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「悪い。ちょっと意味が判らなかった」
 数秒、こめかみに指をあてて沈思していた雪村は、そう言って鼻根あたりを指で揉むと、疲れたように首を横に振った。
「今日は山ほど決裁を見たからな。いくら長期連休の中日っつっても、課長と補佐が揃って休むとか、ないだろ。普通」
「そ、そうですね」
 成美はあまりの緊張と居心地の悪さから、軽い貧血感さえ覚えていた。
 大型連休の合間の平日。
 世間では10連休だの11連休だの言われているが、暦通りの役所では、飛び石連休はそのまま飛び石連休である。
 とはいえ法規係は今が閑散期。連休の中日とあって、5時過ぎともなると残っている職員は殆んどいなかった。
 その法規係の片隅に、パーティションで仕切られた小さな会議室がある。
 ちょっと相談が……、と、呼び出した雪村と成美は、そのスペースで向い合って座っていた。
 ふうーっと長い息を吐くと、雪村はパイプ椅子の背もたれに深くよりかかった。
「4月に近宗主幹が異動になったろ。てっきり主幹級が後任に座ると思ったのに、新しくきた奴が、俺より若い主査だからな。ほんと、筆頭主査なんかになるもんじゃねぇよ」
「そうです、ね」
「担当局のボリュームはそのままで、なのに全員のサポート役までしろってんだからさ。それってどうよ。新しい補佐の方針だかなんだか知らねぇけど、なんで俺が無能な連中のサポートなんかやらなきゃいけねぇの?」
「だ、誰も、雪村さんに仕事の相談なんてしてないと思いますけど」
 ――怖くて。
「このあたり、昨年度までは課長補佐だった柏原さんがやってたよな。今年きた課長補佐、ぶっちゃけ、仕事嫌いだろ。面倒なこと部下に投げてる感がもう見え見え」
 すみません。迂遠な前置きはもういいですので早く本題に――。
「あの、雪村主査」
「さて、今日は水曜だし、そろそろ帰るかな。明日は彼女とデートだし」
「主査!」
 立ち上がった雪村の袖を、成美は思わず掴んでいた。
 しかし構わず、雪村は会議室の出口に向かって歩き出す。
「嫌だからな、俺は」
「そ、そんなことを仰らずに」
「お前の引っ張りこんだ厄介事に巻き込まれるのは二度とごめんだ。今度は何がでてくるんだ? ホモの次はエイリアンか? それとも未来からきたネコ型ロボットか? なんにしても、もう俺は絶対に関わりあいになりたくない」
「なんにも出て来ませんってば。だいたいそんな、難しいことをお願いしてるわけじゃないですよ。ちょっと代決を」
「ふざけんな! 私用で戸籍請求なんてしてみろ。場合によっちゃ懲戒免職だぞ!」
 激しい剣幕で腕を振りほどかれ、成美は驚いて、後ずさった。
「……だから、主査にご迷惑は」
「かかるよ。ハンコ押した時点でかかるに決まってんだろうが。お前本気で法律の仕事やってんのか? 公用請求ってのは、市長から市長への公的な依頼なんだ。それを私用で――馬鹿だろ。お前。公務員失格だ」
 それは、……よく判ってるんですけど。
 課長と課長補佐がそろって休みをとった今日。
 筆頭係員である雪村の判さえあれば、誰にも知られずに戸籍の公用請求ができる。
 1日迷った挙句、成美は雪村におおざっぱな事情を打ち明けた。
 1月以来姿を消してしまった氷室課長を探すために、彼の戸籍を手に入れたいと。
「ああ、――もう。休み前の5時過ぎに何の用事かと思ったら」
 雪村は苛立ったように髪に指を差し込むと、再び椅子に座り直した。
「言っとくけど、頭のいい奴が本気で身を隠したんなら、戸籍で足つくようなヘマなんかするはずがない。ハイリスクな上に、間違いなく無意味だぞ、それ」
 それも、判ってるんですけど。
「それにやり方がいやらしい。俺はこういうのは好きじゃないし、不愉快だ。お前だったらどうだよ。いくら恋人でも、自分の戸籍、勝手に請求されていい気はしないだろ」
 もちろん、それもそうなんですけど。
「……例えば、ですけど」
 もじもじと、成美は言った。
「誘拐、とか」
「は、誘拐?」
「まぁ、正確には違うと思うんですけど、それと同じレベルだったらどうなんですか。警察は動いてくれなくて、自分で探すしかないんです。ど、どんな手でも使うしかないじゃないですか。さらわれた人を助けるためなら」
「………………」
 雪村は、たっぷり1分はあんぐりと口をあけていた。
「誘拐」
「は、はい」
「それ、本気で言ってんの」
「まぁ、……半分くらいは、その線もありかと」
「……………」
 再度口をあけた雪村は、自分の指をこめかみの方にあて、さすがにそのジェスチュアはしなかったものの、首を振りながら立ち上がった。
「一度病院で見てもらえ。なんかの被害妄想だ。じゃあな」
「ひ、氷室さんは、怒らないと思うんです」
 咄嗟に成美は言っていた。
「怒らないどころか、もしかすると私がそうやって氷室さんに近づいていくのを、予想しているっていうか、待っているっていうか、……とにかく、そんな気がするんですよ」
「……………」
 足をとめた雪村が、わずかに目を細くする。
「ほ、本気で自信があって……そんなことを、言っているわけじゃないんですけど」
「……………」
「でも何もしないよりは、何か――なんでもいいから、彼の情報を集めたいんです。もちろん、勝手な言い草なのは百も承知ですけど」
 もし彼が、本当に自分を探してほしいと願っているなら。
 ヒントは、必ず成美の手の届くどこかにあるはずなのだ。今のところ、思いつくのは彼の人生が記されている戸籍しかない。
「……確かに公用請求は浅はかでした。馬鹿なことを言ってごめんなさい。弁護士事務所とか、調査事務所を使うことも考えたんですけど――私には、そっちの方が抵抗感が強くて」
「どうして」
「……それは」
 氷室さんの個人情報が、プロとはいえ第三者の目に触れてしまうのがどうしても嫌で。
 どうしても、というより絶対に嫌で。ならいっそ、自分が犯罪に手を染めた方がマシなような気がして。
 成美は立ち上がって頭を下げた。
「すみません。……でも雪村さんを巻き込もうとしたのは、間違ってました。とんでもなく馬鹿で浅はかだったと思います。また、別の方法を考えますから、今日のことは忘れてください」
 雪村に、自分がかつて道路管理課長だった氷室と付き合っていて、今も彼のことが忘れられないと告げたのは4月の半ばのことである。
 その直後雪村は両目をすがめ、たっぷり3分は成美の顔を見ていただろうか。
(妄想?)
(い、いえ、妄想じゃあないですけど)
(じゃあ、想像上の……)
(同じ意味ですよね。それ)
 柏原課長も承知していたと告げると、ようやく納得してくれたものの、雪村は最後まで疑わしそうだった。
 そもそも雪村にこの秘密を打ち明けたのは、3月の終わりに「つきあわないか」と言われたからである。それが切迫した恋愛感情からきたものではないのは明らかだったが、そこまで言わせてしまった以上、黙っておくのは卑怯なような気がしたのだ。
 が、予想に反してというか、予想どおりというか、そこに関しては、拍子抜けするほどあっさりと雪村はスルーした。
(いや、そっちはいいよ。かえって気を使わせて悪かった。――それより氷室さんのことだけど、やっぱりお前の幻覚的な……)
(ち、が、い、ま、す)
 まぁ、そんな感じで話は終わり、その後も2人の関係は何一つ変わらないままだった。
 それからほどなくして、雪村は親の勧める相手と見合いをしたという話だし、その相手とどうやら上手くいっている風でもあるし、――そういう意味で……気を使うことはひとつもなかったのだ。
 だから、少し甘えてしまったのかもしれない。
 なんだかんだいっても雪村の存在は、成美の心の支えになっていたから……。





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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。