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「ええ、氷室キョウコさんのことなら、よく存じ上げておりますよ」
 その日の午前10時、まだ気持ちの整理がつかない成美は、雪村に引きずられるようにして、後藤家からさほど離れていない場所にある小さな民家を訪問した。
 昨日、図書館で知り合った司書に紹介された、後藤家の元使用人で、名前は中村須磨(すま)という。
 いきなりここまで踏み込むのはどうかと成美は随分躊躇したが、今朝――なぜだか最強に機嫌が悪かった雪村が司書に連絡を取り、朝の内に会う段取りを取り付けてくれたのだ。
「キョウコさんとおっしゃるのですか。字は京都の京ですか」
 今も、通された仏間で、積極的に話を進めているのは雪村1人である。
 成美はまだ、居心地の悪さと躊躇う気持ちを抱いたまま、黙ってその隣に座り続けていた。
 昨夜――雪村に全てを打ち明けたものの、果たしてそれでよかったのかどうか、成美にはまだ判らない。
 成美の説明が悪かったせいもあるのか、雪村は色んなところで疑問とひっかかりを覚えたようだった。
(……つまりお前の推理では、氷室さんは亡くなった奥さんをまだ愛していて、その奥さんに腕を引かれるように行方をくらましてしまったと……? 民話か? ありえねぇし、意味わかんねぇ)
 まぁ、そこは、いわば女の勘というやつで、言葉を尽くしたところで判ってもらえるとは思えないが。
(乱暴されて子供を産んだ? しかも相手がヤクザ? それ、確実に話、盛ってるだろ。国会議員の娘がヤクザの子供産むって……ないない。水南って女はそこまで妄信的なクリスチャンだったのかよ。右の頬をぶたれたら左の頬を差し出すようには、到底思えないキャラだけど)
 言われてみれば、その通りだ。氷室さんのトラウマの元だったりするあたり……むしろ何倍返しにもしてやりかえすタイプにすら思える。
(てか、ヤクザ使って女襲わせるって……昭和のドラマか。腐っても東大出の官僚がそんな危険な橋渡るかよ。だいたい氷室さんみたいな官僚が、ヤクザみたいな連中に一度でも尻尾を握られてみろ。生涯脅し倒されて年金まで持ってかれるのがオチだっつーの。お前さ、馬鹿だから三条ってやつにからかわれたんだよ)
 そこまで言われると二の句も告げられない成美である。
(ちょっと気になるのは、国土交通省の――今年になって逮捕者が出た例の収賄事件だな。俺には、そっちが無関係だとは思えない。そのあたりは、別ルートで調べてみた方かいいのかもしれないな)
 私はそこ、全然関係ないと思ってるんですけど……。
 正直いえば、成美の感情を一切無視して淡々と分析をすすめる雪村が、成美にはいまひとつ判らなかった。
 彼の熱意は一体どこからくるのだろう。
 今も、成美以上に積極的に関わってくれようとしている。休みの最後の日を潰してまで。
 昨日、彼女とのデートがどうなったのかは、まだ恐ろしくて聞けていない。
 けりをつけたい気持がある――その言葉の意味も、今は考えないようにしている。
「いいえ、京都の京ではなく、確か杏と書いたように思いますよ。あんずの子と書いて杏子さんね」
 指で畳に杏、と書いて、中村須磨はにっこりと微笑んだ。
 氷室杏子――初めて耳にする、氷室の母親の名前である。
 須磨は微笑んだまま、湯呑みを持ち上げて口をつけた。
「電話の話だと、お聞きになりたいのは後藤の家の歴史だということでしたけど、そうではなかったのねぇ。杏子さんと、その息子の天さん。……ええ、ええ、よく覚えていますよ」
 隣の雪村が湯のみを置いて居住まいをただした。
「実を申し上げると、僕らは現在行方不明になっている氷室氏の行方を探しています。――それで……大変不躾だとは存じますが、後藤の屋敷に住んでいた頃の氷室氏のことを、差支えのない範囲でお話いただきたいんです」
「差し支えのない範囲」
 笑顔のままでやんわりと繰り返す須磨は、少なくとも昨日の工事監督より慎重なようだった。
「ちょっと判らないわねぇ。差支えのない範囲とは?」
「それは……ご記憶にある範囲で構わない、という意味ですが」
「ほほほ、だって天さんが後藤の屋敷にいたのは随分長い間ですもの。一から話していると日が暮れてしまいす。結局のところ、何がおききになりたいの? 天さんの行方なら、もちろん私は知りませんよ。今どうしているかも知りません」
 案外鋭い切り返しに、少しためらってから、雪村が口を開いた。
「具体的に聞きたいのは――氷室氏と、後藤家の令嬢、後藤水南さんとの関係です」
 須磨は黙って唇の端をあげる。
「氷室氏が、後藤家のお嬢様と結婚されたことはご承知でしょうか」
「存じておりますよ。水南様からお葉書をいただきましたから」
「では、水南さんがお亡くなりになったことは?」
「知らせこそございませんが、風の頼りに聞いております」
「……水南さんにお子さんがおられたことは」
 それには、少しだけ須磨は黙ってから口を開いた。
「あるいはそういうこともあるかもしれないとは思っておりましたけど、詳しいことまでは」
 成美はふと眉を寄せた。今のは、ちょっと不思議な言い回しだった。ひどく年配の方だから単に話し方が歪曲なだけかもしれないが――
「僕らは、氷室氏の失踪の原因のひとつに、後藤水南さんが関係しているのではないかと考えています。というのも、昨年末、氷室氏は後藤邸に戻った直後、灰谷市の親しい友人らに何も告げることなく行方をくらましているからです。最後に彼と会った者の話だと、彼は後藤邸で何かを探していたらしいと……それは何者かの手によって隠されてしまった物らしいと……、その何者かがどうも水南さんのようであると、あくまで話を聞いた者の推測ですが」
 そこは成美の代弁のせいか、苦し紛れの説明をする雪村に、須磨は驚くほどあっさりと言った。
「そんな手の込んだ悪戯をなさるのは間違いなく水南様です。最もそれは、水南様が小学生……中学生の頃だったかしら。まだそういった子どもじみた遊びを好んでしておられた頃のお話ですけれど」
 懐かしむように目を細め、須磨は微かに口元を緩めた。
「水南様の一番の好敵手が、二つ年下の天さんだったのは、間違いございません。そう、あの2人はまだ、そんな遊びをしていたのね」
 成美は思わず雪村と顔を見合わせていた。
 なんだろう、この温度差は。
 成美が感じた限り、氷室にそんな――遊びを楽しんでいるような、そんな余裕はなかったように思えるのに。
 しかも、後藤水南は半年も前に亡くなっているのだ。
 その2人を捕らえて、今もまだ遊んでいるのね、とは……。
「……遊び、ですか」
 気持ちは成美と同じなのか、雪村がやや面食らったように聞き返した。
「……氷室さんは、それで職まで辞して、行方をくらましてしまったのですが」
「あら、だったら天さんは隠された方なんだわ」
「え?」
 須磨は楽しそうにくすくすと笑った。
「水南様は、人を隠すのがとてもお上手だったのですよ。ああ、懐かしいわ。私ども使用人も、よくそうやって水南様に振り回されたものです」
 成美もそうだが、雪村も咄嗟に言葉が出てこないようだった。一口お茶を飲み、やや困惑したように髪のあたりに手をあてる。
「その、……人1人が消えたんです。僕は、ある程度物騒な話だと思っているのですが……」
 須磨はそれには何も答えずにただ微笑む。
「それに、死後半年もたって、水南さんが……そういった遊び、ですか、そんなことを氷室氏に仕掛ける意味も判りません。僕の推論を言えば、氷室氏は、水南さんの遺品か手紙の中に、何か――姿を消した方がいいと判断せざる何かを見つけたことが原因で、行方をくらましてしまったと思うのですが」
 その言葉には、成美は少し驚いて雪村を見上げた。
 そうか。雪村はまだ国土交通省の汚職問題と氷室の失踪が関係していると思っているのだ。
 成美にはそれはピンとこないが、逆に男の雪村には、成美のようなセンチメンタルな発想は理解しがたいに違いない。
「差し支えなければ、氷室氏と水南さんのことで、何かご記憶にあることをお話いただけないでしょうか。2人は憎んでいたのか、愛し合っていたのか。水南さんが意図的に氷室さんに何かを残したのだとしたら、それは善意だったのか、悪意だったのか。2人は結婚後数ヶ月で事実上の離婚状態になり、以来水南さんがお亡くなりになるまで疎遠だったと聞いています。が、籍だけは5年もの間そのままにしてあった。僕にはそこが、――籍を残したままにしておいた水南さんの気持ちが、どうしても腑に落ちないんです」
「籍はそのまま……」
 須磨は呟き、そして視線を伏せて茶をすすった。
「そうですか。……そうやってお嬢様は、お亡くなりになられたんですか」
 それから続く不思議な沈黙には、何故か成美も雪村も口を挟むことができなかった。
 須磨が、若すぎる水南の死にさほど驚きをみせなかったのも、不思議といえば不思議だと成美は思った。風の頼りに聞いていたというから、予備知識はあったのかもしれないが――それにしても。
 やがて須磨は、ひとつ息をつくようにして顔をあげた。
「いいでしょう。なんの役に立つのかは存じませんが、私の記憶しているお2人のことをお話しましょう。ただ、私は水南様には大変お世話になりましたから、どうしても話は水南様よりになってしまいます。それでもよければお聞き下さいませ」










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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。