「おい、しっかりしろ。死ぬなよ――おい、死ぬなよ?」
 頬を何度か叩かれ、水南は薄く目を開いた。
 暗黒の夜に吹雪が荒れ狂っている。背中が焼けるように痛い。
「おい、生きてるな? 息をしてるな?」
 背中と膝裏に手を差し込まれて抱き上げられる。誰だろう、この男は。冷たい手。荒い息遣い。警察じゃない、私を襲った奴の仲間だろうか。
 壊れた窓から、逃げ出した場所に連れ戻される。舞い狂うカーテンの影、もう1人が、そこにいる。暗い影が部屋の隅にうずくまっている。
 その影が、いきなりナイフをかざして切りつけてきた――その時のことを思い出した水南は、反射的に逃げようとあがいたが、痛みのあまり、苦痛の声しか出てこなかった。
「大丈夫……浅い、かすり傷だ。今、血を止めてやるからな」
 この人は、誰だろう。
 水南は薄く目をあけ、自分を抱き支えている人を見た。
 迷彩色のジャケット、短い髪、浅黒い肌。どこか物憂げに見える野性的な双眸。
 最初に襲ってきた男もそうだったが、若い……まだ成人しきっていない少年のようだ。高校生か、大学生か。多分どちらも不正解で、2人ともまともな生活を送っているようには思えない。
 その男が、雪まみれのジャンバーを脱いで、その下に着込んだセーターを脱ぐ。
 チェック柄のシャツに血の染みが広がっているのを見て、水南は眉をひそめていた。
 この人もまた怪我をしている。それもかなり……深いようだ。
「駄目だ……」
 細い、まるで幽鬼のような声がどこかから響いた。
 黒い影になってうずくまっている男だ。出会い頭に、あたかも追い詰められた狂犬のように水南に襲いかかってきた男。
「そんなこと、したら、セイジ、死ぬ。……止血なら、俺、やるから」
 たどたどしい、子どもがしゃべるような言葉使い。外国人だろうか。黒いレザージャケットとレザーパンツまでは確認したが、長い髪に覆われた顔まではよく見えなかった。
 今からほんの数分前、いきなり窓ガラスを割ってこの部屋に入ってきた男は、立ちすくむ水南を見るやいなや、ナイフを引き抜いて襲いかかってきたのだ。
 水南は、物を投げつけて逃げ、壊れた窓から、吹雪が荒れ狂う庭に飛び出した。男が追いかけてくる気配がして、次の瞬間、背中に鋭い痛みが走った。その弾みで転倒し、血の染みが雪に散ったのが見えた。
 いつもの貧血か、それとも脳震盪でも起こしたか、いずれにしても少しの間意識を失っていたのだ。
 男2人に抱き支えれながら、背中から胸の下あたりを、破った布のようなものでしっかりと巻きしめられ、水南はその場に横たえられた。
 その水南の顔を、ひょいと見下ろして、セイジと呼ばれた男が言った。
「お前、よく見ると結構な美人だな。名前、なんてぇんだ」
 水南は答えずに目をつむっていた。
 もし強姦でもする気なら、さすがに逃げる手立ては思いつかないが、そんな気にもなれないだろうと冷静に判断する。自分がまだ14歳だからというのではない、肉体的には実年齢以上に大人びていることは自覚している。実際最初はそれが目的だと思い、必死に抵抗して逃げたのだ。
 しかしその必要はなかったのかもしれない。2人の、まだ少年にも見える男たちは疲弊している――それも、尋常ではないほどに、だ。
 冷気を遮断するものがなにひとつない廃屋で、外は何年かに一度というくらいの大雪だ。おそらくだが、彼等は何かに追われているのだ。相手は警察か、山裾で暮らしている連中か。そうして彼等2人は、命からがらこの場所にまで逃げ込んできた――
 ということは、私はなんらかの事件の目撃者、ということになるのだろうか。が、この寒い中、衣服の一枚を犠牲にしてまで止血してくれたのだから、どうやら口を塞ぐ気まではないらしい。
「お前、……お前みたいなガキが、なんでこんな場所にいるんだ。もしかして雪女か?」
 再びセイジが口を開いた。水南は後半の質問を馬鹿馬鹿しいと思いつつも、答えずに黙っていた。
「カズのこと、許してやってくれよな。多分、びっくりしたんだ。俺だってびっくりした。正直、幽霊かと思ったよ。だってよ、普通いねぇだろ、こんな場所に女の子が1人でさ」
 黒ずくめの方はカズ、という名前らしい。それにしても、びっくりしたからと言って出会い頭に斬りつける人なんて早々いない。許せとは虫が良すぎるというものだ。
「どうした。親とはぐれて迷子にでもなったのか」
「………………」
「……寝たふりかよ。えらく肝の座ったガキだな」
 笑うように言った男が、ふっと壁に背を預けて黙り込んだ。それきり沈黙が続くので、ちらりと横目でその様子を窺うと、顔色が紙のように白くなっている。閉じた目もとには苦しげな険が刻まれ、この人は直に死ぬんだろうな、―――と、直感的に水南は思った。
 もう1人の黒ずくめの方――カズと呼ばれた男は、その隣に寄り添うようにしゃがみこんだまま、ぼんやりと床の一点を見つめている。
 その唇が何かぶつぶつと呟きをもらしている。寒さのために精神錯乱でも起こしているのか、いや、それ以前から――水南と鉢合わせになった時から、男の目には何か尋常ではない狂気の光が宿っていたような気がする。
 今なら逃げられるかもしれない、と水南は思った。
 いや、なんとしてでも逃げるべきだろう。追手が警察ならまだしも、反社会勢力なら、発見された時点で水南自身がどうなるか判らない。
 この場所から後藤家までなら、目をつむってでもたどり着ける。吹雪はむしろ、この状況では水南の味方になってくれる。
 そろそろと足を動かして、起き上がろうとした時だった。
「助けて」
 囁くような声が、ふと聞こえた。
「助けて助けて、助けて助けて、僕を助けて、助けて助けて、ごめんなさいごめんなさい、いい子になるから、いい子になるから、助けて助けて助けて助けて、セイちゃんを助けて」
「…………」
「早く来て、僕はここだよ、僕はここだよ、僕はここだよ……」
 水南は立ち上がり、ゆっくりと黒ずくめの男の前に座った。
 初めてまともに顔を見た。青白い肌、肩にかかるほど長く伸びた髪。鼻筋はしっかりとして、顎や喉は男らしい形をしているが、黒目がちの大きな目が、まだどこかあどけなさを残している。
「誰を呼んでいるの?」
 囁くように水南は訊いた。
「誰かがここに、あなたたちを助けに来てくれるの?」
 男はぼんやりと水南を見上げた。
「教えて?」
 ゆっくりと男は瞬きをする。その瞳は夢でも見ているように茫洋としている。
「……天使」
「天使?」
 こくり、と男は頷いた。
「雪が連れてくるんだ。でも、僕には気づかない。いくら呼んでも来てくれない。だから、ママもユキも死んだ」
「ユキ」
「……妹」
「どうして2人は死んでしまったの?」
「僕が、守って、あげられなかったから」
 水南は黙って、再び「助けて」と呟きはじめた男を見つめた。
 天使とは、この人にとっての神様みたいなものだろうか? そんなものはどこにもいないと、男の弱さを笑ってやりたかった。誰もが与えられた運命を生き切るしかないこの世界で、都合のいい救いなど、どこにも存在しないのだと。
 しかし、水南は言っていた。
「この人を抱えられる?」
 男の目が、再び物憂げに水南を見上げる。その目にゆっくりと生気のようなものが戻ってくる。
「私は天使じゃないけど……私が、あなたたちを助けてあげる。この雪だから、動けなくなったらもうおしまいだけど」
「……天使?」
「え?」
「……天使?」
 それは私を指しての質問だろうか?
 水南は首を横に振ろうとして、やめた。
 この人は、――生まれは外国の人かもしれないが、言葉づかいがたどたどしいのはそれだけではない。おそらく、知能が年齢より劣っているのだ。
「そう、天使」
 水南はゆっくりと言って、微笑んだ。
「私があなたたちを助けてあげる。いいわね、だから私の言うとおりにして」













                                     第一部(終)
 
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この物語はフィクションです。