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 車から降りた瞬間、成美は驚いて顔をあげた。
 三条が車を停めたのは後藤家の前だった。
 てっきり駅に向かっていると思ったから、それだけでも驚きだったが、黄昏に染まった正門前にはトヨタのレクサスが停まっている。まさかと思った時には、車の中から雪村が飛び降りてきた。
「――日高!」
「じゃあな。ナオミちゃん」
 背後から、ぽんと肩を叩かれた。いつの間に運転席から降りたのか、三条である。
 三条は薄気味悪く口を広げて笑った。
「駅まで送ろうと思ったけど、ナオミちゃんの連れが家の前で待ってるって、志都さんから連絡が入ったからさ。向井志都さん、今日もきっかり1時に掃除に来てたみたいだな。この時間は、もう帰ってるだろうけど」
 戸惑う成美の前に、別れた時と同じ格好をした雪村が駆け寄り、数歩離れた場所で足をとめる。どうやら三条を睨んでいるようだが、一向に構わずに三条は続けた。
「まぁ、なんつーの。あまり気ぃ落とさないようにね。人には色んな顔があるもんだ。目に見えてるものだけが真実とは限らねぇからな」
 答えない成美の肩を再度叩いて、三条は再び車に乗り込んだ。
 車が走り去り、後には成美と雪村の2人が取り残される。
 色んな感情がごっちゃになっていたが、ひとまず、雪村がここにいることが問題だった。午後6時前。もう彼女とのデートは終ったのだろうか。
「雪村さん、どうして」
 成美の言葉を遮るように雪村が大股で歩み寄ってくる。あっと思う間もなく、成美は頬を叩かれていた。
 平手打ちの鈍い音が、夕闇に響き渡る。
 ――え……
 叩かれた方の髪が頬に被さってきても、成美は何が起きたのか判らなかった。
「――馬ッ鹿野郎、今まで一体なにしてやがった!」
 頬を押さえ、成美は呆然と雪村を見上げた。
「追いかけたら、目の前で三条守の車に乗り込むわ。どこかに消えたきり連絡もとれないわ。人が――、俺が、どれだけ心配したと思ってんだ」
「…………」
「携帯はどうした。なんで俺の電話に出ない。出ろよ、それともわざと心配させようとしてんのか。このドジ、ボケ、疫病神!」
 じわっと眼の奥が熱くなった。
 なによ……。
 普通、そこまで罵倒する?
 ドジとかボケとか疫病神とか、そこまで立て続けに罵倒する?
 私……今、目茶目茶最低な気持ちなのに。
 頬を抑える成美の目から、ぽろぽろっと涙がこぼれ落ちた。
「D∨……」
「はっ?」
「新幹線の中で殴って、今また思いっきり殴りましたね。これ、もう完全にD∨じゃないですか。完全、暴力じゃないですか」
「はァ? どっちも暴力とか――違うだろ、本質的に」
「なにがどう違うんですか。殴ったじゃないですか! 2度も殴ったじゃないですか! む、無抵抗な私を――に、2回も……」
「だからそれは、2回ともお前に原因が――おい、頼むからそんくらいでマジ泣きすんな。俺か? 俺が悪いのか? 100パー俺が加害者なのか?」
「そうですよっ、100パー雪村さんが悪いんですっ」
 ほとばしるようにそう言うと、成美は両手で顔を覆って号泣した。
 堰が切れたように声をあげ、しゃくりあげながら泣いた。
 今地球が爆発したって、この涙も激情も止まらないような気がした。
 狼狽えたように、雪村が肩を抱いてくれる。
「ちょっ、……まて、……俺が悪かったから」
 知りません。謝ったって、もう知りません。
 だって、本当に雪村さんが悪いんじゃないですか。
「俺が悪かったから、な。だからもう泣くな」
 雪村さんが――
 成美は、奥歯を噛み締めて顔をあげた。
「に、2度も叩くから。今まで、お、お父さんにも、ぶ、ぶ、ぶたれたことなんて、なかった、のに。なのに、2度も」
「そのセリフ、なんかのアニメで聞いたことあるぞ」
 ひーっと喉の奥から抑えきれない波がこみ上げてきて、成美は再び声をあげて泣いた。
「ああ、もう、悪かった。だから本当に悪かったって」
「い、痛かったんです。マジで、痛かったんです」
「ごめん。――ごめんな」
「ご、ごめんなんかじゃ、許さない」
 なんで、今日デートの人が、まだここにいるんですか。
 なんで、よりにもよって、このタイミングで出てくるんですか。
 そんなの、もう、痛いって言うしかないじゃないですか。
 痛いって言って、怒るしかないじゃないですか。
 でなきゃ、泣いてる理由がみつからない。
 でなきゃ――
 こうしていることの、理由がない。
 恋人でもない人の胸にすがって、抱きしめられている意味が判らない。
 このまま傍にいてほしいと思っている意味が判らない。
 もう、どうしていいか判らない……。
 
 
 なにやってんだろう。私――
 薄曇りの夜空。濁った月を見上げながら、成美はぼんやりとそう思った。
 まだ目の底が仄かに熱を帯びている。鼻もつまって、喉は逆にカラカラだ。
目が溶けると思うほど泣いた。
 激情が過ぎてからも、涙は静かに流れ続けた。いったん収まっても、思い出しては泣き、その涙が乾く間もなくまた泣いた。
 その間、雪村は何も言わず黙って傍に居続けてくれた。
 後藤邸から少し離れた場所に停めた車の中で、今も無言で、後部シートに座る成美の隣にいてくれる。
 もう車に乗り込んでから何時間が経ったのか。寄り添うように座った車の中で、自然に重なった雪村と成美の手は、今もしっかりと繋ぎ合わされたままだった。
 成美も何も言わなければ、雪村も何も言わなかった。
 軽く触れれば壊れそうなほど危うい距離感を保ったまま、ただ、心地いいのか怖いのか判らないこの沈黙を守り続けている。
 もし、雪村がその手で成美を引き寄せてくれたら、成美はおそらく逆らわず、彼の胸に身を委ねてしまうのではないかと思った。
 逆に、成美が雪村にすがってしまえば、雪村はそのまま成美を抱きしめてくれるような気がした。
 そうなれば、この夜の向こうには今日とはまるで違う明日が待っている。
 今までとは全く違う、想像もしていなかった人生が待っている。
 その境界線の中で、2人は今たゆたっているのだ。どちらに転んでも間違いではない人生の不思議さに、言葉さえ失くしたまま。
 ――もしかして、もう戻れないのかもしれないな……。
 ふと成美はそう思い、別の寂しさで眼の奥が潤むのを覚えた。
 今夜2人がどんな選択をしようと、もうこの境界線に入り込んでしまった以上、昨日までの2人には戻れないのかもしれない。もう、雪村と今までのような距離感でつきあっていくことはできないのかもしれない……。
「……なぁ」
 雪村が不意に呟いた。内心、かなり動揺しながら「はい」と成美はぎこちなく顔をあげる。
 前を見たままで雪村は続けた。
「どうするよ。新幹線の最終、もう行っちゃったけど」
「え、……そうなんですか」
 しまった。時間のことをすっかり忘れていた。最終が出たってことは、今夜は――
「どっか、泊まる?」








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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。