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「……本当に後悔しないんだな?」
 雪村の問いかけに、成美は小さく頷いた。
 狭いビジネスホテルのひとつしかないベッド。
 薄暗い照明の下、室内に置かれた夜着を羽織って座る日高成美の姿は、今までのどんな姿より違って見えた。
 その肩に手をのばそうとした雪村は、寸前で手を引き、離れた場所に腰を下ろした。
「いや……後悔するだろ」
 するに決まっている。6時間もわんわん泣くほど好きな男がいるのに、今夜いきなり他の男のものになるなんて――俺の正義が、道徳が、いや恋愛哲学が許さない。
「自棄になられても困る。後であれは一夜の過ちですと言われても迷惑だ。こっちは……本気でつきあうつもりだったんだ」
「……嬉しいです」
 おいおい、本当かよ。
 本当に俺の気持ちがわかってんのかよ。
(好きかもしれないし、気になるかもしれないし、一緒にいると楽しいかもしれないだろ)
 後で何事もなかったように風にスルーしてくれたけど、こっちがどれだけ――どれだけ恥ずかしい思いで、あれを口にしたと思ってんだ。
 あの後、どれだけ必死で自分を立て直したか。立て直したつもりが、どれだけ平常心を保てないでいたか。
 母親の口車に乗せられてうっかり見合いしてしまったのも、うっかり断るのを忘れたのも、――で、なんだか結婚の流れになってるのも、なにもかもお前のせいだろうが!
 お前は本当に――俺の人生に舞い降りた最強の疫病神だ。
 消えろ。いっそのことこの世から消えてなくなってしまえ。お前さえいなくなれば、俺は元の俺に戻れる――
「雪村さん」
「――!」
 背中にそっと手が添えられ、一気に血流が早くなった。
「……お願い……」
 お、お願い? お願いってなんだよ、それ。
 立ち上がった成美の足元に夜着が落ちる。ぎょっとして雪村は手の甲で目を覆っていた。
「ちょっ、ちょって待て、早まるな。俺だって男なんだ。わーっっっ、頼むからそんな恰好でこっちに来るな!」
 俺の正義が、道徳が、恋愛哲学が……!
「雪村さん!?」
 ひどく遠くで声がして、天井に薄い朝日が差し込んでいる。
 ドンドン、ともう一度扉が叩かれて、外から成美の声がした。
「ど、どうしたんですか、今、中からすごい音が……。なかなか起きてこないから、様子を見に来たんですけど」
「……そういう時は、内線を使うんだよ」
 なんつー夢を見てんだ、俺は。
 ベッドに片足だけをひっかけたまま、床に転がり落ちた自分の姿の情けなさに、雪村は長嘆して腕で顔を覆った。
「雪村さん? 何があったんですか? ま、まさか泥棒でも……」
「なんでもねぇよ。迷惑だから大声だすな!」
 しかし今朝の夢はまだマシな方だ。昨日なんてもっとひどかった。思い出すだけで――もう人間やめようかな、という気にすらなる。
「……先にメシいっててくれ、俺、朝は食えねぇから」
 扉の前でぼそぼそとそれだけ言って、雪村は再びベッドに仰向けになった。
 枕元のアイフォンをとりあげると、案の定、何件も留守電やらメールやらが入っている。見るまでもなく、どうせ同じ相手で同じ内容だ。
 履歴を開く、案の定、父親の番号ばかりが並んでいる。
 
 
 脩二、女嫌いの真面目なお前が無断外泊とは……、父さんが今どんな気持ちでいるか、わかるだろうか。
  
 
 多分、感涙にむせび泣いていることだけは、判る。
 
 
 お前のような気質の男が、見合い結婚など受けるはずがないと反対していたのだが、今回ばかりは母さんに軍配があがったのだろうね。
 PS 今夜は母さんが赤飯を炊いて待っているぞ。(/・ω・)/

 
 
「…………………………」
 こめかみの辺りで血流がどくどく流れるのを感じながら、雪村は端末を放り投げた。
 あいつら……、30過ぎた息子が、本気で未経験だとでも思ってんのかよ。
 いい加減にしろよ。んなわけないだろ。あんたらが無駄に美形に産んでくれたおかげで、男女問わず、これまでどれだけ罠にかけられたと思ってんだ。
 その罠に、一度や二度は落ちてしまったことだってある。
 そんなこんなでちょっとした女性不信に陥ったのが学生時代、それから理想だけが果てしなく高くなっていって――2年前、ようやくその理想どおりの女性に巡り会えた。
 柏原明凛。
 あの人と出会えた日の感激は、今でも色褪せることなく残っている。
 まるで目の前に、天使が……いや、美と知の女神が舞い降りてきたようだった。
 以来、ずっと、その人ばかりを見つめてきたつもりだった。なのにいつからだろう。山などでよく目の前をぷんぷん目障りに飛び回るやぶ蚊みたいなものが、目の前をちょろちょろしだしたのは。
 マジ、うぜぇ。
 性質の悪いことに、そのやぶ蚊は、払っても払っても、しつこく追いかけてくるくせに、その実心では別の男を一途に思い続けているのだ――
「…………マジ、消えてくんねぇかな」
 雪村は手を持ち上げ、目の前の何かをつかみとろうとした。手は空を切る。当たり前だ、そこには最初から何もないのだ。
 それでも昨夜は、確かに手の中に、それまで掴みどころのなかった何かを捕まえた気がした。
 捕まえたけど――手を開いた。
 多分、そうすることが、あの時の自分にも日高にも、最良だと―――思ったからだ。









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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。