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「どうされました?」
はっと、成美は顔をあげた。
駅構内。アクリルの仕切り板の向こうからは、迷惑そうな顔をした駅員がこちらを見上げている。
「何か御用で? 黙って立っておられちゃ、わからんのですが」
「あ、すみません」
一瞬、記憶と現実の間で混乱したものの、成美は前髪を指で払ってから、頭をさげた。
野槌(のづち)駅。
用事もないのに、ふらふらと窓口の前に立ってしまったのは何故だったのだろう。
あの日の駅員に、何かを聞きたいと思ったのか。でも、何を。
居所を探そうにも、まるで手がかりが摑めない人が辿った道を、ただ、無為になぞらえているだけなのに。
氷室さんを探そう――
彼が消えて3ヶ月もたって、ようやくそう決心した成美だったが、そこからできることは限られていた。
退職したと伝えられた直後に、国土交通省――彼の元所属に電話で問い合わせているから、そこで氷室の個人情報を聞き出すことが不可能だということは判っている。
成美が唯一面識のある(非常に悪い意味で)のが、氷室の同期で以前灰谷市に出張で来た兼崎という男だが、男の所属に電話してみると「兼崎補佐は、現在海外赴任中でございます」と言われ、一応伝言を頼んだものの、5月になった現在でも返事はない状況だ。
出会った時の最悪の状況を考えるとなくて当然ともいえたが、仮にあったとしても、現在海外にいる男が、氷室の居場所を知っているとは思えなかった。
市役所に登録されていた実家の住所――可南子が役所のデータベースから調べてくれたのだが――それは、世田谷のマンションになっていて、問い合わせたところ、既に売却された後だった。
学歴から辿ろうにも、東大法学部にそもそも知り合いなんて一人もいない。仮にいたとしても、氷室の友人関係を、成美は全く知らないのだ。
固定電話は、現在使われておりません。
携帯電話は、ただ今電話に出ることができません。
八方塞がりの成美は、迷った挙句柏原課長に助けを求めた。これを認めるのは、ある意味一番辛いことではあったのだが、あるいは柏原課長になら、氷室が何かしらの痕跡を残してくれているかもしれないと思ったのだ。が――
「申し訳ないけど、氷室課長の連絡先なら、私は何一つ知らされていない。もともと所属していた省も違うし、東京では一切関わりのない人だったから」
一応、つてはあたってみるとは言ってくれたものの、結局何も判らなかったらしく、その後、彼女の口から氷室の名前が出てくることはなかった。
むしろ氷室の情報から成美を遠ざけようとしているようにすら思えた当時の不可解な態度の理由は――ほどなくして成美の耳にも伝わってきた。
(氷室さん、警察に目をつけられているらしいぞ)
(……ほら、新聞に出ていた国土交通省の事件の、関係者とかで)
(逮捕を逃れるために退職して、海外に脱出したとか。そりゃ、あの頭のいい人が、簡単に捕まったりはしないよな)
彼を取り巻く灰色の噂は、密かに役所内に広まっていったが、結局なんら新聞沙汰にはならないまま、誰も真実を知り得ないままに収束していった。
ただひとつ確かなのは、もう誰も、彼の居場所を知らないということだ。
本当に氷室は消えてしまった。
灰谷市からも、東京の元の住処からも。
少なくとも成美には、一切の痕跡を残さずに。
ただひとつ、残してくれたといえるのが、彼が最後に残した言葉だったのかもしれない。
(東京で、探さないといけないものがあるんです)
(ただそれは、僕より頭のいい人が隠してしまったものなので)
その人とは、おそらく氷室の妻、昨年亡くなった『水南』という名の女性だろう。
彼はその隠されたものを探しに行き、そして二度と戻らなくなった。
それは開けたら破滅するしかないパンドラの箱だったのか。それとも開ければ現実の己に還るしかない玉手箱だったのか。いずれにしても、彼は見つけ、そして成美の元を去ってしまったのだ。
また、成美はわからなくなった。
そんな彼を探して、私は何をしようとしているのだろう。
そもそも彼は、本当に私を待ってくれているのだろうか。
(見つかるんじゃなくて、見つけるのよ)
(今まで私は、彼のことを何ひとつ知ろうとしなかった。だから今度は、私が彼を見つけてあげたいの)
そんな勇気も行動力も、私には、ない。私には無理。私は柏原課長みたいに強くはなれない――
それでも成美は、今、思い出の駅に立っている。
ようやく思い出した、たったひとつの手がかりを追い求めて……。
駅舎から外に出た成美は、そっと息をついて空を見上げた。
目の前にはロータリーと駐車場。そこに視線を巡らせるのは、少しばかり勇気が必要だった。
年の瀬も迫ったあの日。まるで王子様のように(ただしとんでもなく不機嫌な)、タクシーから降りてきた氷室さん。
黒のトレンチコートに、私がクリスマスにプレゼントしたマフラーをつけて。
彼はあの日、何を求めて東京からここまで駆けつけて来てくれたのだろう。
むろん偶然ではなく、さりとて私に用があったわけでもない。彼はあの日、成美が同行していた男を追いかけてきたのだ。
――そう、辛い記憶を辿った成美は、ようやくたった一人の手がかりを思い出したのだった。
紀里谷理人。
年が明けて以来、一切連絡してこなくなった男が、唯一、あの日の氷室の行動の理由を知っているはずなのだ。もしかすると東京時代の氷室の過去も。
しかし時遅し、とでもいうべきか、成美がそこに気づいた時には、紀里谷はすでに灰谷市から姿を消してしまった後だった。
所属していた弁護士事務所は年明け早々に退職しており、今はどこに行ったか、誰も所在を知らないという。
――あの日……一体、何があったの?
あの日2人は、成美の知らないところで何かの駆け引き――攻防といってもいいのかもしれないが、成美だけが知らない戦いをしていた。
その場所が、成美の実家の近くだったことに一体なんの意味があったのだろう。
「…………」
成美はしばらくその場に立ち尽くしてから、バックから携帯電話を取り出した。
登録している番号をプッシュする。留守電――いつもと同じだ。
「紀里谷さん? 日高です」
言葉を切り、ひとつ、大きく深呼吸する。
「先日お電話したとおり、今、野槌駅に来ています。ご記憶ですよね。去年、紀里谷さんと一緒に行った駅です。――私、氷室さんと最後に会ったあの日の行程を、もう一度辿ってみようと思ってるんです」
それで、何が判るというのではないけれど。
どう考えても、あの日が何かの――彼にとって何かの、ターニングポイントになったような気がしてならないから。
「……気が向いたら、連絡してください。ご迷惑はかけないと約束しますから。じゃあ」
成美は携帯を切って、それをバックに滑らせた。
多分、電話はないだろう。
紀里谷はおそらく意図的に、私と会うまいとしているのだ。――あまり考えたくないが、もしかすると、姿を消したことも含めて、氷室に指示されているのかもしれない。
もう一度ロータリーを一瞥し、成美は再び駅舎に戻ろうと歩き出した。
同じ路線の電車に乗って、今度は安治谷駅に行く。そこから先はタクシーを拾って、あの日、2人で泊まった宿に一泊する。
最後に2人で過ごした場所。
沢山泣いて、そのお返しみたいに夜明けまで2人でふざけあった。
彼と付き合いだして初めて、歳の差も立場も何もかも忘れて、対等の時間を過ごせた――あの、特別な夜。
(赤が勝ったら、僕と結婚しましょうか)
あの夜の彼の声や、いたずらっぽい笑顔。熱を帯びたキスと暖かな体温。
今でも思い出すだけで、胸のどこかがえぐり取られたように痛くなる。
まだ恋を失った痛手は、癒えるどころか昨夜のことのように生々しい。本当にこんな私が、今夜、1人で、思い出のあの宿で過ごせるのだろうか。
その時、いきなり背後で、車のクラクションがけたたましく鳴り響いた。
振り返った成美は、思わず目を見開いていた。
――え……?
駅前のロータリーに、黒のベンツが停まっている。
間違いない、あの日と同じ車種、同じナンバー。あれは氷室さんの車ではなく紀里谷さんの――
突然、車の左側のドアが勢い良く開いた。驚く間もなく、中から黒のヒールに包まれた魅惑的な足が飛び出してくる。
――まさか。
その足に成美は、いっそ忌まわしいといっていいほどの記憶があった。
「やっと、見つけた」
息を荒げて、その人は言った。
ひざ上の黒のワンピースに、ざっくりとしたベージュのニット。
灰谷市一の人気を誇るホステスは、つけていたサングラスをもぎとるように取りはらった。
「いっとくけど、氷室さんを探しているのが、あんただけだと思ったら大間違い。私だって、現在進行中で、彼の行方を追っているんだから」
紀里谷理人の姉、月華こと紀里谷葉月。
身長は男並みの170センチ超え。容姿端麗、スタイル抜群の凄みを帯びた美女である。
――う、嘘でしょ……。
「あ、あの、どうしてここが」
後ずさる成美を一瞥すると、葉月はさも忌々しげに鼻を鳴らした。
「聞いたのよ。あんたが理人にかけてきた電話を」
「る、留守電のことですか」
「氷室さんを探しに旅に出る? あんた、じゃあ彼がどこにいるか知ってるてこと? てっきり東京かと思ってたけど、こんなど田舎にあの氷室さんがいるってこと?」
「――、違うんです。そうじゃなくて」
成美は大慌てで首を横に振った。
もちろん成美は、この人にもコンタクトをとろうと試みた。この灰谷市で、氷室の過去を少しでも知っている可能性があるのは、紀里谷とその姉の葉月だけだからである。
しかし、以前沢村に聞いた「シンクロナイト」という店に問い合わせると、葉月もまた年明け早々に店を辞め、東京に戻ったという話だったのだ。
「ああ、もうっ、腹立たしい。今度こそ、氷室さんとあんた、完全に別れたんだと思ってたのに」
歯ぎしりでもするように言うと、葉月はいきなり、運転席に片腕をつっこんだ。そこから荷物――いや、人間をひきずり出されてくる。
「あ、あいたたたたたた。ね、姉ちゃん、そっちから出るのはちょっと――あ、足ひっかか――いてて、あいたたたたたっ」
耳をぎゅうぎゅうに引っ張られながら、上半身から引きずり出されるように、長身の男が車の外に転がり出てくる。
「き……」
成美は思わず、口に手を当てていた。
明るく染めた髪はぼさぼさに伸びて、口周りにはまばらな髭。トレードマークだった黒縁眼鏡はしていない。チンピラみたいな派手なアロハシャツにデニムのパンツ。弁護士時代の面影は殆どといっていいほど残ってはいないが――
「紀里谷さん?」
どすんっと、地面に尻餅をついた男は、なんとも気まずげに頭をかいて、成美を横目でちらっと見た。
「散々探し回った挙句、昨日2丁目でひっつかまえたの。この馬鹿、私からも逃げまわってたんだから」
姉に吐き捨てるように言われ、紀里谷は居心地悪く首をすくめた。
「よう。……久しぶり」
久しぶりも何も。
私がどれだけ、あなたと連絡取りたがっていたか――知ってますよね。
成美はあっけにとられたまま、地べたに座る紀里谷と、その傍らで腕を組む姉を交互に見た。
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