「氷室杏子さんは、確か水南様が12の年に、10歳の天さんを連れてお屋敷にやってこられました」
 淡々と須磨は語り始めた。
「それはお綺麗な方で、天さんもお人形さんのように綺麗な子供さんでした。ご主人と離縁された後、だんな様の口ききでお屋敷に雇われたというお話でしたが、それ以外の身上はさっぱり……。旦那様のお知り合いなのだろうということで、当初、私どもは随分気を遣ったものです。なにしろ旦那様が直々に使用人を推挙なさるなど、今までなかったことでしたから」
 言葉を切り、須磨は記憶を手繰るように瞬きをした。
「いずれにしても、お屋敷では最初から心ない噂がありました。先ほども申しましたが、旦那様が使用人を推挙するなど初めてのことでしたし、杏子さんは、それはお綺麗な人でしたから。そして噂は、すぐに現実になったように記憶しております。――つまり杏子さんは、使用人でありながら旦那様とよからぬ関係になったのです」
 そのくだりは、もう成美も雪村も知っている。
 成美はなんとも言えない気持ちのまま眉だけをひそめた。
 ある意味残酷な光景だ。やがて夫婦になる氷室と水南は、そんな最悪の状況下で出逢っていたのだ。
「失礼ですが、その当時、後藤氏の奥様は――」
 雪村の問いに、須磨はわずかに眉を曇らせた。
「ミナエ様……水南様のお母上のお名前ですが、ミナエ様ならもう亡くなられておいででした。当時から遡ること8年前。水南様がまだ4つの折でございます」
「それは……事故かなにかで」
「ご病気で心身が弱っておられたとしか。実のところ、私がミナエ様にお会いした――お会いしたと申し上げてよいなら、それは葬儀の時が初めてだったのです」
「……というと……」
「私は、水南様がお生まれになる一月前に後藤家に雇われましたが、その時には、すでにミナエ様はお屋敷におられませんでした。ご出産される半年ほど前にお屋敷を出られて、山頂にある別宅でご出産なさり……、そこで体調を崩されたのだとか。医師が常駐して看護にあたっているということでしたが、結局はその別宅でお亡くなりになったと聞いています」
「山頂、とおっしゃいましたが、それは後藤家がある山のことですか」
「そうです。とはいっても実際に私が、その場所を見たことはないのですが」
「というと……、そこに、使用人の方々が行かれることはなかったのですか」
「使用人が別宅に行くことは厳に禁じられておりました。ですから私ども使用人には、詳しいご病状は一切わからないし、知らされることもなかったのです」
「ご出産の半年前から、と言われましたね」
 ――いやに引っ張るな。
 成美は少しだけ眉を寄せて、雪村の横顔をうかがった。
 なんでそこにこだわるんだろう。聞きたいのはお母さんの病気の話ではないはずなのに。
「里帰りするならともかく別宅で、ですか。後藤家の女性は、代々その別宅で出産するしきたりになっているんでしょうか」
「さぁ、……先ほどもいいましたが、私は水南様がお生まれになる一月前にお屋敷に来たものですから、昔のことまでは」
「古い使用人などで、事情を知っている方はおられなかったのですか?」
 成美は再度不審を覚えて雪村を見た。――確かに興味を引かれる話ではあるけれど、少ししつこく聞きすぎではないかと思ったのだ。
 須磨は少し遠い目になった。
「どうなのでしょうねぇ。使用人は私を含め、皆、旦那様の代になって雇入れられた者ばかりですから、昔の後藤家を知る者はいなかったのではないでしょうか。あるいは志都さんなら……祖母の代から後藤家にお仕えしているという向井志都さんという使用人がいたのですけど、志都さんなら詳しい事情を知っていたのかもしれませんが、大変口が重い方で、その件で、私どもに何かを漏らすことはありませんでしたから」
 向井志都――
 今でも後藤家の管理人をしているという女性のことだ。
「ミナエさんが亡くなられたのが水南さんが4歳の時だといいますから……、つまり4年以上も、ミナエさんはご自宅に戻られることがなかったのですか」
 何がひっかかるのか、まだ雪村の質問は続く。須磨はゆっくりと頷いた。
「そう、聞いております」
「なんだか奇妙な話ですね。……なんのご病気か判らないので推測しようもないですが、そうまでして隔離する必要があったんでしょうか。娘である水南さんとも会えなかったということなんでしょう?」
「水南様は、時々ではございますが、志都さんに連れられて、お見舞いに行くことが許されておりました」
「志都さんだけは、ミナエさんに会うことができた、ということなんですね」
「ええ。もっとも口が固い志都さんが、奥様の様子を漏らすことは一度としてありませんでしたけどね」
 須磨はそこで言葉を切って、湯のみで口を湿らせた。
「話を戻しますが、このような次第ですから、奥様の死後、まだお若かった旦那様が外に囲い女を作られるのも仕方のないことだったんです。ご承知かと思いますが、代々後藤家の当主は婿養子で、再婚しないことが遺産分割の絶対条件になっています。……当時の旦那様はまだ30代半ば、囲い女は、杏子さん1人ではございませんでした」
「他にも、お屋敷にそのような女性がいたと」
「いえ。私が知る限り、家にまで住まわせた女は杏子さん1人だったでしょう。つまり杏子さんは、他の愛人たちとは、まるで別格の扱いだったんです。連れ子の天さんの扱いも含めて、全てが異例ずくめだったように思います」
「大切にされていたということですか」
「というより、……他の愛人たちに対してが酷すぎた、とでもいいますか」
 須磨は、少し考えこむような眼差しになった。
「……旦那様は、なんといいますか独占欲が病的に強いところがございまして……女性をまるでご自身の所有物のように扱われるんです。人ではなく、物か家畜のように、です。そうして裏切りは絶対に許しません。一度でも浮気心を見ぬかれた女たちは、それはもう、むごい仕打ちを受けるんです」
 雪村は眉を寄せながら頷いた。
「ご当主にまつわるそういった悪い噂は、失礼ですが、僕も少なからず耳にしました。氷室杏子さんに関しては、他の女性たちとは全く違う扱いを受けていた、ということですね」
「……独占欲という意味では、お屋敷に閉じ込めておくくらいですから、相当だったのでございましょうけど……。少なくとも旦那様が愛人のご機嫌をとられるのを、私は初めて目の当たりにいたしました。豪華な服や宝石を買ってあげたり、息子の天さんにいい教育を受けさせたり。そういったことは、それまでの旦那様には決してないことでしたからね」
「推測で構いませんが、その理由はなんだと思われますか?」
「……杏子さんを愛しておられたのでございましょうか。それ以外にどう旦那様の態度を説明してよいものか私には判りません。ただ、当時はこんな噂もございました。天さんは、あれはもともと旦那様の子どもなのではないかって」
「その真偽は、確かになったのでしょうか」
 成美はもう、驚きの連続だった。何を聞いても殆ど動じること無く冷静に質問をする雪村が信じられない。
 わずかに眉をあげた須磨は、すぐに、ほほ、と肩を揺するように笑った。
「真偽も何も、そもそも旦那様と天さんの血液型が違いますから。悪意のある噂です。ただ、それくらい杏子さんも天さんも特別な扱いを受けていたということなんです。理由は色々あったのでしょうが、私には計り知れません」
 そう言うと、須磨は手元の湯のみから最後のお茶を飲み干した。
 
 
「当然の質問になりますが――今までのお話を聞いた限りでは、水南さんは、氷室親子にいい感情を抱いていたとは言いがたかったのでしょうね」
 茶を淹れ替えて戻ってきた須磨に、最初にそう切り出したのは雪村だった。
 それは成美も同感だった。
 病気で死んだ母親の代わりに、愛人の母子がやってきた。
 愛人を家に住まわせ、その息子を娘と同じ学校に通わす父親。――水南が、たとえどれだけ心優しい娘であったとしても、相当な葛藤があったに違いない。
「そうですねぇ……。いえ、私はしょせん、水南様が20歳の折までしか後藤の家にはおりませんでしたから、その後のいきさつなどは存じ上げませんけれど」
 雪村と成美の前に、新しい湯のみが差し出された。
「どう言えばいいのか……、水南お嬢様はそのあたり、少々変わった所のあるお嬢様だったんです。なんといいますか……少なくとも、父親の愛人が家にきたくらいで動じるような、そんな繊細な性格ではございません。そういった意味では、おそらく旦那様も、心配していなかったのではないでしょうか。それは私ども使用人も同じでございました」
「それは……水南さんが精神的に大人びていたということですか」
「そうとも言えますが、そもそも水南様は、ご両親に対して世間並の感情を持っておられないんです。長らく別居されていたせいか、ミナエ様がお亡くなりになった時も、涙ひとつ流されませんでした。毅然としておられて――まだ随分とお小さかったのに……」
 寂しげに目をすがめ、須磨は手元の湯のみに口をつけた。
「また、旦那様に対しては、何故だかひどく警戒心がお強くていらっしゃいました。子どものころひどく折檻されたのが原因だろうと、志都さんは言っていましたけれど、一人では絶対に近づこうとさえなさらないほどでした。――これは後年の話になりますが、水南様は、窮地に陥った旦那様を顧みることなく見捨てています。ですから、旦那様をめぐって杏子さんに特段の感情を抱くことは、まず、なかったと思うのです」
「では、……両者の関係は良好だったと」
 須磨は目を閉じて首を横に振った。
「いえ、最悪でございました」
「最悪、ですか」
「どういえばよいのでしょうねぇ」
 そういった須磨が、すっと傍らの婦人雑誌をとりあげた。
「あっ、ゴキブリ!」
 間髪入れず、その雑誌が畳を叩く。
 成美は凍りついていたし、それよりなお腰を浮かせた雪村が青ざめていた。
 そんな2人を振り返り、須磨は悪意のない顔でにっこりと笑う。
「なんて、ね」
 え、嘘……?
 このタイミングで、お茶目というかなんというか、一体全体なんの真似……?
「目に入った瞬間、本能的に嫌悪してしまうものってあるでしょう? 理由もなく目の前から消し去ってしまいたいもの。水南様にとっては、それが天さんだったのだと思うんです」
「つまり……ゴキブリですか」
 ぎこちなく笑う雪村の顔はまだ青ざめている。この人よほどゴキブリが嫌いなんだろうな、と、成美はちらっと思ってしまった。
「ほほほ、ちょっと失礼なたとえでしたね。でも、そうとしか説明できないんです。いずれにしても、水南様は出会った瞬間から天さんを――そう、嫌っておいででした。いっそ、ひと思いに叩き殺すのではないか思うほど、最初の頃はひどい真似をなさっておいででした。――幼い天さんにとっては言葉どおり地獄のような日々だったでしょう。けれど天さんは耐え抜いたのです。そうしていつしか、お嬢様の一番の好敵手になりました」
「好敵手」
「遊び相手、とでもいうのかしら。水南様の考えだす複雑な謎かけを駆使した遊びについてこられるのは、後にも先にも天さん1人だったのです。そうして水南様も、いつしか天さんの存在を認めるようになっていったのです」
「……水南さんとは……、そんな風に本能的に、他者を嫌ったりするような人だったのですか」
「いえ、私が知る限り、そのような相手は天さん1人でございましたよ」
「理由は、なんだと思いますか」
 少し考えこむような目になって、須磨は小さく首を横に振った。
「水南様は、この界隈では自他ともに認める女王でした。後藤家の権威もさることながら、水南様には、幼い頃から周囲をひれ伏させる不思議なオーラがあったんです。あの美貌、あのご気性、そして天才的な芸術の才能。周囲の大人たちが過剰にほめそやしたことも原因のひとつでございましょう。そんな水南様ですから、自分より能力の劣る者など見向きもしません。相手にもなさらないのです。けれど、天さんだけは別でした。……思うに、それは天さんの態度云々というより……出会った最初から、ある種のインスピレーション、……危険な兆候とでもいうべき何かを、天さんに感じ取っておられたのやもしれません」
「……ちょっと……意味がわかりかねるのですが」
「いつか、自分の優位性の全てを奪われてしまうのではないかという危機感です」
 須磨はわずかに目を細めた。
「私が知る限り、水南様は、とても孤独な方でございました。ご両親との縁も薄く、心を割って話せるご学友もおられません。非常に才気あふれるお方でしたが、後藤家の娘である限り、その才能を活かすこともできないでしょう。それでも水南様がお強くていらしたのは、ひとえにご自分が特別な存在だからという自尊心があったからです。その水南様の自尊心を、とても危うくさせたのが天さんだったのではないでしょうか」
 そういう意味では――と言葉を切り、須磨はわずかに苦笑した。
「天さんが来られてからの水南様は、多少、以前より人間くさくなられたのやもしれません。なかなか服従の意を示さない天さんに、水南様は珍しく苛立っておいででした。立場上天さんが折れはしましたけど、それでも水南様は、色んな手をつかってご自分の優位性を天さんに示されておられたように思いますから」
「……隠した物を探させるのも、その手段のひとつですか」
「そうでしょうね。それも直接天さんに仕掛けずに、天さんの同級生や私ども使用人を巻き込むやり方でね。なにしろ水南様のお考えを見抜けるのは天さんだけですから、どうしたって天さんが土俵に引きずり出されてしまうんです。当時の天さんは随分用心深くて、極力水南様に関わらないように注意されていたようですけど……それでも、結局は、巻き込まれてしまうんでしょうね」
 何かを思い出したのか、くすくすと、そこは楽しそうに須磨は笑った。
「まぁ、こういってはあれですけど、ずるいやり方ではありますよ。だって答えは水南様しかご存知ない。天さんは、いつだって全力で謎を解く立場でしたから。――本当をいえば、水南様は判っておられたんじゃないのでしょうかね」
「なにを、でしょうか」
「もし立っている土俵が同じなら、ご自分は、天さんに敵わないことが。だからあんな意地悪な真似をなさったんじゃあないかって。――最も水南様のそういった子どもっぽいところは、高校を卒業する頃にはすっかり消えてしまいましたけれど」
 唇から笑みを消して、須磨は小さく息をついた。
「まぁ、そんな風に何かと天さんに辛くあたっていた水南様でしたが、裏返せば、それも一種の愛情だったような気がしてならないんです。ですからやがて2人が恋仲になった時も、私はさほど驚きはしませんでした」




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