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４
「ああ。１月にここにいたのなら進藤ですね。進藤でしたら、今年の４月に本社の方に異動になりましたよ」
駅構内の窓口から顔を出したのは、白い髪をした老人だった。
そう決めつけたは失礼かもしれないが、昨年この駅で声をかけた駅員より、随分年がいっているように見える。
安治谷駅。
成美が幼い頃、一夜を明かした思い出の駅は、昨日尋ねた野槌駅同様、初夏の陽気に暖かく包まれていた。
「進藤に何か。お伝えすることでもありますか」
人のよさそうな駅員に、柔らかい口調で問われても、成美は何も言えなかった。
あの日、わずかな時間ではあったけれど、氷室は１人で駅構内にいた。
その間何か変わったことでもあれば――と思って立ち寄ったのだが、具体的に、聞いてみたい話は何一つ思いつかない。
「いえ。特には……ちょっとお世話になったもので、お礼に、と寄っただけですから」
成美は一礼して、歩き出した。
薄々覚悟はしていたが、結局は、空振りだった。
もともと何かの確証があってここまで来たわけではない。ただ、何かが心に引っかかった。掴もうにも影も形も捉えられない、その何かを確かめたくてここまで足を運んだようなものだったのだが――
ふと、目に映る風景に違和感をおぼえ、成美は足をとめていた。
冬のあの日とくらべて、格段に明度の上がった明るい構内。開いた天窓からそよ風がふきこみ、日差しが暖かく差し込んでいる。
「……………」
そうだ。あの日と今は、何もかもが違う――
ため息をつき、成美は再び歩き出した。
成美はぼんやりと、駅裏――最後のあの日、氷室が１人で立っていた場所まで歩いた。
木々の緑に覆われた穏やかな空間には、当時の思い出を残すものは何もなかった。地面は細かなクローバーで覆われ、木漏れ日が優しく差し込んでいる。
足を踏み入れた途端に雀が飛び立ち、成美は思わず天を見上げた。
――氷室さん……。
あの日、不意に降り始めた雪が、彼をどこかに連れて行ってしまうような錯覚を感じた。
もしかすると本当にあの日、彼の心はどこかに連れ去られてしまったのかもしれない。どこに――水南さんの、ところに。
「…………」
まだ彼が、年末に東京に戻ったきり帰ってこなかったのなら、判る。
つまり成美は、今でも彼の心の大半を占めている亡妻との思い出に負けたのだ。それならまだ納得できるし、彼がいずれ、現実に目を向ける日まで待つこともできる。
でも、違う。
あの日、彼は、まるで切迫した何かに追われるように、成美の元に駆けつけてくれた。
そして成美の前で、初めて、硬くなに被っていた仮面をわずかだが外してしてくれた。
（自殺ですよ）
（母と一緒に列車に飛び込んだんです。もう１５年も前の話ですけどね）
あの夜成美は、自分の心の底にあるとても深い部分まで彼の前でさらけだしたのだが、氷室もまた、その片鱗をはじめて垣間見せてくれたのだ。
その意味でも、２人にとって、あれほど特別な夜はなかった。
なのに、翌日、彼はただ静かな微笑と謎かけのような言葉を残して、消えてしまった。
（もし僕が自分を隠したら、あなたは僕を探してくれますか）
あの日、一体何が彼の心を変えさせてしまったのか。
いや、あの日だけではない。一緒に過ごした最後の２日間の中で、何が彼に別れを決めさせてしまったのか。
紀里谷から聞かされた大晦日の真相は、想像していた以上に奥深く恐ろしいものだったが、成美にはどうしても、西東という男が原因で氷室が姿を消したとは思えなかった。
収賄という公務員にとっては死を意味する重罪の秘密を握りながら、氷室がそうも脇が甘かったとは思えない。彼と一緒に過ごした半年を振り返ってみても、彼が政治的な危険を引きずっていたようには、どうしても思えない。
きっとそうではない。もっと別のことが原因なのだ。彼の心に最初から巣食っていた闇に――水南さんに――その原因は必ずある。
その不思議な確信は、彼の失踪直後から今まで、一度として揺らいだことがない。
でも、何故その日が――彼が闇に飲まれてしまった日が、よりにもよって２人にとって至福とも言える２日間だったのか。
（もし僕が自分を隠したら、あなたは僕を探してくれますか）
わかんないよ――
成美は拳を額にあてたまま、しゃがみこんだ。
わかんないよ、氷室さん。
私に探して欲しいなら、もう少しヒントを残してよ。
ずるいよ。あんな言葉だけ残して消えるなんて、本当にずるい。
まだ、きっぱり別れを告げられた方が、何倍も優しいじゃない……！
不意に轟音が近づいてきて、コンクリート製の柵の向こうを、下りの電車が通過していった。
その刹那、成美は大声で叫びたい衝動に駆られたが、歯を食いしばるようにして立ち上がった。
灰谷市に戻ろう。
できればそんな真似はしたくなかったが、紀里谷の言うとおり、戸籍を調べるところから始めたほうがいいのかもしれない。
足元に、小さな地蔵が並んでいるのに気づいたのはその時だった。
高さにして、成美の膝より下くらい。親子だろうか、夫婦だろうか、大小の石地蔵が２体、寄り添いあうようにして微笑んでいる。
「……可愛い」
成美は再び膝を折ると、その前で手を合わせて黙礼し、立ち上がった。
「いいの？ 日高さんを送ってあげなくても」
「いいよ。１人で行きたいっていうんだから」
走行中の車内。助手席側の窓を少し開け、紀里谷は煙草の煙を吐き出した。
「無駄だっつっても聞かないんだ。人の話も信じねぇしさ。実家も近いんだし、放っておいても大丈夫だよ」
「やめてよ。車でヤニ吸われると、男が出来たのかって邪推されるから」
「１本だけだし」
肩をすくめた葉月が、あてつけのようにアクセルを踏み込んだ。それでも、ゴールデンウイーク序盤の高速道は混み合っており、すぐに渋滞に捕らえられる。
「あの子って、何」
サングラスを押し上げた葉月が、呟くように言った。
「日高のこと？」
「そう。馬鹿なの？ それとも頭がいいの？」
「どっちかな。……基本馬鹿だとしか思えないけど、時々、ずばっと本質を見抜いてるところがあって、……つかめねぇよ」
ステアリングを握る葉月の横顔が、少しだけ険しくなる。
「迂闊にも、あの子の口からパズルって言葉が出るまで、私、想像もしてなかった。――あの瞬間、鳥肌がたったわ。そして分かったのよ。理人、あんたの依頼人って、本当は」
「姉ちゃんの想像してる通りだよ」
言葉を切り、紀里谷は煙草の煙を吐き出した。
「……三条守」
「やっぱり」
深いため息の後、葉月は心底苛立ったように舌打ちをした。
「あんた……もう、あいつには二度と関わらないって言ったのに……！ なんだって三条守が絡んでるって判った時点で、とっとと手を引かなかったのよ！」
「引けるか？ 俺が引いたらまた別の奴が頼まれて同じ真似をするだけだっつーのに。だったら俺がやった方がまだマシだ。その方が天さんのためだろうが」
「……だからって」
「それに、すぐに三条にいきついたわけじゃない。ラスボスは西東って奴だって、最初は本気で信じてた。――でも、途中からちょっとおかしいな、と思い始めてさ」
「おかしいって？」
「天さんのマブダチの俺に都合よくそんな依頼が入るなんて、よく考えたらおかしいだろ。もしかして、何かの糸が働いてんじゃねぇか。この話には、俺と天さんの繋りを知ってる別の誰かが噛んでるんじゃねぇかって、そう思い始めたんだ」
「それで、出てきたのが三条だったの？」
「依頼人の素性を隠すために色々複雑なことになってたけど、簡単に言えば最後の仲介人が三条守だった。俺が調べた天さんの調査結果は直接三条守に流れるようになっていたし、俺に指示を出せる立場にいたのも、三条だった」
「…………」
「今の話は、大晦日に天さんに全部ゲロしたよ。でも天さん、三条が噛んでることはちゃんと知ってるみたいだった。むしろ西東事務次官の名前を聞いた時の方が意外そうな顔をしてたな……まぁ、俺が勝手にそう思っただけだけど」
「……それ、ラスボスは西東じゃなくって、三条守ってこと？」
「さぁな。どっちでもないような気もするけどな」
吐き捨てるように言って、紀里谷は煙草の吸い殻を窓から投げ捨てた。
「西東と三条。どっちが主導で、なんのために天さんや日高成美の身辺を探ろうとしてたのか、今となっては俺にも判らない。でも――天さんは消えた。自分の持っているものを何もかも捨てて、……逃げ出した。悔しいけど、それが現実だ」
「……何故なの」
いつも気丈な葉月の顔が、心なしか強張って見えた。
「そりゃ、あの狂犬男が氷室さんを恨んでるのは判ってる。でも、あれからもう７年よ？ なんで、どうして今さら氷室さんを」
「さぁな」
紀里谷は投げやりにいって、シートに深く背をもたれさせた。
「ただ、姉ちゃんと同じで、俺にもあの時判ったよ。誰かがバラバラにしたパズル。その通りだ。これは単なる昔の意趣返しじゃねぇ。――天さんは、『ゲーム』をしかけられたんだ」
そしてその駒に、知らず自分が指定されていた。
冗談じゃねぇ。
天さんはとっくにそれに気づいていて、だからあの日、安治屋駅に、あんな剣幕で乗り込んできたんだ。
もしかすると、西東事務事官でさえ駒のひとつだったのかもしれない。
だとすると、鳥肌どころじゃない、マジで戦慄ものだ。
「最初、本人は何が起きているのかさえ判らない。バラバラに撒かれたヒントをパズルみたいにつなぎ合わせて、ようやく答えが見えてくるんだ――ぞっとしたよ。どうして今まで気づかなかったのか。これは……女王様おとくいのやり口じゃねぇか」
葉月はおしだまったまま、何も言わない。
学生時代、自分たちの３級年上の彼らと過ごした過去が、今、脳裏に蘇っている違いない。
人目につく美貌と、双子という物珍しさから、２人は校内では非常に目につく存在だった。だからだろうが、中等部に入った直後、２人は相次いで女王様のターゲットに選ばれた。窮地に陥った時、助けてくれたのは、２級年上だった氷室天だ。
母親があの後藤雅晴の愛人だということで、氷室天は小学部の頃から有名な存在だった。紀里谷は、そんな氷室を面と向かって侮蔑したし、馬鹿にもしていた。その頃の紀里谷家は裕福で、まさかそれからたったの１０年たらずで両親が夜逃げするほど困窮するとは思ってもみなかったからだ。
――が、『ゲーム』の一件以来、氷室は２人の恩人になった。葉月は氷室を運命の男と認定して追いかけ回し、紀里谷は兄貴と呼んで慕うようになった。――当の氷室は、心の底から迷惑げではあったが。
しばらく黙っていた葉月がようやく口を開いた。
「どうして、日高さんに嘘を？」
「姉ちゃんも黙ってたじゃねぇか。言ったらあの子、絶対に三条に会おうとするだろ」
「……そうね」
「そんなことになったら、今度こそ俺が天さんに殺される。俺たちもそうだけど、あの子ももう、関わらない方がいいんだ。三条は何も変わってない。相も変わらず主人の忠実な猛犬さ。主人の愉しみのためなら、邪魔者は平然と噛み殺す」
「……主人のため」
呟いた葉月が、強張った目を向けた。
「でも、死んだわ」
「知ってるよ。葬式には俺も顔だした」
「死んだのよ。もう半年も前よ」
「だから知ってる。でもこれが、三条の書いた絵か？ あの馬鹿にこんなゲームが作れると思うか？」
三条の知恵など天さんの足元にも及ばない。
今も昔も、天さんを惑わすことができるのは、１人しかいない。
「生きてるの？」
ひどく怯えた声だった。
「後藤水南は、……もしかして、まだ生きてるの？」
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