どこか諦めたようななげやりな口調で言って、紀里谷はコーヒーの残りを飲み干した。
「依頼……って。弁護士として受けた依頼、という意味ですか」
「まぁ、どっちかといえば元の家業かな。あー、俺」
「この人、東京で、何でも屋みたいなことやってたのよ。どっちかといえば裏の、人に言えないような仕事」
 葉月が補足し、紀里谷は軽くため息をついた。
「まぁ、平たく言えばそう。裏社会からはとっくに足を洗ったんだけど、色んなしがらみで断れない仕事ってのもあってさ。今回もそんな感じ」
「どういう、依頼だったんですか」
「………」
 少し黙った紀里谷は小さく息を吐いた。
「天さんの身辺調――はがっ」
 再び、葉月の拳が紀里谷の左頬に炸裂した。
「あんたッ、姉ちゃんにも黙って、あれだけお世話になった氷室先輩の身辺調査だぁ? そんな仕事、なんだって受けたのよッ。この恩知らずッ、裏切り者ッ、卑怯者ッ」
「ちょっ……いたっ、だから最後まで話させろって、むしろ俺は天さんのため――、ふごぉっ」
 何度も壮絶な往復ビンタをくらう紀里谷を、成美はなすすべもないまま呆然と見ていた。
 氷室先輩――初めてそんな呼び方をした葉月の言葉にも、成美は内心驚いていた。紀里谷と葉月、2人はもしかして、氷室の学生時代の後輩だったのだろうか。
「だ――だから聞けって。どうせ誰かが受ける仕事なら、俺がやった方がマシだと思ったんだよ。俺だったらどんな風にだって情報を操作できる――そうだろ? 仮に天さんにとって弱みになるような情報をゲットしても、だ」
 必死に抗弁する紀里谷。あ……と、葉月の表情に、そういえばみたいな色が浮かんだ。
「まぁ、そりゃそうね。確かにあんたの言うとおりだわ」
「……殴られ損かよ」
 ふてたように呟いた紀里谷は、よろよろと姿勢を戻した。
「依頼主は、――色んな人を介して依頼があったようだけど、もちろんすぐに調査したよ。一体誰が、なんの目的で天さんの身辺さぐってんのか、むしろそっちの方に興味があったからな」
「――で? 一体誰だったの?」
「聞いて驚け。国土交通省の事務次官、西東(さいとう)って男だ」
「……はい?」
 きょとん、と首をかしげる葉月。
 しかし成美には、その恐ろしい意味がすぐに判った。
 事務次官とは、大臣などの特別職の下にある事務方の長――つまり、官僚のトップである。国土交通省に何人のキャリア官僚がいるのかは知らないが、その頂点に立つ男だ。
 今年の1月、国土交通省では大臣官房総括審議官、青柳敏夫が収賄罪で逮捕された。
 その青柳が氷室の元上司だったという噂が、灰谷市役所にまことしやかに広がって――その逮捕が、いかにも氷室の失踪と関わりがあるような言われようだったから、成美も注意してそのニュースを追っていたのだ。
 今、紀里谷が口にした事務次官の西東という男は、新聞が実名こそは出さなかったが、逮捕間近の国土交通省の大物官僚X、と誰でも判るような言い方で事件への関わりが指摘されている男だった。
「そんな人が、どうして氷室さんを?」
 呆然と成美は聞いた。
 絶対に事件との関わりはないと思っていたけど、氷室さんは本当に――収賄事件と関わりがあって、そのために姿をくらましたのだろうか。
「どうしてって、そりゃ、身辺調査ってからには天さんの弱みの一つでも握ろうとしたんだろ。何人もの人を介した依頼だから、何が目的なのかまでは判んねぇけど――推測するとしたら二通りだな。スタンダードに天さんに恨みがあって失脚させようとしていたか、もしくは、なんらかの秘密を握っている天さんの口を塞ごうとしたか」
「…………」
「お前も腐っても公務員なら、国土交通省のトップが、今大変なことになってることくらい知ってんだろ。今となっちゃあ推測するしかねぇけど、天さんがなんらかの事情を知ってて、連中が口を塞ごうとした可能性は十分にあると思う」
 成美は何も言えずに眉だけをひそめた。
 知らなかった――氷室さんの周辺が、そんな恐ろしいことになっていたなんて。彼はそんなこと、一言も言ってはくれなかった。
「まぁ、話を戻すけど、その依頼主の紹介で、俺、灰谷市で一番大きな弁護士事務所に雇ってもらえることになったんだ。それが去年の3月のことだよ」
 言葉を切り、紀里谷はポケットから煙草を取り出した。
「最初は……俺も気楽に構えてたんだ。だいたい天さん、俺なんかに尻尾みせるような人じゃねぇしな。だから適当に、当たり障りのない報告書を月一で出してた。実際天さん、役所行って帰って寝るだけの、なんの変哲もない日常を送ってたし」
 煙草の煙を吐き出し、紀里谷は遠い目になった。
「その天さんの、初めての変化がお前だよ。日高成美。悪いけど、それは依頼主に報告させてもらった。天さんに新しい女が出来たってな。――悪く思うなよ。ああもあからさまに付き合ってんのに、気づかないフリしてたらさ、そもそも俺の能力が疑われるって話だろ」
 成美は何も言えなかった。自分のまるで知らないところで、恐ろしい事態が進行していた――氷室さんは、そのことをどこまで知っていたのだろうか。
「そしたら当然、今度はお前のことを調べろって話になった。日高成美の素性を徹底的に洗えみたいな? 本当に悪く思うなよ。だから俺、最初から知ってたんだ。お前の実家のこともお袋さんのことも。全部、夏前には調べあげてた」
「……………」
 ただ驚きで眉をひそめる成美の前で、紀里谷は大げさなため息をついた。
「それでも俺、天さん裏切ってる自覚は全然なかった。判るだろ、姉ちゃんなら。あの天さんが、まさかこんなに――大切にしてるとは思わなかったんだよ。こんな背の低いへちゃむくれのブス、出来心でうっかり手を出したくらいにしか思ってなかった。だから俺も、途中からだんだん腹立ってきてさ」
 え?
 じろっと紀里谷の恨みがましい目が、成美をねめつけた。
「秋だったか? お前への嫌がらせの数々は、ほぼ自主的にやったことだよ。その頃は依頼人とも連絡が切れてて、天さんの調査の件はもう終わったものだと思ってたしな。あの時はマジで、殺してやろうかと思ったぜ」
「判る判る。よりによって、あの氷室さんの彼女が、こんなブスだからね」
「美学っつーの? 俺たちが大事にしてきた天さんの一部を、お前がぶち壊しにしたんだよ。ブス!」
「身の程ってものを考えなさいよ。自分がいかに氷室さんの面汚しになってるか、本気でわかってないの? ブス!」
 ……いや、我慢しろ。自分。
 成美は懸命に自分に言い聞かせた。
 今は何を言われても、この人間常識の欠落した双子から必要な情報を聞き出さねば。
「ほんと、ブスですみません。……で、それからどうなったんですか」
 葉月の茶を入れ替えながら、精一杯の作り笑顔で成美は聞いた。よほど茶葉ごとぶちこんでやろうかと思ったが、それは想像でかろうじて食い止める。
 話は、ここからが核心なのだ。
「私のことを報告して……、それからどうなったんですか。まさか私のことが原因で、氷室さんが脅されたりしたわけじゃないんですよね?」
 それは絶対にないと確信しながら成美は言った。
 氷室さんは、その手の安っぽい脅しに屈するような人じゃない。今までもそうだったように、そうなればどんな手段を尽くしても対抗するはずだ。
「……どうだかな」
 深い息を吐き、紀里谷は仰向けに寝転んだ。
「切れたと思った依頼人から、また連絡があったのが去年の12月の中旬かな。そのリクエストが全くもって不可解な内容でさ。指示されたのは、年末休みに実家に帰る日高成美の後を尾行すること。いや、俺もう面割れてっし、意味判んねぇし、絶対無理だっつったんだけど、それでもやれって半ば脅しみたいに命令されてさ。意味も何もわかんないまま、とにかく言われた通りに行動したんだよ」
 私を、尾行すること――?
 成美は唖然と口を開けた。
「それ、なんのために、ですか」
「俺が知るかよ。――いずれにしても、途中から自分のしてることに嫌気がさして、降りたんだ。俺」
「降りた?」
「遭難したふりして、お前の家に転がり込んだだろ。俺的には、あれで降りたつもりだったし、お前を守る側に回ったつもりだったんだけど」
 そして紀里谷は少し真剣な目をすがめた。
「それが結局……一番最悪な形で終わっちまった。天さんがどういうきっかけで俺の行動に不審を抱いたかは知らねぇよ。でも、結局はバレちまった。だから天さん、あの大晦日の日、血相変えて俺たちの後を追ってきたんだ」
「……野槌駅に、ですか」
「そう。あの時、俺、天さんに何もかもゲロしたよ。西東に依頼されて天さんの身辺を探ってたことも、お前の周りをうろついてたことも、全部。――あの日以来、天さんには一度も会ってない。まぁ、俺が知ってることはそんくらいだ」
 まったくもって不可解な話に、成美は何も言えなかった。
 ただひとつ判ったことがある。
 あの当時、氷室は何らかの事件に巻き込まれていて、私も――気づかない内に、その中に取り込まれていたのだ。
「氷室さん……じゃあ、その依頼人のせいで、……つまり身の危険を察して、消えたってことなんですか」
「さぁな。そこはなんとも言えねぇ。だいたいそんくらいで消える天さんとも思えねぇし。――ただ、これだけは断言するよ。今、お前がそこに首つっこんだら、天さん、間違いなく迷惑する」
「…………」
「そういう意味じゃ、天さんが役所まで辞めたのは、お前という弱みを敵に握られたからかもしれないな。――まぁ、報告したのは俺なんだけど」
 紀里谷は、肩をすくめて首のあたりを物憂げに掻いた。
「天さんがお前と別れたのは、そういう意味じゃ正解なんだよ。天さんも今は自由気ままにやってるだろうし、お前だっておかしな奴――俺のことだけど――につきまとわれる心配もない。たから、もう忘れろよ。何度も言うけど、天さんみたいな人が本気で身を隠したら、まともな方法じゃ絶対に見つからねぇから」





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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。