雪村の横顔を見上げていた。この展開は――全くの想定外だ。
「実は天さんは、この屋敷に最後に戻って来られた時、ある物を探していたのです」
 はっと成美は目を見開いていた。
(探しものがあるんです)
(ただそれは、僕より頭のいい人が隠してしまったものなので)
「なんですか、それは」
 訊いた雪村に、志都は即座に答えた。
「本です」
「本?」
「青い表紙で、タイトルも作者名もない。それを天さんに探して欲しい――それがお嬢様の遺言で、天さんはその本を探すために、年末この屋敷に戻ってきたのです」
「…………」
 水南さんの、遺言。
 タイトルも作者名もない本――?
「結局天さんが本を見つけたのか見つけることができなかったのか、私には判りません。けれどもし見つけたのだとしたら――天さんが姿を消したきっかけは、もしかすると、その本だったのかもしれません」

 
 




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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。