「――天……随分大きくなったな」 この悪夢のような光景は一体なんだろう。 そう思いながら、氷室は黙ってテーブルの片隅を見つめ続けていた。 冬枯れた町。労働者のたまり場のような安っぽい駅前食堂。どこもかしこも油じみていて、酸化した油の匂いが悪臭のように店内にたちこめている。 午後3時。がらんとした店内には、今、ひとつのテーブルに向かい合って座る氷室と氷室の父、佐伯涼(さえき りょう)。そしてひとつ隔てた席に座る母、氷室杏子(ひむろ きょうこ)の3人しかいない。 今の状況の何もかもが、氷室には理解できないし、本当に悪夢のようだった。 父、涼の肩越し。氷室に見えるのは母の丸まった背中だ。先ほどからずっと――肩を震わせて泣いている。 (天、今日だけでいいから。少しでいいから、私と一緒についてきて。お願い、私を助けると思って、――私と一緒に来てちょうだい!) 何年も口をきいていなかった母からそう言われたのは、今日の午後、2学期の終業式を終えて学校から帰ったばかりの時だった。 妙に鬼気迫る口調に気圧されるように、そのまま待っていたタクシーに乗り込んだ。 駅から新幹線に乗り、電車を乗り継いで2時間弱。電車の行き先から予想はしていたが、ついたのは昔――氷室がまだ後藤家に行く以前に、家族と住んでいた田舎町。 電車を降りた瞬間、顔に降りかかる雪に眉をしかめた。朽ちて冬枯れた灰色の町。そうだ、ここはまるで――水南の母親が描いた絵の世界だ。 なんの希望も未来もない、閉塞された灰色の世界。 「母さんから、事情を聞いたか」 駅で自分を待っていた男――父の問いに、氷室はただ黙っていた。 まだ父が、母を「母さん」と呼ぶのが理解できなかった。 2人が離婚してもう8年だ。しかもこの男が服役している間、母は愛人暮らしをしていたのだ。息子がそのせいでどんな地獄をみたか省みることなしに。 「わかってくれないか、天。父さんと母さんは、何もいがみあって別れたわけじゃない」 静かな、穏やかな口調で涼は切りだした。 「母さんはな、父さんが逮捕されて、そうするのが一番いいと親戚中に説得されたんだ。今のお前になら判るだろう。8年前、父さんは罪を犯した。公務員だった父さんは、容疑者として逮捕されただけで全国の新聞に実名報道される。事件は複雑で裁判が長期に及ぶことは確実だった。母さんはな、まだ幼いお前のためにも、名前を変えて別の町でやり直すのが一番いいと、そう判断したんだ」 日焼けして荒れた肌。白髪交じりの髪に無精髭。当時、東大出のエリート官僚として鋭いまでのオーラを放っていた父はもうどこにもいない。 おそらくは肉体労働にでもついているのだろう。ただのくたびれた中年男になった父が、低所得者のたまり場のような食堂にすっかり馴染んでしまっている。 あまりの惨めさに、反吐が出そうになった。しかしこれが逃げようのない氷室の現実なのだ。 「言い訳に聞こえるかもしれないが、身に覚えのない罪が確定して、父さんはすっかり腐っていた。絶望もしたし、世の中の不条理を恨みもした。そうして人生をもう一度無駄にしたんだ。……出所してからのことだよ」 氷室は黙って聞いていた。いや、無関心のふりを装っていたが、心は飢えた獣のように父の言葉を求めていた。 「以前家族で住んでいた家に閉じこもり、毎日酒に溺れ、ただ死ぬのを待っていた。でも世の中不思議なもので、そんな役立たずのろくでなしに手を貸してやろうという連中ってのは、……いるものなんだな」 微かな苦笑が、無精髭に覆われた薄い唇に浮かぶ。 その視線が、着ている作業着に刺繍された会社の名前に向けられたから、おそらくはその会社に、父は拾われたのだろう。使い捨ての作業員として。 「……父さんはな、ずっとこの故郷が嫌いだった。田舎者で貧乏な両親も、その両親の親戚や友人達も嫌いだった。生きる価値さえない虫けらだとさえ思っていた。だから18の時、二度と戻らないつもりでこの町を出たんだ。――でも結局、窮する度に戻ってきて、今は、この町に生かされている」 「それで?」 思わず氷室は遮っていた。 何が言いたいんだ、この人は。 今の現状に満足していると、つまりはそう言いたいのか。 最低な環境でしか生きられない人間が、ただその環境に馴染んで開き直っているだけじゃないか。 「それで? ここはいいところだから、僕にもこの町で暮らしてみろと? 冗談じゃない。あなたのノスタルジーに興味はない。僕の将来を、あなたは台無しにするつもりなのか」 「……お前の将来」 不思議に静かな声で繰り返し、父は氷室の顔を見据えた。 「だったら言おう。頭のいいお前にはもう判っているはずだ。後藤さんの底にあるものは決して厚意だけじゃない。このままだと、お前は生涯後藤雅晴から逃げられなくなる。黒い水を飲まされるだけ飲まされて、最後は容赦なく切り捨てられる」 わかっている。そんなことは、言われなくても判っている。 「僕はあなたとは違うんです」 「違う? 一体何が違うだろう。どんなに頭のいい人間でも、周到に張り巡らされた罠からは逃げ切れないこともある」 「それでも僕は上手くやっていける。あなたに、僕を測る資格はない!」 言い放った氷室は、感情を堪えて立ちあがった。 「僕は帰ります。――こんなところにまで連れて来られて何かと思えば、つまり母さんは、後藤の家を捨てたんですね。僕の見立てを言えば、こんなことをしてただで済むとは思えない。後藤さんは、絶対に母さんを手放したりはしませんよ」 「もう後藤さんとの話し合いは終っている」 背を向けかけた氷室は、その言葉で動きをとめていた。 「母さんとも何度も話し合って、こういうことになった。後藤さんも理解してくれている」 どういうことだ。 氷室が見る限り、後藤雅晴とは、善人とは程遠いところにいる部類の人間だ。 性質も執念深く、他人の些細な裏切りも絶対に許さない。その面ではやや病的とさえいえる。 それが――7年以上内縁として囲っていた女を、こうもあっさり手放すだろうか。しかも相手は、後藤が歯牙にもかけない低レベルのところにいる男なのに。 「お前のことも、もう後藤さんに話はしてある。天、あの家を出るんだ。そして父さんと母さんの3人で暮らそう」 「僕に、あなたのような最低な人間と暮らせというんですか!」 我に返った氷室は激しく言い募った。 冗談じゃない。 「お断りします。僕は、後藤の家を出る気はない。後藤さんとどのような話し合いをもたれたかは知りませんが、僕にはまるで関係のない話だ」 母を手放しても、後藤は絶対に氷室を手放さないだろうという確信がある。 なにしろ氷室は、後藤家の財政の奥深くまで入り込んでいるのだ。他言されたくない秘密も垣間見てしまった。自分が後藤であっても、今、氷室を手放すような下手は打ちたくない。 「僕はあなたとは違う。僕は上手くやっていける。後藤家は、そのための足がかりにすぎないんだ。――放っておいてください!」 全部が虚勢で、強がりだった。 後藤家に居続ける危険性は、父以上に氷室が一番よく判っている。自分の将来が――自分一人で築いていけるはずの人生が、後藤によって食い潰されるであろうことも理解している。 それでも、もうどこにもいけないと氷室は思った。 今の氷室には、自分の未来より家族より大切なものがあるからだ。 水南だ。 水南を捨ててはどこにもいけない。 「――天」 いつの間にか、雪は雨に変わっていた。 父の鋭い声が、飛び出した天を呼び止めた。 「今のお前に、俺の言葉は何一つ響かないんだろうな。昔の俺がそうだった。出世の事以外なんの興味もない、そのためならなんでもするような男だった。結局何が欲しかったのかといえば金だ。公務員は、最終的にどこまで上り詰められるかによって、退職後の収入がまるで違ってくる」 それで汚職に手をそめたのか。 馬鹿だ……でも今の氷室に、もう父のことは嗤えない。 「でもな、天。幸せってものは、金じゃあ決して買えないんだ。人を欺いて得たものは、いつか必ず自分の身に罰としてかえってくる。お前にもいつかそれが判る。絶対に判る時がくる」 負け犬の戯言だ。そんな甘い言葉を真に受けるほど、僕はもう子どもじゃない。 世の中には罰せられない罪もある。要は、要領と運なのだ。人の運命を分けるものはそれしかない。 まだ父が、稀代の悪官僚と言われていたほうが何倍もましだった。 父はこんな――こんなにも惨めな負け犬で、しかもその境遇に満足さえしているのだ。 ふざけるな。そんな男が、この俺の父親であってたまるか。ふざけるな……。 それでも氷室は歯を食いしばり、叫ぶように本心を吐露していた。 「――あなたにはできても、僕にはもう無理なんです」 「……なにがだ、天」 静かな声が雨音に混じって返される。 「あの人を……もう二度と母とは思えない。あの人は金の誘惑に流され、僕の前で何度もふしだらな真似をした。あの人が僕を貶め、あの人が僕をひどく惨めな人間にした。怠惰で、自堕落で、道徳も理性も忘れてただただ楽な方に流された。そんな人を僕は二度と母親だと思いたくない!」 「…………」 「そんな女と再び一緒に暮らそうという、あなたの神経も僕にはまるで理解できない。ただ生きていくためだけに、あの女が後藤に抱かれていたとでも? それだけじゃない。それ以上の浅ましい欲があったことを、僕はよく――知っているんだ」 父はしばらく黙っていた。 氷室もまた、自分の吐いた言葉の残酷さに打ちのめされていた。 「……それも含めて、全ては私の責任だと思っている」 「だったら8年も、何故僕らを放っておいたんだ!」 子供か、俺は。 なにを今更――とうに忘れ去った感情のことで熱くなっているんだ。 なのに、一度溢れた激情は止まらない。 「3年前に出所した時、あんたはすぐにでも母さんを迎えにくるべきだった。母さんはずっと待っていたんだ。あんたの連絡を毎日のように待っていた。でもあんたはそうしなかった。残酷にも、出所の知らせさえ寄越さなかった」 「…………」 「生活が苦しかった、無気力だった、酒に溺れていた。いくらでも言い訳をするがいい。でも僕には判っている。あんたは――結局のところ、僕も母さんも本当の意味で必要としていなかったんだ。一緒に暮らしていた頃から、あんたの愛情なんて一欠片も感じたことはなかった。母さんに対しても同じことだ」 しばらく父は苦悩を絶えるように黙っていた。 「返す言葉はない。……母さんは俺にとって、見合い結婚した上司の娘で、お前はどこに出しても恥ずかしくない息子だった。官僚だった頃の俺にとっては、2人はただの飾りでありステイタスに過ぎなかった。……否定はしない」 「それが? 自分が何もかも失ってひとりぼっちになったから、気まぐれで呼び戻したくなったとでも?」 氷室の荒ぶった感情は収まらなかった。 「ふざけるな。そんな勝手な父親と母親に――いまさら――僕の将来をぶち壊しにする権利はない!」 「……天」 肩を震わせる氷室の肩に、父の冷えた手がそっと触れた。 氷室は渾身の力で、その手を跳ね除けていた。 「手遅れだ、何もかも。もう失った時間も人の心も戻らない。もう母さんはあんたが思うような女じゃないし、僕もよくできた息子じゃない。来るなら出所してすぐにでもくるべきだった。いまさら、母さんに貧乏暮らしができるものか。誓ってもいいがあんたは絶対に後悔する。――いまさら……いまさら、形だけ家族に戻っても、何も元には戻らない!」 一時雨音だけが、激情した氷室の全てになる。 やがて父は静かな口調でこう言った。 「……母さんの手はな、あったかいんだ」 「…………」 「初めて手をつないだ時、俺は確かこう言ったよ。あなたの手は人を幸せにする手ですねと。それがプロポーズの言葉になって、俺と母さんは結婚した」 それがどうした。 だから一体なんだというんだ。 「その暖かさは……不思議なもので、ひどく心が冷えた時に一層強く思い出せる。この8年、母さんの思い出は何度も俺の冷えた心を温めてくれた。――出所してすぐに会いに行かなかったのは、お前たちが幸せにやっていると思いたかったからだ。……無力な男の、言い訳だな」 「…………」 「確かに俺は勝手な男だが、母さんがまだやり直したいと言ってくれるなら、もう一度やり直す気でいるよ。……お前の言うように、本当は全てが手遅れだとしても」 「…………」 「天、お前の人生を自由にできると思うほど、俺も母さんも馬鹿じゃない。ただお前は、後藤の家だけは出なければならない。お前の将来を後藤のような男に食いつぶされてはならないからだ。母さんがその足かせになっていたなら、もうその心配はなくなったな?」 雨の中、氷室ははっと目を見開いた。 「長い間、母さんを守ってくれてありがとう。お前がどう思おうが、お前はあの屋敷で8年もの間母さんを守ってくれた。……母さんも、それはよく判っていたはずだ」 「…………」 足音が遠ざかり、やがて雨音だけが氷室の全てになった。 もしかして、この人は。 俺のために、一度は別れた女を引き取ろうとしているのではないだろうか。無理だと承知の上で、一度は人のものになった女を呼び戻したのではないだろうか。 そんなはずはない。 そんなはずはない――そんなはずがあるわけがない……。 |
||||
>next >back >top | ||||
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved この物語はフィクションです。 |