「堺(さかい)先生、今日は足元がお悪い中、わざわざありがとうございました」
「水南、君の元気そうな顔が見られて安心したよ。またしばらくしたら、顔を見に寄らせてもらうからね」
「はい……」
 いつも思うことだが、あそこまで他人を信頼しきった顔をする水南も珍しい。
 門扉に続く石畳の前に立っていた氷室は、玄関で水南と別れ、杖をついて歩み寄ってくる小柄な老紳士に頭をさげた。
 秋の夕暮れ、微かに小雨が降り始めている。傘をかざした氷室は、そっと手を差し出し、老いた男から重たげな鞄を受け取った。
「先生、お車までお送りします」
「ああ、いつもありがとう」
 白髪こそ豊かだが、顔も体格も貧相な老人は、度の強い眼鏡の下から、人のよさそうな笑みを氷室に向けた。堺吾郎(さかい ごろう)。都内で開業している町医者で、水南の死んだ母親の元主治医――氷室に知らされている情報はそれだけだ。
 堺が後藤家に現れるようになったのは、今から3年ほど前、――氷室がまだ中学に在籍していた頃だ。半年に一度程度、決まって当主後藤雅晴(ごとう まさはる)がいない時にふらりと自家用車でやってきて、水南の部屋で、小一時間ばかり過ごして去っていく。
(また堺が来たのか。二度と来させるな、そう水南に言っておけ!)
 一度ならず、後藤雅晴がそう言って使用人に怒鳴りつけているのを見たことがあるが、それでも依然として堺医師は同じペースで通ってくる。つまりこの件に関してだけは、水南は父親の言いつけに背いている、ということなのだろう。
「氷室君……だったかね」
 車の前で、堺の重たい手提げかばんを手渡した氷室に、堺はふと気がついたように声をかけた。
 何度か車まで見送っているが、話しかけられたのが初めてである。氷室は少し驚きながら、「はい」と答えた。
「君は使用人だと聞いたが、いつからこのお屋敷にいたのだったかな」
「7年ほど前から、母と一緒にお世話になっております」
「そうかね」
 頷いた柔和な目がそらされようとした刹那、ふとすがまって再び氷室に向けられた。氷室が訝しく眉を寄せると、堺は再び元の優しい目に戻って前に向き直る。
「いや、失敬、昔の知り合いを、ふと思い出してしまってね」
「……昔、ですか?」
「ああ。一瞬君と似ているように思ったのだが、よく見ればまるで別人じゃった。失敬、君の方が何倍も美男子じゃったよ」
 そういって楽しそうに笑うと、堺は氷室の手から鞄を受け取って車に乗り込んだ。



「……水南」
 氷室が声をかけると、淡い照明の下、長椅子に身をゆだねて本を開いていた人は、淡く微笑んで顔を上げた。
 本格的に降り始めた雨が、平素から静まり返った広い屋敷のあちこちに陰鬱な雨音を響かせている。
「堺先生はお帰りになった?」
「ええ。……ひとつ聞いてみても?」
「なにかしら」
 それでも言葉の前に、長椅子に膝をついた氷室は、水南の手を捕らえ、その唇を奪っていた。
 硬い表紙を持つ本が、ゆるやかに床に落ちる。
 もう数え切れないほど重ねたキスはすぐに密度を増していき、美しい眉に微かな苦渋をにじませた水南の額が、薄っすらと紅潮する。
「……おかしな天」
 やがて氷室の首に両腕を預けて、そっとソファの上に仰向けに倒されながら、水南が笑うように囁いた。
「なにが、ですか」
「以前はこの部屋が嫌いだと言って、いつも別の場所に私を呼び出したのに」
「っ、君の言うとおりだと理解したんです。ここは秘密の逢瀬には最適の場所だ」
 それでも性急に求めずにはいられない自分の内心を見透かされた気がして、氷室は乱暴に水南の着ている衣服を暴いた。
 一切抵抗しない水南は、黙って瞼を閉じ、氷室のなすがままになっている。
 その精巧な人形のような仮面の下に、どんな感情がひそんでいるのか。羞恥なのか、屈辱なのか、それとも感情そのものを手放しているのか。
 水南の氷室に対する感情の在処がいまだなにひとつ判らないように、何度その身体を暴いてみても、氷室にはまだ判らない。
 だからこそ、冷たい石のような水南の表情に、少しずつ火がともりはじめる様がたまらない。苦悶にきつく寄せられる眉、徐々に上気していく白い肌、氷室の肩を掴む細い指。
 薄く開いた唇からのぞく真珠のような歯並びにも、耐えかねたように漏らされる細い声にも、目眩がして――我を忘れてしまうほどに興奮する。
 繋がったままの水南を膝の上に乗せ、乱れた髪を手で後ろに払いながら、何度も繰り返しキスをする。水南の首筋は汗でしっとりと潤って、氷室の額にも薄い汗が浮いている。
「天……、っあ、や、やぁ」
「……っ、水南……」
 時々本気でわからなくなる。一体どちらが捕食者で、どちらが非捕食者なのか。
 あの夜、一体どちらが罠をしかけて、どちらがその罠に落ちたのか。
 けれどそんな些細なことは、もうどうでもいいと思えるほどに――関係をもって、まだほんの半月も経たないというのに――氷室は、自分の腕の中で意識をなくしたようにぐったりとなった女性に夢中になっていた。
「……先生には、亡くなった母の思い出話を聞いているの。最後を看取ってくださった、唯一の方だから」
 雨音が、屋敷の天井を叩いている。
 やがて2人で寄り添いながら、氷室の問いに、水南は物憂げな口調で答えてくれた。
「先生は、以前はこの家に住み込んでおられたそうよ。でも父と不仲になって、追い出されるように出て行かれたんですって。だから父はいい顔をしないけれど、先生が……できれば母の月命日には顔を出したいと言われるから」
「それで、水南の客としてお招きしているということですか」
「母も少しは喜んでくれるかしらね」
 その言葉を、まるでセリフの棒読みのように呟くと、水南は視線を天井に向けた。
 その目は、出会った頃の水南の目だった。一切の感情を拭い去った、虚ろな、爬虫類を思わせるような空洞の目。
 氷室は黙って、その水南の髪を指ですいた。
 若くして亡くなったという水南の母親の話は、後藤家ではあたかも禁忌のように、誰も口に出すものはいない。遺影もなければ、仏壇もない。熱心なクリスチャンだったというから、もちろんそんなものは端から存在しないのだろうが。――氷室の印象では、その存在すら徹底的に黙殺されている、という感じすらする。
 堺という医師について、色々聞いてみたいことはあったが、もう口にするまい、と氷室は思った。それに、これ以上彼女の弱みを探る必要はもうないのだ。
 水南が、そっと手をのばして床から何かを拾い上げる。氷室はそれが、自分がこの部屋に入るまで水南が読んでいた本だと気がついた。
「なんの本ですか」
「子供向けの童話よ。母が生きていた頃、私のために注文してくれたそうで、今日堺先生にいただいたの。読んでみたけれど、あまり面白くないわ」
 氷室は目を細めて、その本を手にとった。美しい青い表紙に、金文字でタイトルと作者名が記されている。
「子供向けの本なら、大人が読んで面白くないのは当たり前ではないですか」
「靴を残していくところが、あざといわ。私だったらそんなわざとらしい真似はしないし、そんな小細工にひっかかる男も愚かだとしか思えない」
 そこか?
 氷室は眉を寄せたまま、本を水南に手渡した。
「そこは、メインテーマとは違うような気がしますけどね」
「きっといつの時代でも、愚かな人間ほど幸福なのよ」
 水南は呟くように言うと、氷室の肩に頭をすり寄せるようにして目を閉じた。
「水南、そろそろ行かないと志都さんが戻ってくる」
「平気よ……。志都はとっくに私たちのことを知っているもの。天が叱られればいいだけの話じゃない」
「ちょっ」
 それがどれだけ面倒か、本当に判っているのか? それに――志都さんが知っている?
「天……来週、私、お見合いすることになったわ」
「………………」
「この前に天に話した男の人と……、その人も、天みたいに私を大切に抱いてくれるかしら」
(きっといつの時代でも、愚かな人間ほど幸福なのよ)
 確かにそうかもしれないと、子どものように寝入ってしまった水南を見つめながら氷室は思った。
 愚かさと引き換えに今のこの時間があるのだとしたら、多分この先の自分は、いくらでも愚かになれるだろう。
 たとえそれで、全てをなくしたとしても。
 
    >next >back  >top  
     
  Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved
この物語はフィクションです。