13
 
 
「……結局なんだったんだろうな。なんだか、うまくけむにまかれた気かしてしょうがないんだが」
 中村家を出て、再び車を走らせながら、雪村が独り言のように切りだした。
 時刻はもうすぐ午後1時、2人はこれから、昨日会えなかった後藤家の管理人、向井志都に会いに行く予定になっている。
「中村須磨さんが、知っていることを全部話していないのは間違いないとして――お前、ゴキブリの話、どう思った?」
「雪村さんが、思いの外ゴキブリ恐怖症だったという……」
「そういうことを言ってんじゃねぇ。意味が判ったかって、聞いてんだよ!」
 たちまち怒りに満ちた声が返される。
 成美は誤魔化すのを諦めて、溜息をついた。
「……判りましたよ。私には」
「は? あの理解不能な説明でか? インスピレーションがどうとか。普通そんな曖昧な理由で、人を嫌ったりするものかよ。しかも氷室さんは生理的嫌悪感を抱く容貌とは程遠い。結構な男前だぞ」
 だからですよ……。
 成美は再度漏れそうな溜息をこらえた。
「そんな経験、雪村さんにはないですか」
「――は?」
「いっそのこと目の前からいなくなればいいと感じる。――それが同性なら同類嫌悪か嫉妬の類だと思います。でも異性なら、……それは多分」
「多分?」
「恋、じゃないんですかね」
 どうしたって自分が優位に立てないもの、努力や能力ではどうにもならないもの――それが恋。片思いだ。
「それは違う。ありえない。恋とか、マジあり得ないだろ」
 何故か雪村が、恐ろしく早口で断言した。
「き、消えて欲しいっていうのは、その言葉どおりだよ。目障りなんだ。うっとおしいんだ。単に嫌いってことなんだよ!」
「……はぁ」
「ふざけんな。何が恋だ、馬鹿じゃねぇのか」
 どうでもいいけど、なにもそこまで怒らなくても。
 確かに、あくまで直感だし、推測にすぎないが、それでもやっぱり恋に近い感情だったのなぁ、という気がする。
 水南はそんな自分の感情に戸惑い、畏れ、だからこそその原因を抹殺したかったのではないだろうか。
 ひどく屈折していると思いはするが、そこは成美には理解できた。
 2つも年下の、しかも愛人の連れ子に惹かれるなど、水南の人生には決してあってはならないことだったのだ――多分。
 つまり水南さんは……、昔は……、かなり氷室さんのことを……好きだったんじゃないだろうか?
 思い通りにならないなら、いっそ消し去ってしまいたいと思うほど。
 氷室はその愛情を、きちんと理解して受け取っていたのだろうか。
「そんなことより、なんだって雪村さん、あんなにしつこく聞いてたんですか?」
「え?」
「水南さんのお母様の病気のことですよ。正直、あまり関係ない話じゃないですか」
「うん……」
 雪村はなんとも言えないように、唇をわずかに歪める。そして一拍の間の後、言った。
「悪魔憑き、なんだそうだ」
「……は?」
「後藤家には悪魔が憑いている。だから直系女子が、早死にする」
「はい?」
「工事のおっさんが言ってたろ。土地屋敷の買い手がつきにくいって。司書のおっさんに聞いたら、そのせいじゃないかって話だった。ただし地元の、古い人間しか知らない噂話だ。無残な殺され方をした使用人たちのたたりって説もあるんだそうだが――」
 成美はぽかん、と口をあけた。
「まさかと思いますけど、その悪魔だかたたりだとかが原因で、ミナエさんって人が死んだと思ってるんじゃ……」
「思ってねぇし信じてもねぇよ。てか、もちろん説明のつく理由があると思ってる。でなきゃちょっと奇妙な話だろ。5年近くも山奥に閉じ込められた挙句に死んだなんて」
 まぁ、確かに……。
「――そのあたりはもうちょっと調べてからきちんと話す。水南さん、子どもがいるんだろ? なんの根拠もない迷信を、俺の口から広げるのも嫌だからな」
「調べるって、灰谷市に帰ってからですか?」
 雪村は小さく頷いた。
「向井志都って管理人が何もかも話してくれれば別だけどな。でも、今の須磨さんの反応をみるに、絶対に漏らせないお家事情ってのは、話してくれないんじゃないのか」
「そう……ですね」
「だったら独自ルートで調べるしかない。逮捕された氷室さんの元上司のことや――そうだな、神崎香澄って女のことも、調べてみる必要があると思う」
 神崎香澄。
 氷室の、かつての恋人だった人。――
 成美の横顔が陰ったのを悟ったのか、雪村が小さく息を吐いた。
「お前もそうだろうが、俺には氷室さんが、ああも馬鹿な真似をしたとはどうしても思えないんだ。ヤクザがバックについてる女とつきあっていたこと自体信じがたい。三条が言った言葉を鵜呑みにするんじゃなくて、こっちでも調べてみようってことだよ」
「そう、ですね……」
 調べることはそれだけだろうか。
 もっと大切なことが――さっきからそれが、ずっと頭の端に引っかかっているのに、まとまった言葉として出てこない。
 雪……豪雪……鉄道事故……。
(天さんは、その夜の内には事故のあった父親の郷里に着いたそうです。あの地方はその日、ひどい豪雪に見舞われたそうで……、そんな雪の中、お可哀想に、天さんは1人きりでご両親のご遺体を確認したと聞いています)
 あの瞬間、頭の中で何かが弾けた。けれど、自分が感じたことを、上手く言葉に出せなかった。
 というより、一体自分が須磨の言葉のどこにひっかかり、何をひらめいたのか、それすら漠然として判らない。
 自分の思い出と少しばかり似ているからだろうか。
 雪……大雪……帰る場所がなくて、駅に泊まった女の子。
 ああ、だからって、それがどうしたというんだろう。
 
 
「取り壊しなど、私は絶対に許さんぞ」
 山沿いに停めた車を降りた直後、そんな怒声が成美の耳に飛び込んできた。
 後藤家の勝手口――そこには、黒のリムジンが停まっている。
 怒鳴っている男は、その勝手口の前に立っていた。中肉中背、そして髪が灰色の男性だ。
「いいか、この屋敷はな。生涯手放さないという条件付きで、天に譲ってやったんだ。それが後藤家の婿の役目だからだ」
 よほど激高しているのか、唾をまき散らす勢いでまくしたてている。
 成美は、運転席から降りた雪村と顔を見合わせていた。会話の内容から察するに――この男は、後藤雅晴。水南の父で、氷室の義理の父である。
「旦那様、私に判っておりますのは、このお屋敷の所有権が、今は三条様にあるということだけでございます」
 勝手口の中から、灰色の髪をひっつめた長身の女がゆっくりと現れた。
「お話なら、どうぞ三条様となさってくださいませ。私にはどうすることもできません」
「天はどこだ」
 苛立ったように、男は言った。
「天は一体どこに消えた。俺の同意なしに、屋敷を売却できるはずがない。天は一体、どこに行ったんだ」
「……人が見ております。騒ぎだてなさらずに、どうぞ、お引き取りくださいませ」
 恭しく、けれど毅然とした態度で、女が前に進み出る。
 気圧されたように男はわずかに後退し、ちっと大きく舌打ちをした。
 振り返ったその視線が、立ちすくむ成美と雪村に向けられる。
 男は恫喝するように目を見開くと、人差し指で成美を指さした。
「なんだ貴様らは、不動産屋か」
「え? いえ……」
「いっておくが、土地を買うつもりなら、どんな手を使ってでも妨害するぞ。決して高くは売れないからそう思え。私は議員をやってる。今のは脅しじゃないからな」
 それだけ言い捨てると、後藤は運転手が開けたリムジンの後部シートに収まった。口を挟む暇もなければ、挨拶をする暇もない。あっけにとられたままの成美の背後で、静かな女の声がした。
「また、おいでになられたのですか」
 走り去ったリムジンを見送った雪村が、丁寧に頭を下げた。
「先日は、ありがとうございました」
 それに対峙する女の背丈は、雪村とほぼ変わらない。年を考えると、相当長身だったといえる。年のころは70過ぎくらいだろうか。この人が多分――いや、間違いなく、向井志都だ。
「今の方は、後藤家の当主である、後藤雅晴氏ですね」
 向井志都は答えずに黙っている。
「噂には聞いていましたが、大変気短な方のようですね。……お屋敷の取り壊しについて、ひどく反対されているようですが」
「昨日も申し上げましたが、天さんの居場所なら知りませんし、私の口から申し上げることはなにもございません」
 雪村の質問を無視して、女は冷ややかに言い捨てた。
「このお屋敷は、確かに天さんのものでしたが、今はもう違います。関係のない方をお屋敷にあげるわけにも、お屋敷の方々のことをお話するわけにもまいりません。お引取りください」
「年末に、氷室氏はこちらに戻られたのですか」
 それでもかろうじて雪村が質問をつなぐ。
「お答えできません」
「何か探しものをされていたと――それもご存知ないですか」
「お答えできません」
 まるで取り付く島のない切り返しに、さすがの雪村もむっとするのが判った。
「僕らは東京からわざわざ氷室氏を訪ねてきたのですが、部屋にもあげてもらえないということなんですね」
「この館に天さんがいない以上、部屋にあがったところで何の意味もないのではありませんか?」
 そう言って言葉を切り、向井という管理人は、灰色の目を冷たくすがめた。
「天さんに関係のある方なら、どうぞその旨を証明するものをお持ちください。生憎私は、容易に他人を信用いたしませんので。では、失礼いたします」
「――鍵を持っています」
 成美は咄嗟に言っていた。
 踵を返そうとした向井が、ふと眉を寄せて振り返る。
 不意に心臓がドキドキしてきた。それまでずっと忘れていた鍵のことを、いきなり思い出したのは何故だろう。
 鍵――氷室さんと私を繋ぐ唯一の手がかり。
「ひ、氷室さんが持っていった鍵を――このお屋敷の大切な場所の鍵を、私、持っています」
 向井は黙って成美を見据える。
「今は、ありません。でも持っています。鍵を持ってこちらにくれば、その部屋を見させていただけますか」
 訝しげに目を細め、志都は静かに口を開いた。
「鍵が本物であれば、むろんそうなさって構いませんが」
「あの――ここは、いつ取り壊し予定なんですか。三条さんは、鍵がないと取り壊せないようなことをおっしゃっていましたけど」
「鍵をお持ちください」
 質問を遮るように、向井は冷たく言い捨てた。
「今はお持ちになっていないのなら、今日のところはお引き取りください。鍵がない以上、私に申し上げられることは何もございません」
 つまりそれは、鍵があれば、話してくれるということだろうか?
 灰谷市の氷室のマンションに残されていた鍵。――やはりあの鍵は、氷室の過去に続く鍵でもあったのだ。
 間違いない、氷室さんは私に、自身の過去を教えようとしている。
 でも一体、なんのために。
 そもそもどうして彼は、あの新年のたった1日で、姿を消してしまおうと決意したのだろう。
 あの日――いや、多分日ではない。
 あの場所。
 場所……場所だ。
「あ、あの、すみません」
 扉の内側に姿を消そうとしている向井志都を、成美は背後から呼び止めた。
 ようやく頭の中で渦を巻いていた種々の疑問か、ひとつの場所に収束しようとしている。
「氷室さんのご実家は――亡くなられたお父様のご実家のある場所は」
 そこで成美は言葉を切った。ごくりと喉のどこかが鳴った。
「もしかして、安治谷という場所ではないですか」
「地名かどうかは存じません」
 向井は冷えた声のままで言った。
「けれどそういった名前の駅で、天さんのご両親は自殺なさったように記憶しています」
 繋がった――
 成美は目を見開いたまま、立ち尽くした。
 あの日の全ての態度の不思議が、今、全て理解できた。あの場所は――あの駅は、氷室にとっても、辛い思い出の場所だったのだ。
 だから彼は、あれほど辛そうで、物を言うのもおっくうそうで、時折ぼんやりと物思いに沈んていたのだ。
 初めてのはずの道を迷いもせずに進んだのも、神社で既視感に見舞われたのも、全ては彼が――あの場所や道を知っていたからなのだ。
「おい、日高、今のは一体なんの話だよ」
 どういうこと……?
 ぞくり、と背筋に寒気がした。
 これはただの偶然だろうか。それとも、何者かが引き寄せた意図的な悪戯だろうか?
「……怪物……」
「え?」
 怪物と闘うものは、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
 おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。
 深淵の中にいた怪物は私だった。
 私と氷室さんの人生が、あんな場所で繋がっていた――








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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。