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電車から降りてホームに立つと、山間のひんやりとした冷気が成美を包み込んだ。
もう5月の初旬だというのに、県北はまだ肌寒い。
車内で脱いだ上着を羽織ると、成美は数人の帰省客に混じって、駅舎に続く階段を上がり始めた。
あの頃は、吐く息がまだ白かった。
約5ヶ月前に見た駅舎の天井を、今再度見上げながら、成美は少しだけ唇を緩めていた。
去年。12月の最後の日――あの日はまだ雪も降っていて、景色は全て灰色がかって見えた。
今は、風景のあちこちに鮮やかな初夏の緑が息づいて、肌寒いとはいえ、全てが明るい陽光で満ち溢れている。
冬の間、過酷な状況に耐え続けてきた生き物たちが、一斉に歓喜の声をあげているかのようだ。
なのに、最後にここを訪れた12月のあの日の方が、成美には何倍も輝いて見えた。
「おばあちゃん!」
「おうおう、よう来たねぇ」
弾んだ声に視線を向けると、青いリュックサックを背負っている男の子が、迎えに来たと思しき祖母と抱き合っている。
一瞬口の端に浮かんだ微笑はたちまち消えて、成美は再び色のない世界を歩きはじめた。
自分の世界から。
暖かな色味がまるで消えてしまったのは、いつだったろう。
いや、成美はその瞬間を、今でもはっきりと覚えている。
どれだけ忘れたいと願っても、その日の出来事は、夢で、そして否応なしに喚起される記憶の中で、何度も何度も再体験してしまっている。
「日高さん、聞いた? 道路管理課の氷室さんの話」
はい? と成美は引き出しを開けていた手を止め、隣席の篠田を振り返った。
今度は篠田が、そんな成美を不審そうに見上げる。
「どうしたの、朝から引き出し全開で」
「あ、いえ……」
長かった正月休み開け。これが休みボケというやつなのか、去年、印鑑をどこに収めたのかすっかり忘れてしまったのである。
成美は軽く赤面してから、引き出しを閉めた。
「なんでも。氷室課長が、どうかされたんですか」
「退職されたらしいよ」
「はい?」
タイショク――
その言葉の漢字も意味も、成美にはまるで判らなかった。
「今日付け。道路局は今、大パニックだってさ。あそこは複雑な条例改正を沢山抱えてて、それ、――オホン、オホン」
不意に篠田が目を泳がせて咳き込み始めた。
成美にはまだ、篠田が言っている言葉の意味が何一つ判らない。
「バーカ。こういう時ははっきり言ってやればいいんだ」
不意に口を挟んだのは、出勤してきたばかりの雪村だった。
朝は大抵、誰も声がかけられないくらい機嫌が悪い雪村なのだが、その朝の雪村は、ひと目でそれと判るほど不機嫌そうだった。
「つまり氷室課長が、能力のない日高に変わって、本来うちでチェックすべき条例改正の大半をやってくれてたんだよ。氷室さんの後任に誰がつくか知らないけど、お前、間違いなく今日から家に帰れなくなるからな」
「ちょっ、雪村さん、言い過ぎ」
慌てる篠田を振り返りもせず、雪村は自席について、机から名札を取り出した。
「言い過ぎも何も、誰だって知ってることだろ。日高一人じゃ無理だから、俺らにだってとばっちりが回ってくるのは確実なんだ。そんくらい面倒な――ある種前例のないくらい複雑な条例改正をやってた最中だったんだよ。道路局は」
「さすがに後任は、その辺りの事情に詳しい人がつくと思うんだけどなぁ」
と、呟いたのは、そのとばっちりを早くも懸念してか、ひどく憂鬱そうな顔をしている大地だった。
「阿古屋さんあたりが当確なんじゃないの」
と、その前席の織田。
「いやいや。あのおっさん、頭の中身は空っぽだから。あんなのがトップに立ったら、管理課、間違いなく崩壊する」
「ま、まぁ、みんな、うちには柏原補佐がいるんだし」
とりなすように言ったのは篠田だった。
「条例改正の件では、これまでだって、柏原補佐が氷室さんに助言していたようだし。そんなに畏れなくても大丈夫だよ。日高さん」
日高さん?
と、再度呼ばれ、成美はようやく顔をあげた。
「え……」
「なんだ。聞いてなかったの?」
苦笑して篠田。
いや、聞いていたというか、いないというか。
というより、それ、なんの話?
「そういや、その柏原さんは?」
ふと気づいたように言ったのは大地だった。
「今朝は、まだ顔みてないね」
「パソコンも閉じたままだし。なんかあったのかな。あの人に限って遅刻はないと思うけど」
すでに始業まで1分足らずだ。
「そういえば、ちょっと、うちの様子もおかしいね」
篠田が訝しげに囁いた。
「いつも仏頂面の課長がやたら上機嫌だし、総務も人の出入りが激しいし――もしかしたら……」
その時、定時を告げるチャイムが鳴った。同時にフロア全体の電灯がつき、立っていた職員も席につく。
「じゃあ、柏原君、皆には簡単に挨拶してすぐにあちらに行くように。正式な辞令交付は9時からになるが」
「はい」
そんな声が出入り口の方から聞こえてきて、振り返ると噂の柏原補佐と総務課長が執務室に入ってくるところだった。
「引き継ぎも大変だろうが、道路局の方をまず頼むよ。局長もそれをお望みだからね」
「承知しています」
水のように静まり返った執務室の中に、自席に向かって歩き出した柏原補佐の靴音だけが響いている。
「――嘘だろ。マジで?」
「なんか、そんな予感もしたんだよな」
ひそひそという囁き声。
「あちゃあ、そう来たか」
篠田が隣で頭を抱えた。「日高さん、これマジで、今夜から僕ら帰れないかもよ」
まだ、成美は夢の中にいるようだった。
今、周囲が口にしていること全部が、まるで頭に入ってこない。
「皆さん、少しいいですか」
席の前に立った柏原が口を開き、全員が心得たように立ち上がった。
一拍遅れて、成美もようやく立ち上がる。
認めたくない現実が、有り得るはずのない現実が、その刹那、獰猛に襲いかかってきたようで、思わず救いを求めるように柏原補佐を見上げている。
その柏原の目が、一瞬自分に向けられたような気もしたが、しかし誰よりも冷静な女性は、やはり冷静に――淡々と口を開いた。
「実は、本日づけで道路管理課の氷室課長が退職され、その後任として――」
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