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「はぁ? 馬鹿かお前、市役所にいるくせに、天さんの戸籍も調べてないのかよ」
「だ、だって、戸籍なんて無理ですよ」
 そう言い訳する成美より早く、運転席の葉月が、助手席の弟の頭を拳で叩いた。
「普通じゃ無理なの。こんな真面目な子が、あんたみたいな犯罪すれすれの真似ができるもんですか」
「い、いや、姉ちゃん。普通も何も、この人市役所だから、そんなのちゃっちゃっとできちゃうわけ。職務上必要だとかなんとか適当な理由をつけて、公用で戸籍申請すればいいだけなんだから」
「それは……」
 迷うように言って、成美は力なく視線を下げた。
「やっぱり無理ですよ。今は個人情報の管理に、すごく厳しい時代ですし」
 紀里谷が言ったことは、以前成美も少しだけ考えたことがある。
 実際法規係では、裁判資料を集めるために、そのような手段で戸籍請求をすることもあるのだ。
 しかし公用申請には、公印がいり、そのためには課長までの決裁を経なければならない。そこに有名な氷室の名前を見たら、誰だって不審に思うに違いない。
 はあっ、と紀里谷はため息をついた。
「だったらプロに依頼すりゃいいだろ。ほんと、馬鹿だな、お前。天さんみたいな人が本気で身を隠したら、まともな方法じゃ探し出せるわけがないだろうが」
「御託はいいから、理人」
 冷ややかな葉月の声が、割り込んできた。
「結局あんたは、氷室さんの戸籍を持ってるわけ? 腐っても弁護士なんだから、それこそ職権でちゃちゃっと取れるでしょ。だったらもったいぶってないで、早く開示しちまいな!」
 いや、そこで微妙に法律用語を交えて凄まれても……
 成美は凍りついたが、縮こまった紀里谷はさらに怯えているようだった。
「も、持ってねぇし」
「この期に及んで出し惜しみしたら――」
「本当にないって! だいたい、怖くて、お取り寄せなんてできねぇよ。余計なこと知っちゃったら、俺、天さんに隠し事なんてできねぇもん。絶対にゲロして、いてぇ目にあう」
「じゃあ、ないのね」
「ないよ。ないない。……だいたい俺、もう天さんに合わせる顔ねぇし。だから、……そっとしておいて欲しかったのに……」
 ぐすっと鼻をすする音がして、たちまち車内は暗いムードに包まれた。
「じゃあ、紀里谷さんが灰谷市を去ったのは、氷室さんを追いかけたからじゃないんですか」
 背後から成美がそっと声をかけると、すぐに葉月が後に続いた。
「そうよ。私もそう思ってた。てっきりあんたのことだから、氷室さん追いかけて灰谷市を出て行ったんだろうって。だから私も、とりあえず東京に戻ったんじゃない」
「違う違う。むしろその逆……」
 紀里谷は力なく首を横に振った。
「俺、天さんとは二度と会わないつもりで、東京に戻ったんだ。だから4月になって、仕事用の携帯に入ってたお前の留守電聞くまで、まさか天さんが役所辞めてるなんて、マジで、夢にも思ってなかった。俺だってショックだったんだよ」
「その割には2丁目で、好みの男をとっかえひっかえ、随分豪遊してたようじゃない」
「い、いやそれは、失恋の痛手を忘れるだめだろ」
 姉のつっこみに、紀里谷は無様にうろたえて言葉を濁した。
 まぁ、そのあたりの彼の特殊な趣味は、ひとまず考えないことにしよう。
 そんなことより、今すぐ、確かめなければいけないことがある。
「紀里谷さん。なんで、氷室さんと顔が合わせられないと思ったんですか」
 やはり、あの日だ。
 大晦日の野槌駅。あの日、3人が顔を合わせた理由に、その秘密があるに違いない。
「ん……まぁ、……お前の実家に泊まったこととか色々――はがっ」
 再度、葉月の拳が弟の左頬に炸裂した。
「いたっ、ねぇちゃん、なんの真似だよっ」
「その程度のことで、あんたがめげるわけがないじゃないの。あんた、この子の家の鍵を盗んで、無断侵入したことだってあんのに」
「まぁ、それはそうなんだけど、今度のこととは次元がまるで違うんだよ。俺は――俺は」
 そこで言葉を途切れさせ、紀里谷は深い溜息を吐いた。
「……天さんを、裏切ったんだ。それがついに、……ばれちまったんだよ」
「えっ、じゃあ、あんたたち、まさか……超えてはならない一線を」
 それには成美と紀里谷が同時に、全力で首を横に振った。
 冗談じゃない。とんでもない誤解である。
 その紀里谷が、ふと視線をナビの画面に向けた。
「てか、姉ちゃん、今、どこ走ってんの」
「どこって、あれよ、今夜泊まる宿に向けて――げげっ、どこよ、ここ」
「なんかナビの道から、超外れちゃってんですけど」
「ずっと一本道だったわよね。それがどうしてこんなとこまで――きゃー、この先道がなくなってる。どうすりゃいいのよっ、ちょっと、地元の人っ」
「は、はいっ」
 聞きたいことは沢山あったが、今はそれどころではなさそうだった。
 成美は慌てて身を乗り出すと、カーナビの方に視線を向けた。



 結局宿についたのは、日もとっぷりと暮れた頃で、安治谷駅に行くのはおのずと翌日になってしまった。
 呆れたことに、2人は宿の予約さえしておらず、成美が1人でとった和室に3人で無理矢理泊まることになったのである。
 それをフロントにかけあうのもまた一悶着で――ようやく部屋についた時には、成美はものを言う気力もなくなってしまっていた。
「ふぅん、外観は安っぽいけど、案外、風情があっていい部屋ね」
「悪くはないけど、ちょっと狭いのが難だよな」
 他人が借りた部屋をさも我が物顔でチェックする2人。
 荷物を部屋の隅に置いた成美は、肘掛け付きの座椅子にぐったりと背を預けた。
 車酔いで気分が悪い。――どれだけ方向音痴だか知らないけど、あんなにぐるぐるぐるぐる、同じ場所を回らなくても。
 氷室さんはカーナビなんか見てなかった。なのに、一度も迷うことなくこの宿に辿り着いたっけ……。
「ちょっと、あんた、休んでないでお茶でも入れなさいよ」
「俺はコーヒーな」
 ………承知しました。
 縁側の椅子に座って煙草を吸う2人を見やり、成美は虚ろに笑んで立ち上がった。
 このメンバーじゃあ、そうなりますよね、はい。どうぞ今夜は、存分におくつろぎくださいませ。
「――で?」
 それぞれのオーダーを用意したところで、待ちかねたように葉月が切り出した。
「そろそろ本題にはいりましょうか、あんたが氷室さんを探すために、2人で旅した思い出の場所を尋ねようっていうクソ腹立たしい趣旨は判ったんだけどさ」
「は、はい……」
 その刹那本気の殺意を感じた成美は、思わず紀里谷の背後に身を隠している。
「それって一体どういうことよ。この旅行の間に何か事件でも起きたってこと? 氷室さんとあんたが決定的なケンカでもしたってこと?」
「い、いえ。そういうことじゃあないんですけど」
 むしろその逆――心がこれ以上ないほどひとつになったというか。
「じゃあ、一体どういうこと。やっぱりあんた、理人と一線超えちゃったんじゃないの?」
「ないない。それやったら、俺もう、この世に存在してねぇし!」
 慌てて紀里谷。それを葉月がじろりと睨む。
「本当に? だってあの日、私のところに電話してきた氷室さんの剣幕、ただごとじゃなかったわよ」
 あの日。
 私のところに電話してきた……?
「あの、それって」
 口を出しかけた成美を、紀里谷が片腕をあげて止めた。
「……お前さ、天さんに例の話、したわけ」
「え?」
「俺がお前の両親から聞いた話。あの日の内に、もしかして、天さんに全部ゲロった?」
 例の話とは、服役中の成美の母親の話に違いない。少しためらってから、成美はこくんと頷いた。
「でも、それが原因ってことは、まずないと思うんです。氷室さんは――」
「判ってる。天さんはそういう人じゃない。まぁ、……ないんだけどさ」
 ため息をつく紀里谷の耳を、いきなり葉月がねじりあげた。
「あっ、いたたたた、姉ちゃん、耳、耳がちぎれるっ」
「ちょっと、一体なんの話よ。判るように説明しなさいよ!」
「だからそれを今――落ち着けって。今は3人が3人、自分にしか判らない別々の情報持ってんだよ。それをつきあわせなきゃ、話になんないだろっ」





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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。