成美の中の血流が、その刹那いきなり止まった気がした。
 それは……その……それは……なんといいますか――。
「誤解すんな、一緒にって意味じゃねぇぞ。別々な。車で一泊とか、そっちの方が無理だろ」
「…………え」
 ぷしゅーっと空気が抜けるように、緊張が一気に抜けた。
「そ、そうですね。あ、あはは、そりゃまぁ、そうですよね!」
 1人で赤くなる成美から、雪村はあっさりと手を離した。 
「そうと決まったら、飯でも食うか。俺もそうだけど、お前も何も食ってねぇだろ」
「あ、あの――」
「なに?」
 闇の中で目が合うと、言葉が何もでなくなる。
 何かを、聞かなければいけないと思った。でも、何も出てこない。
 不自然な沈黙から逃げるように、成美は咄嗟に言っていた。
「……わ、忘れろってことかもしれないって思ったんです」
「……は?」
 眉を寄せる雪村から目をそらし、成美は続けた。
「氷室さんと最後に会った時、あの人こう言ったんです。もし僕が自分を隠したら、僕を探してくれますかって。――私、だから探そうと思いました。氷室さんがどこかに隠れて、そこで私がたどり着くのを待っているなら、そうしないといけないと思ったから」
「…………」
「彼の戸籍をたどれば、私が後藤家にたどり着くことくらい、氷室さん、当然予想してたと思います。――鍵……福利課が預かっている氷室さんの忘れ物のことですけど、その、……氷室さんの部屋以外の鍵が、キーケースの中にあるって聞いた時」
 さすがに言葉につまり、成美は小さく深呼吸した。
「恥ずかしい話ですけど、最初、それは私の部屋の鍵かもしれないと思ったんです。でも、多分違います。その鍵は、後藤邸の中にある、――何かの部屋の鍵なんです」
「…………」
「三条守って人は、その鍵を探しているんだって言ってました。多分ですけど私――今日行っても行かなくても、いつかその鍵を持って後藤家に行くことになっていたような気がします。そして三条って人に、会っていたような気がするんです」
「……悪い」
 遮るように、雪村が片手をあげた。
「話の意味が判らない。結局氷室さんは、お前と三条さんを会わせたかったってことなのか」
 ――それは……。
「会わせて、それで? それで今日、お前は何を聞いたんだ? その三条って男から」
 それは――
 再び目の奥に熱がこみあげてくる。成美は逃げるように顔をそむけた。
「……わ、別れたくなるようなことです」
「は?」
「氷室さんと別れたくなるようなことです。そう思うしかないようなことを聞かされたんです。じ、実際そうするどうかは別として。――問題は、氷室さんが私にそう思わせたかったのかもしれないってことなんです」
「……はぁ」
「つまり――氷室さんが私に探してほしかったのは、行方をくらました自分自身じゃなくて、彼の過去だったんじゃないかと思ったんです。聞けば、もう逃げ出すしかないような過去。つまり私、ここで逃げろって言われたんでしょうか? これ以上追いかけるのはやめろって言われたんでしょうか?」
 すがるように見上げた雪村は、面食らったように瞬きをする。
「は……? てか、そこで俺に振る?」
「……すみません」
「だいたい、そんな断片的な話じゃ、何も判断できねぇし」
「う、……本当にすみません、これ以上上手く説明できそうもないです」
 呆れたように眉を寄せた雪村は、しかしすぐにその表情を解いてため息を吐いた。
「……あのさ。もうちょっと順を追って、判るように最初から話してみないか」
「……え?」
「そもそもお前と氷室さんの間に何があって、どういう理由であの人が消えて、なんでそれを、お前が探さなきゃいけないと思ったか――その意味からして、まず判らない」
「…………」
「で、今日三条って奴がお前をどこに連れてって、そこでどんな話をして、挙句、お前は6時間以上も泣きっぱなしだったわけだけど――その理由も判らない」
「……………」
「言いたくないか」
 うつむいたまま、成美は小さく頷いた。
「ここまで巻き込んどいて、あれですけど……それは、氷室さんの個人情報、みたいなものだし……」
 それやっちゃうと、まるで私が、氷室さんを裏切ったみたいな感じになりそうで――
「ま、お前がそこに他人を入れさせたくないと思っているのは、なんとなく判ってたけどな」
 そう言った雪村が、傍らから何かを取り上げた。
 あっ、と成美は小さな声をあげた。それは、この車に置き忘れたきりにしていた自分の携帯電話である。
「お前、これ、車の中に忘れてたんだな。――何度もかけたけど、出ないはずだよ。車外にいたから俺も気付かなかったし」
 そっと携帯が手渡される。
「車の中に携帯忘れてるって気づかなかったら、俺、今日のお前の態度が許せなかった気がする。人に心配させるだけさせて、携帯にも出ない馬鹿女――多分、そう思って終わりだった」
「……はぁ」
 雪村が何がいいたいのか判らず、成美はおどおどと頷いた。
「でも、そうじゃなかった。つまり物事には、ただ一面見をただけじゃ判らない側面が必ずあるってことだ」
「…………」
「あの三条って男、最後に妙に筋が通ったこと言ってたよな? 人には色んな顔があるもんだ。目に見えてるものだけが真実とは限らないって」
「それは――それは、多分、私の知っている氷室さんが本当の氷室さんじゃないって意味で」
「そうか? 今日お前が見たもの、聞いたものだけが真実とは限らない。そういう意味にも取れるんじゃないか? ――別の面から見直してみれば、別の顔、別の真実も見えてくる。そういうことが言いたかったんじゃないのか」
「…………」
 雪村は車内の照明をつけると、傍らの鞄から何かを取り出した。
 目の前に広げられたのはコピー用紙。そこには何かの本の1頁がコピーされている。
「ニーチェの『善悪の彼岸』。氷室さんのキーケースに入ってたページの翻訳版」
 小さく叫んだ成美は、息を詰めて雪村を見上げた。
「もう調べてくださってたんですか」
 成美も帰宅後、ネットで『善悪の彼岸』の検索をかけてみたが、そもそも福利課で見せられたドイツ語のページの意味が判らなくて、どこを足がかりに調べていいかさえ判らなかったのだ。
「昨日の夜、翻訳本買って照合してみたんだ。正直、特段の意味も見いだせなかったし、あの気障な人のことだから、気に入った格言を切り取って持ち歩いてるんだろうくらいにしか思わなかったんだが……今になって、冒頭の一節がひっかかってな」
 ひっかかる……?
 成美は眉を寄せて、雪村が出してくれた翻訳本のコピーを見た。

 怪物と闘うものは、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ。
 おまえが長く深淵を覗くならば、深淵もまた等しくおまえを見返すのだ。


 なんだろう。意味はよく判らないけど……
 何故だか胃のあたりがずしりと重くなった気がして、成美は救いを求めるように雪村を見た。
「あの、……どういう意味なんでしょうか」
「さぁ。哲学は俺にもさっぱりだ。ネットを見ても見解が色々だが、――一言でいえば、ミイラとりがミイラになるなって話じゃねぇのかな」
「…………」
 眉を寄せたまま成美が黙っていると、雪村は少し真剣な表情になって目を細めた。
「お前はこれから、氷室さんの心の闇に入っていくんだ。いや、もう実際に入っているのかもしれない。もしかするとこの本の切り抜きは、お前に対する警告だったのかもしれないと思ってな」
 氷室さんの深淵。
 これから、その中をのぞきこもうとしている私。
 不意に背筋が微かに震えた。
 彼の深淵の中に、一体何があるのだろう。今日耳にした以外のことが、まだ得体の知れない怪物のように潜んでいるのだろうか。
 強張った成美に指から、雪村はひょいと用紙を取り上げた。
「でも、同時にこういう解釈もできると思う。怪物は見る者の心にも存在する。つまり怪物とは絶対的な悪ではないんだよ。見るものが持つ正義も見方を変えれば悪になる。怪物の持つ悪も見方を変えれば正義になる。――わかるか?」
「……なんとなく」
「お前は今日、三条って奴が見た氷室さんの一面を聞いたにすぎない。それを丸呑みにるんじゃなくて、いろんな角度で、いろんな人の立場から氷室さんがしてきたことを検証していく必要がある。この格言は、そう言っているようにも、みえる」
 成美は答えられずに黙っていた。
 どうしよう、正直言えば、意味がよく判らない。
 雪村が苛立ったように、「わかってねぇだろ」と呟いた。
「つまりな。お前の単純スカタンな頭ひとつで、事実を多面的に調べるのは無理だって言ってんだよ。今も、簡単に納得して諦めようとしてるじゃねぇか」
「だって」
 思わず反論して唇を噛んだ成美の頭を、雪村は軽く叩いた。
「そういうことだから、最初から何が起きてんのか順を追って話してみろ。俺なら別の視点から、別の解釈ができるかもしれないぞ」
 一瞬揺れた気持ちは、たちまちためらいで埋め尽くされた。
「それは……、でも……色んな意味で……」
 上手く言えないけど、氷室さんだけでなく、雪村さんにもあまりにも申し訳ない気がする。それに、話しにくいというか、口に出せないエピソードも多々あるし。
「あのな」
 ちょっと苛立ったように、雪村が成美を見た。
「ここまで関わらせておいて、勝手に俺だけ置き去りにすんな。お前の葛藤は判るけど、俺だってな」
 俺だって――?
「……俺だって、けりつけたい気持ちがあるんだ」
 それきり黙りこむ雪村の顔を、成美はしばらく見ることができなかった。








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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。