「水南」
「――天」
 互いに腕を伸ばして抱きしめ合い、2人は夢中で唇を合わせた。
 春の夜、2人の頭上には下弦の月が浮かんでいる。
 柔らかくしなだれかかる水南の身体を存分に抱き締め、氷室は彼女の唇と舌を思うままに貪った。それに応じる水南のキスは、まだどこかぎこちない。それでも甘い吐息が、氷室をさらに深みへと誘っていく。
「……君の部屋に、行きたい」
 氷室が耳に唇を当てると、苦しげな吐息を漏らした水南は氷室の胸に頭を預けた。
「だめよ、天……。今夜は本当に勘弁して。外でこうして会うのだって、志都に反対されたのよ」
 それが女性の周期的なものだということは判っている。水南は避妊に関しては恐ろしく注意深く、危険日には絶対に氷室に近づこうとしないからだ。
「水南、一ヶ月も君に触れられなかった」
 春休みを利用した一ヶ月、氷室は後藤家の当主後藤雅晴に随行してヨーロッパを巡っていた。帰国したのはつい先程。まだ、ネクタイも解いていない。
 高校3年生の春、その頃になると氷室は後藤家の財政にまで立ち入れるほど、後藤の信頼を得るようになっていた。
 後藤は、氷室の家財を取り仕切る能力をいたく気に入ったようで、氷室は学生の立場にして様々な仕事を任せられるようになった。その中には決して表に出せない闇帳簿の管理などもあり、氷室は後藤が、これから先も自分を手放す意思がないことを暗に悟った。
 後藤の愛人だった母の待遇は、それに比例するかのごとく格段によくなった。今では離れに別宅を構え、内縁の妻も同様の扱いを受けている。
 かつて水南が言っていた。あなたの能力がお母様の立場をも安定させたと――、あるいはその通りなのだろう。
 その浅ましさと無知を憎みつつも、氷室にとって母はどうしても見捨てられない存在だった。いうなれば後藤は、それを十二分に承知しているからこそ、氷室に後藤家の命綱ともいえる財産管理まで任せるようになったのだ。
 母の命運を後藤が握っている限り、氷室が、決して裏切らないことを知っているから。
 しかし今、氷室をがんじがらめに縛っているのは、血を分けた母ではなく目の前にいる女性だった。
「水南……」
 もどかしいキスは、余計に氷室の熱を高ぶらせる。
 なのに水南は、弱々しく首を横に振り、氷室の胸を押し戻した。
「天……、お願い。もう部屋に戻らないと志都が」
「水南、君が怖れるようなことはしないと約束する」
 反論を遮るように水南を抱き上げると、氷室は密会場所と決めた裏庭のハナミズキから離れた。
 庭の南側に面して作られた、ガラス張りの温室に向かう。
 湿った生暖かい空気と温室の花々のむせるような香り。ベンチの上に降ろされた水南は、ようやく氷室の意図に気づいたようだった。
「天、待って。だめよ。こんなところじゃ、……っいや」
 ものも言わずに甘くしなる身体を組み敷くと、氷室は水南の着ているブラウスのリボンを解いた。
 半年前の秋、――あれが水南の仕掛けてきた罠だったのかどうかは、もはや知るすべがないが、あの夜を境にあらゆることが変わってしまった。
 美術講師だった成島襄は、秋が終わる頃には大学をやめ、それきり水南と会うこともなくなったようだ。氷室もまた、水南をのぞく全ての女関係を捨て去った。
 水南は二度、父親の勧めで見合いをしたが、そのいずれも氷室が裏で手を回して破談にさせた。
 敵の弱みを掴んでゆさぶるのは、氷室が小学校の頃から得意としてきた人心掌握術のひとつだが、それを権力を持つ大人相手にするには、当然犯罪行為にまで足を踏み込む必要がある。
 計画は完璧で、多少のミスが起きても上手く立ち回れる自信はあったが、もし発覚すれば、当然のことながら身の破滅だ。 
 氷室が踏み込んでしまった闇は、それだけではない。後藤が管理している水南の財産は、すでに現金化して水南の個人口座に移し替えている。後藤がそれに気づくためには、氷室が仕掛けた二重、三重のダミーを見破らなければならない仕組みになっているが、それは遠からず――確実に発覚するだろう。
 いずれにせよ、氷室を待っているのは、破滅なのだ。
「……天……」
 共に味わった快楽の余韻を追い求めるように、2人は寄り添い合っていた。
 水南の滑らかな腹部には、氷室の吐き出した欲情の証がまだ生々しく散っている。
 それが避妊の方法としては、極めて危険であることは判っていたが、氷室は自分を制しきれず、水南もまた、むしろ能動的に氷室の熱を受け入れてくれた。
「……怒らないんですか」
「どうして?」
「約束を破ってしまった」
 窺った水南の横顔は、温室のガラス越しの夜の闇を見つめている。不思議なほど、どこか穏やかな表情だった。
「天と今夜会うと決めた時から、覚悟はしていたわ。本当に嫌なら、殴り倒してでも逃げていたわよ」
 水南らしからぬ乱暴な物言いに、氷室は少し戸惑って眉をあげる。
「もういいわ……もう、どうでもよくなった。今夜は私が志都に怒られてあげるから、もう少し一緒にいて」
 温室の中はむせるような洋蘭の香りがたちこめている。氷室は、水南の背に脱がせた衣服をかけようとして、ふと手をとめていた。白い背に、一箇所だけ変色した筋が走っている。
「天はいつも、そこで視線をとめるのね」
「それは……気にならないといえば、嘘になりますから」
 肩甲骨の下を、縦に――長さして5センチ程度。
 鋭利なもので切られて、そしてそれを縫合した跡だ。
 この傷ができたのは今から5年前――水南がまだ14歳だった頃のことだ。大雪の夜、屋敷に侵入した暴漢に襲われたのだ。
 その日、氷室は母と共に母方の親戚の法要に出ていたため、後藤家を留守にしていた。むろん後藤家では大変な騒ぎになったらしく、今戻っても、かえって邪魔になるだけだから――という理由で、氷室と母は3日ほど親戚の家にとどまることになった。
 事件の全容を氷室が知ったのは、後藤家に戻り、当時の新聞を読んだ後だ。隣県側の山のふもとで暴力団同士の抗争があり、怪我を負った構成員の1人がこの山に逃げ込んだ。そうして、不幸にも1人で庭先にいた水南と遭遇したのだ――
 水南を切りつけて男は逃げ、いまだに逃走中である。性別以外の情報はないから、警察でも犯人を特定できていないに違いない。
 水南は一週間ほどして病院から戻ってきたが、背中に怪我をしていることは誰も口にしなかったし、そもそも暴力団員と遭遇した事自体が、秘密にふされた。
 嫁入り前の大切な娘にあらぬ噂をたてられることを、後藤が畏れたのだろう。警察が水南を聴取することもなく、全てはなかったことにされたままだ。
「……不思議だとは思わない?」
「不思議とは?」
 氷室の腕の中で、水南は滑るように体勢を変えた。
「この傷を私につけた男は、もう、この世にはいないかもしれない。でも、傷だけは、私と一緒に生きている。いつか、私の肉体が灰になるその日まで」
 水南の目は、もう氷室を見ていない。どこか遠くを見つめている。どこか――氷室が決して見ることのできない世界を。
「君のいう不思議の意味が、僕にはまるで判らない」
「そうでしょうね」
 再び氷室に視線を戻し、水南は静かに微笑んだ。
「私の中に、他人が何かを残したということが、それがすごく不思議な気がするの。……すごく」
 顔も名前も知らず、住む世界さえもかけ離れているその男に、氷室はその刹那、ものぐるしいまでの嫉妬を覚えた。
 こうも身体を重ね合いながら、自分は一度でも――水南の中に、何かを残したことがあるだろうか。
 水南をうつぶせにさせると、氷室は白い背に歯をあてるようにしてくちづけた。
「天、痕になったら、志都に叱られるわ」
「僕も、君を傷つけたくなった」
「どうして? 天ほど私を傷つけた人はいないのに」
 笑う水南を背中から抱き締め、氷室はその首に顔をうずめた。
「いつか僕の子を、産んでくれますか」
 水南は答えず、かわりにそっと冷たい手が重ねられる。
 水南がどんな表情をしているのか判らない代わりに、自分が今見せた表情もまた、絶対に水南には見られたくないと氷室は思った。
 なんてことだ。俺はこの人を愛している。
 この人なしでは、もう生きていけないと思うくらい……。

 
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この物語はフィクションです。