驚いたのは、むしろ成美の方だった。三条守の話では、2人は結婚した当初から憎みあっているとしか思えなかったからだ。
「それ、いつ頃のお話でしょうか」
 初めて口を開いた成美を、須磨は少し驚いたように見て、言った。
「確か、水南様が大学の2回生の頃、……天さんがまだ高校生の頃のことですね。夜中にこっそりと庭先で会っていたり、水南様の書庫にこもりきりになっていたり――私は一度だけ、月の明るい夜、お2人が抱擁しているのを見たことがございます。それはそれは夢に見るほど美しい光景でございました。天さんは熱につかれたように水南様を見下し、水南様も……それは、真剣に恋をしているとしか思えない表情でございました」
「…………」
「ただし、真剣といっても水南様の立場と天さんの立場は、それこそ天地ほども違います。天さんは後藤家の使用人も同然で、水南様はいずれ旦那様の決めた方と結婚なさる身の上。当時は水南様への求婚者がお屋敷に日参するほどの盛況ぶりで、実際水南様は、幾人もの殿方とお見合いをなさっておいででした。天さんが日に日に焦燥を募らせていくのが私などには気の毒なほどで……、その半面、水南様はどこか悠然と構えておいででしたね。そう、水南様が、天さん相手に完全に優位に立ったと実感したのは、実はその時が初めてだったのではないでしょうか」
 そこで言葉を切った須磨は、自分の言った言葉を打ち消すように苦笑した。
「まさかそのためだけに、水南様が天さんとあのような関係になったとは思えませんけどね。けれど熱烈な恋というのは、あれでございますよ。どんな賢い殿方をも、狂わせてしまうものなのでしょう。水南様にはそれは、すこしばかり楽しいことだったのではないかと思いますよ」
「2人の関係は、……屋敷では周知の事実だったのですか」
 そう訊いたのは雪村だったが、須磨はおぞけをふるうように首を横に振った。
「とんでもございません。そんなことが万が一旦那様に知られたら、天さんも水南様も大変なことになってしまいます。それどころではなく私たち使用人もどんな目にあわされるか知れたものではございません。使用人の中でもそれを知っていたのは私と……志都さんくらいだったでしょう。というより2人の恋の秘密を守るために、おそらく協力者は不可欠だったのです。水南様は一番近くにいた志都さんと私に、あえて秘密を漏らされたのだと思います」
 言葉を切り、微笑んだ須磨の表情がわずかに陰った。
「若い2人の危うい恋を、私などははらはらしながら見ていたものです……。そうしてその恋には、案の定破局が訪れました。お嬢様の婚約が正式に決まったのです。相手はむろん天さんではありません。結婚はその年の6月に決まり、水南様の周辺はにわかに慌ただしくなりました」
 成美は言葉を失い、雪村もしばらく言葉がでてこないようだった。
「………氷室氏は、さぞかしがっかりされたでしょうね」
「もちろん天さんもそうですが、あの当時は、むしろ水南様の方が憔悴されていたように思います」
「水南さんが、ですか」
「はい」
 少し考えこむような目をして須磨は続けた。
「何度も申し上げましたが、水南様は非常に冷静な……言い方は悪いのですが、感情の一部が欠落したようなところがある方で、これまで何があっても取り乱されることなど決してなかったのですが……、婚約者と見合いされたばかりの頃、ひどく青い顔でご帰宅されたことがあったんです」
 青い顔……。
「すぐに向井さんが寝室につれていかれて、私は急いでお薬などをお持ちしたんですが、お部屋の中で、水南様がひどく感情を荒らげて泣かれているのだけが判りました。驚きました。なにしろ水南様に限って……こんなことは、初めてだったものですから」
「それは、婚約されたことと何か関係が?」
「まだ正式な婚約は交わしておりませんでしたけれど、その方と出かけられた帰りだったと思います。相手は非常に年上の方で……なにかしら、水南様の意に沿わないことでもあったのではないかと思いました。はっきりしたことはわかりかねますが、その日を堺に、水南様は少しお変わりになられたというか……ひどく信心深くなって、胸にクルスをかけるようになったり、食堂に大仰な祭壇などを作らせたのもあの頃だったと記憶しています」
「水南さんは、確かキリスト教徒でしたね」
「ええ、後藤家の皆様は全員そうです。けれど水南様に関して言えば、それまではむしろ無神論者のようでございました。……下世話な邪推でございますけど、水南様は熱心な信徒を装うことによって、婚約者からご自身の身を守っておられたような気がいたします。天さんと水南様が当時どのような関係だったのかは推測するほかございませんが、……二夫に交わるというのは、水南様のご気性上耐え難いことだったのではないかと思いますから」
「……水南さんの、ご気性といいますと」
「とても、一途で純情な方でございますから。そして非常に潔癖な方で……、婚約された方と手を繋がれただけで、手指の肌が荒れるほど何度も手を洗っていたこともございます」
 成美は思わず雪村を見る。雪村はわずかに眉を寄せている。
 なんとなく、同じ疑問を感じたのだと判った。
 水南の人物像が、三条守から聞かされたものとかけ離れているのだ。
 氷室を憎んでいたどころか、その氷室のために純血を守ろうとさえしていたのなら、これではまるで、シェイクスピアのロミオとジュリエットだ。
 それほどまでに愛しあった水南と氷室は、後年結婚までしている。
 なのに、それはわずか数ヶ月で破綻を迎え、氷室は今でも、水南の幻影に悩まされ、深すぎる愛憎から解き放たれずに苦しんでいるのだ。
 一体2人は、どのような経緯を辿り、憎みあうようになったのだろうか――
「それでも、水南様のご婚約が整ってからの後藤家は、ひどく和やかなムードに包まれておりました。旦那様は出馬の準備にいそしみ、杏子さんともまるで本当の夫婦のように仲睦まじく過ごしておられました。それが全て砂上の楼閣だったと思い知らされたのは、それからほどなくした12月の半ばのことです。――杏子さんが……天さんを連れて、突然後藤家を出て行ったのです」
 不意に強くなった風が、ガタガタと窓ガラスを鳴らした。
 
 
「出て行った」
 雪村が、やや驚いた声で繰り返した。
「それは――後藤氏と、何かいさかいでもあった、ということですか」
「わかりません。帰宅して一報を聞かれた旦那様の様子をみるに、寝耳に水といった風でございました。……旦那様は怒り狂い、すぐにも追手を差し向けようとする勢いでございましたが……、そこに、電話があったんです」
「電話」
「相手はわかりません。取り次いだ者に聞いたところ、ただ男の声で、旦那様に取り次げとだけ……。自室で電話を受けた旦那様はそれきり部屋に閉じこもられ、――室内は翌朝、滅茶苦茶に荒れておりましたけど――、結局旦那様は朝まで出て来ませんでしたし、杏子さんを追うという話も、それきり帳消しになってしまいました」
 須磨は言葉を切り、眉を陰らせた。
「詳細がわかったのは、翌朝、天さん1人が帰ってきた時です。なんでも杏子さんは出所したご主人の元に帰られたんだとか……、その時初めて知りましたけど、杏子さんのご主人は服役されていたんです。離婚も、世間体のための偽装離婚のようなものだったのでしょう。天さんは旦那様に土下座して謝罪され、旦那様の怒りもそれでようやく収まったようでした。……不思議なことに、旦那様はむしろ喜んでおられた気がします。杏子さんではなく、天さんが戻ってきたことに」
 ほうっと須磨はため息をついた。
「正直、私などはちょっと信じられませんでした。なにしろ旦那様は杏子さんにことのほか執心で……とても簡単に手放すようには見えなかったものですから」
 雪村がわずかに眉を寄せた。
「なんだか奇妙な話ですね。……愛人であった母親がいないのに、その息子だけが、後藤家に残ったというわけですか」
「当時の天さんは旦那様の右腕も同然でございましたからね……。お屋敷では随分重宝されていたんです。当時は老齢の執事がおりましたけど、実質、天さんが全てをしていたように思います。預貯金や株の管理、運用などもです。そこには表に出せない秘密などもあったでしょう。……ですから旦那様にしてみれば、天さんだけは逃したくなかったのやもしれません」
 須磨は少しだけ視線を下げた。
「いずれにしても天さんは戻ってきました。おそらく水南様のことが気がかりだったのではないかと思います。いえ、気がかりというよりは、その頃にはもう、天さんは水南様をつれて逃げる腹積もりだったのでございましょう――そうです、2人は駆け落ちしたんです。年が明けてすぐの、雪が降る寒い朝のことでした」
「…………」
 雪………。
 脳裏に何かがひらめくように、成美は氷室と一緒に過ごしたクリスマスの夜のことを思い出していた。
 僕は雪が嫌いなんです。そう呟いた氷室の横顔を思い出していた。
「その夜の騒ぎときたら……今思い出してもぞっとして、心臓が止まりそうな気がいたします。駆け落ちを手助けしたのは、水南様付きの使用人である向井さんでしたが、それはもう、旦那様に殴る蹴るの……殺されんばかりのすさまじい折檻を受けていました。財産管理をしていた執事も同様にございます。なにしろ天さんは、旦那様が管理していた水南様の相続財産を、そっくり水南様の口座に移されていたそうなのです。それだけじゃあありません。水南様が婚約されたお相手は、旦那様にとって後ろ盾ともいえるお方のご子息。大げさでなく、旦那様の命運がかかった婚約といっても過言ではなかったのです。つまり水南様は、実にあっさりと旦那様をお見捨てになられたのです」
 眉を寄せたまま、須磨は続けた。
「それでも旦那様が警察に通報なさらなかったのは、当時天さんがまだ未成年で、ことが発覚すればむしろ駆け落ちは水南様のスキャンダルになるということ。そして、天さんが、後藤家の秘密をあれこれ握っていたからなのでしょう。向井さんは頑として2人の行く先を漏らさず、2人の駆け落ちは一見成功したように思えました。けれどその翌日……思わぬ事件が起きたのです」
「事件、ですか」
「天さんのご両親が……杏子さんが、ご主人と一緒に鉄道事故にあわれたのです」
 成美は息を飲んでいた。
「早朝の電車に……それは事故だったのか、心中だったのか。いずれにしても2人は、東京に向かう最中だったと聞いています。水南様と駆け落ちした天さんを探すためにです。……後で耳にした話ですと、駅で、杏子さんは半狂乱になっていたそうです。ご主人とひどく言い争っていたとか……そういった事情から、結局自殺という結論になってしまったのでしょう。不幸にもご主人は、その巻き添えになってしまったのやもしれませんが」
 息が詰まったようになって成美は何も言えなかった。
「逃亡中の天さんが、どうやってその報を知ったかは定かではございませんが、おそらく警察から、天さんの携帯電話に連絡があったのではないでしょうか。天さんは、その夜の内には事故のあった父親の郷里に着いたそうです。あの地方はその日、ひどい豪雪に見舞われたそうで……、そんな雪の中、お可哀想に、天さんは1人きりでご両親のご遺体を確認したと聞いています」
「水南さんは、その時一緒ではなかったんですか」
 雪村が眉をひそめて口を挟む。須磨は少し残念そうに首を横に振った。
「後日わかったことですが、水南様1人が、その日の朝の便で渡仏されておられたそうなんです。警察から事故の連絡があった時刻を考えますと、事故の知らせが入る前には、もう別れていたことになるのでしょう。どういう事情があったかはもう誰にも判りませんが、天さんと水南様は、……土壇場で、別々の道をいくことを選ばれたのでしょうね」
「あの――」
 成美はなにか言おうとしたが、それが何なのか自分でも判らないまま、力なく口を閉じた。
 なんだろう。さっき、何かがひっかかった。すごく大切な――何かが。
 口をつぐんだ成美を、少し不思議そうに見てから、須磨は続けた。
「以来、水南様の行方はようとして知れないまま、杏子さんの死がショックだったのか、旦那様も呆けたようになってしまわれたまま……、騒ぎは何事もなかったかのように収束いたしました。それきり天さんは、私の知る限り一度も後藤家に戻ってきていません。亡くなられたご両親の遺産などを整理して、それで大学まで出られたとは聞いております」
「……水南さんは?」
 雪村の問いに、須磨はそっと視線を伏せた。
「その事件を機に私を含めた使用人のほぼ全員が解雇されましたので、風の噂でございますが……、水南様は、それから4年くらいしてふらりと帰国なさったそうです。あれだけ旦那様に結婚を勧められていたのがどういった次第か独身のまま……呼び戻した向井さんと2人きりで、後藤のお屋敷でひっそりと暮らしていたように聞いています」





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