「急ぎましょう。もうあまり時間がない」
「待って、天、そんなに早く歩けないわ」
 そういって歩調を早めようとさえしない水南を、氷室は苛立ちながら振り返った。
 すでに後藤雅晴は、2人の出奔を知っている。搭乗予定の飛行機気が飛び立つまでは、最早、一秒の猶予もないのだ。
 私を連れて逃げて――
 そう水南に訴えられてから1ヶ月後、2人は今、国際空港のロビーに立っていた。
 氷室と水南が後藤家から消えて、すでに丸1日が過ぎている。今頃後藤雅晴は血眼になって娘の行方を探しているだろう。
 水南が成人で氷室が未成年。この場合どう考えても水南の分が悪いことから、後藤が警察に通報しないことは判っている。それだけが唯一の希望だった。
「とにかく早く――飛行機の搭乗時刻に間に合わなくなる」
 少しでも水南の顔を人目に触れさせないため、時間ぎりぎりにタクシーを降りた。
 わざと足取りを北海道方面に向けて残したものの、この国際空港にも、後藤の追手が来ている可能性は十分にある。
「天。おかしいわ、何を1人で焦っているの」
 微笑んだ水南の首には、奇妙なネックレスがかかっている。
 ネックレス――というよりは、鎖にぶらさがった鍵のようだ。
 昨日後藤家を出た時から、気にはなっていた。ひどく古いもののようだし――少なくともファッションとして首にかけるような類のものではない。
 水南はなんでもないように「お母様の形見よ」とだけ言ったが、水南の母親に対する冷めた感情を知っている氷室には、それもまた奇妙に思えた。
「どうしたの? 怖い顔をして」
 不思議そうに笑うと、水南は自分の左手を目の前にそっとかざした。
 薬指には、氷室が前夜に贈った銀のリングが輝いている。
 そのリングを見る水南の目がわずかに潤んだので、氷室の胸もその刹那少しだけ熱くなった。
 昨夜、初めて2人で泊まった海沿いのホテルで、――そこは、決して水南に相応しいグレードではなかったけれど――氷室はひざまづき、これまでの全ての非を詫びて、水南に結婚を申し込んだ。
 自分でも頬が熱くなるほど安っぽい告白に、それよりさらに安い指輪。
 18歳と20歳。生活能力のない2人には、まるでままごとのようなプロポーズ。
 案の定、水南は少しばかり意外さに打たれていたようだった。でもすぐに指輪を指にはめると、嬉しいと呟いて少しだけ目を潤ませた。
「ありがとう……天」
「いつか、もっといい物を贈ります」
「いいの。これでいい……今夜のことを、私死ぬまで忘れないわ。本当よ……」
 水南を抱きしめながら、氷室は胸がいっぱいになった。
 幸せにする自信もなければ、この先、長く2人が一緒にいるような気すらしない。それでもこうするより他に、どんな方法があったのだろうか。
 自分はこの女を愛しているのだ。もう他に、なにひとついらないと思うほどに。
 それでも今、水南の手をひき、急ぎ足で搭乗ゲートに向かいながら、氷室は自分の中のもう1人の自分が、自棄になって笑っているのを感じた。
 俺は馬鹿だ。
 1年にも満たない前、氷室自身が愚かだと吐き捨てた真似を、今そのまま実行しようとしている。
 2人はこれからパリに向かうのだ。生活のあてはまるでないが、後藤が管理している相続財産を水南の口座に移し替えた生活資金だけは豊潤にある。
 少なくとも数年は、十分逃亡生活に耐えられるだろう。しかしその先の未来は――何もない。
 後藤の家を出ろ。
 わずか半月前、再会した父に言われたとおり、ついに氷室は後藤家を出ることにした。ただし、1人ではなく水南と一緒に。
 ずっと迷い続けていたことではあったが、母という人質が後藤に手にある限り、決して実行できなかったろう。
 その意味では父に感謝しなければならない。母が後藤家から消えた今、ようやく、その決心がついたのだから。
 誕生日に行われた婚約式の夜から、水南は再々、婚約者とでかけるようになった。
 男は水南の卒業を待たずに結婚したいと後藤に申し入れ、後藤はそれを快諾した。披露宴は今年の6月。あっという間に何もかもが慌ただしく決められた。
 夜遅く、婚約者の車に送られて帰宅した水南が、車の中で男にキスをされている場面を、氷室は何度目にしただろう。
 男は、出迎えに来た氷室などまるで意に介することなく、執拗に水南の唇を貪り、腿を撫でたりした。が、未だとれない右手の包帯がやはり気になるのか、それだけで残念そうに水南を開放するのだった。
 氷室は心の中で、何度男を殺したか判らない。
 いくら右手の包帯で拒否の意を伝えているとはいえ、無抵抗の水南にも、それ以上に腹が立った。
 もちろん、父親の立場を守りたいという気持ちがあるのだろう。
 しかし水南なら――かつての水南なら、怪我などしていなくても、どんな口実をつけても相手の要求を拒否できるはずだ。一体何故、水南は、これほど無抵抗で従順なのか。
 あの女王然とした傲慢だった水南は、もうどこにもいないのだろうか。
 しかしその憤りも、夜、水南と見つめ合うだけで溶け落ちて霧散する。そうしてますますたまらなくなるのだ。この美しい人を、いずれ他の男が好きなように汚すのだと思ったら。
 母が父の元に戻って幾日かした後――信じがたいことに、後藤が母に対してさほどの未練すらもっていないと判った時――氷室は水南を連れて逃げることを決意した。
 もう後には戻れない。
 今海外に行けば、氷室の国内の学歴は中卒止まりだ。しかも背任横領罪という罪まで犯してしまった。日本を出たら最後、二度と日のあたる場所を歩くことはできないのは判っている。未来は――完全に消えたのだ。
 それでも水南さえいればいいと思う自分に、最早氷室は笑うしかなかった。
 一体どういう不思議だろう。人より何倍も利口だと思っていた自分が、世界で一番愚かな選択をしようとしている。思えば躓きは、何もかもあの夜から始まっているのだ。
 氷室と水南の界面が壊れた夜。表面張力で保たれていた関係が壊れた夜――
「…………」
 ふと氷室は足をとめた。
 それがもし、何もかも計算ずくのことだったら――?
 何百回、いや、何千回となく頭の中で繰り返した疑念が、いきなりかまくびをもたげて巨大化する。
 この土壇場で――もう後戻りできなくなった今になって。
「天、どうしたの?」
 もしかすると、自分はひどく大切なファクターを見落としているのではないか?
(水南はね、あなたにとても大切なことを隠してるんだから)
 神崎香澄と、一度でも話をするべきだったのではないか?
 水南が自分に隠している秘密を、押さえておくべきだったのではないか?
 どうしてこの程度の裏を取ることができなかったのだろう。
 判っている。この数日、その程度の冷静な判断ができないほど氷室の胸をかきみだしていたのは他でもない――渦巻く嵐のような物狂おしい嫉妬だ。
「天、もう、ここでいいわ」
 不意に、ひどく静かな声がした。
 氷室は強張った表情のまま、傍らの水南を振り返った。
 水南の目は、もう氷室を見ていない。
 氷室の肩越しに――どこか別の場所を見つめて彷徨っている。
 そのガラス玉のような目に、いきなり強い生気が生まれた。迸るような幸福の輝きが、双眸から光のように放たれる。
「――先生!」
 氷室の手を振りほどいた水南が、長い髪をなびかせて駆けていく。
 搭乗ゲート前でしっかりと抱きしめ合う成島襄と水南を、氷室はただ呆然と見つめていた。
 まるで夢でも見ているように現実感のない光景。しかしそれは紛れもない現実で、氷室は心のどこかでこの展開を予想さえしていたのだ。
 長い、情熱的な抱擁の後、ようやく水南は冷ややかに氷室を振り返った。
 氷室はぞくっとして、立ちすくんだ。
 この目だ。
 初めて出会った日に見たのと同じ、完全なる上位者の目。――これが擬態を脱いだ水南の本当の目だ。
 水南は、ゆっくりとした手つきで手のひらに巻かれた包帯を解くと、それをはらりと床に投げた。わずかな染みだけが残る綺麗な手のひらを満足気に見つめ、それを、ひらりと氷室の方にかざす。
「天、ありがとう。この半年、本当に楽しかった」
「…………」
「まさかこの私が、天のことを本気で好きになるなんて、もちろん天だって信じてはいなかったでしょう? そんなつまらない男と、ゲームを楽しんだつもりはないのよ」
「…………」
「天のおかげで、成島先生は自由になったし、私も自分の財産を自由に使える身分になった。父は一時成島先生と私の仲を疑っていたのだけど、その疑いも――全部天が晴らしてくれた」
 今までの様々な情景が、氷室の心の中をよぎっていく。
 こうなることを必然と思い、むしろ一種被虐的な心地よささえ覚えるどこかで、それでもまだ、記憶の中の水南の声や眼差しや涙に、信じられないという思いが募る。
 あれが全て、嘘で、計算ずくの演技だったとでもいうのだろうか?
 信じられない――いや、冷静に判断しても、全部が嘘であったはずがない。
 しかし同時に、今の状況もまた現実だ。
 つまり水南は――目の前に立つこの女は、――自身の感情すら自在にコントロールできるのだ。
 愛情という、氷室には到底動かしがたい人の根底にある感情ですら、自在に引き出してそれを利用することができるのだ。
 ずっとそれを見定めたいと願い、この一点に関しては慎重に見極めてきたつもりだった。が、無意味だった。
 嘘と本気の境目など、そもそも彼女にはなかったのだ……
「もちろん感謝はしていないわ。だって天は、私のゲームに載せられて動いた駒にすぎないんだもの」
 黙る氷室を見つめ、微かに唇の口角を上げて水南は笑った。
「そのお返しといってもいいのだけど、私はあなたのお母様を自由にしてあげた。もちろんそうしなければ、マザコンの天が私を連れて逃げるなんて、とてもできないとわかっていたからだけど」
「……どういう、意味ですか」
「何も知らないかわいそうな天。あなたのお父様にそれを頼んだのも、お父様に父と取引できるだけの情報をあげたのも、全部私よ。あの父がどうして黙って杏子さんを手放したと思う? 父は、天のお父様と取引したのよ。そうして杏子さんを返すしかなくなったの」
 ――取引……?
「でもその情報は、諸刃の剣。父を黙らせるかわりに、あなたのお父様が危険にさらされる恐れがある。――天、あなたは本当に完璧だった。こんな楽しいゲームは私にとっても初めてだった。その労をねぎらっての忠告よ。あなたのお父様とお母様に、もし少しでも情が残っているのなら、今すぐ2人の元に戻ることね」
「……どういう、ことだ」
 初めて強い動揺を見せた氷室を横目で見やり、水南は微かに笑った。
「その目を開いて、よく真実を見極めることね。そうして自分の頭で考えなさい」
 かっと頭に血がのぼった。
 この瞬間、氷室は自分が完全な敗北者になったことを理解した。
 ただ怒り、正論を吐くしかない敗者であると。
「さぁ、先生、行きましょうか」
 全てを心得ているのかそれとも関心がないのか、黙る成島の腕をひいて、水南はさっさと踵を返した。
「待て、水南。今のは一体どういうことだ!」
「父は、あなたが思う以上に残忍で冷淡で執念深い男だという意味よ。――私がどうしてあの醜悪な男に長年従順でいつづけたか、天には、まだその意味さえわからないのね」
 どういうことだ。どういう意味だ。
 冷笑を浮かべた水南が振り返り、勝ち誇った目で言い放った。
「天。あなたの世界はあまりにも狭くて、羨ましいほど脳天気な幸福に満ちているわ。田舎で貧しい暮らしをするのが嫌なら、さっさと屋敷に戻ってお父様に土下座して謝罪なさい。そうして一生、奴隷みたいに後藤の家で飼い殺しにされるといいのよ。さよなら、天。――永遠に」

 
 
 
 
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この物語はフィクションです。