「ほらよ」
 ばさっとオレンジ色の花が墓石の上に飛び散った。
 成美は驚きのあまり声もでない。
 道中、通りすがりの花屋で花を一束買い、向かった先がどう見てもそれしかない山中の墓苑だったから、行く先は予想していたが――
 同じく墓参りに訪れたと思しき老年の夫婦が、驚きと非難のまじった目でこちらの様子を伺っている。当たり前だ、成美だってこんな非常識な振る舞いをする人を初めてみた。
 しかし三条は平然と顎のあたりを掻き、その顎をしゃくって言った。
「さっき言った女、香澄の墓」
 わかっている。成美は眉をひそめたまま、唇を噛み締めた。
正直言えば、まだ車中で聞いたことが、頭の中で整理しきれない。
 自殺した神崎香澄は、氷室のかつて愛人――恋人――その関係をどういっていいか判らないが、相当親しい間柄だった。三条の思わせぶりな口ぶりだと、彼女の自殺の原因にも――もしかして氷室が関係していたのかもしれない。
 ポケットに手をつっこんで墓の前に立ったまま、三条は続けた。
「国土交通省に入った天は、貪欲にトップを目指した。そのためならなんでもしたといってもいい。奴の強みはなんといってもその情報収集力と分析力だ。そして他人を意のままに操る悪魔的な魅力。そうやって周囲のライバルを次々に蹴落として、天は瞬く間に中枢により近い立場に辿り着いた」
 こんな話を聞いて、なんになると言うんだろう。
 うつむきながら、成美はこの場から逃げ出す口実を懸命に考えていた。
 私はこんな話を聞くために、東京にまで来たわけじゃない。聞きたくない――彼の過去なんて、聞きたくもないし聞く意味なんてない――
「実は、天にはある目的があったんだ。もう株取引だけで十分贅沢に暮らしていけるのに官庁――しかも国土交通省なんて半端なところに入庁のしたのはそのためだ。そこで、貪欲にトップを目指したのには理由があるんだ。天のオヤジさんのことは、もう調べたか?」
 え……?
「いえ、……あの」
 成美は曖昧に言いよどんだ。
 なにかの罪を犯して服役し、そして自殺されたということしか聞いていない。
「もしかして、さきほどハンデって言われたのは――お父さんのことが、氷室さんの出世の足枷になってるってことですか」
「足枷なんてもんじゃない。いくら姓が変わったとはいえ、よく国土交通省があいつを雇い入れたもんだと俺なんて顎を落としたもんだよ」
「……お父さんが、犯罪者だったから……?」
 探るように訊いてみたが、それで何も知らないと悟られたのか、三条は少しだけ笑って肩をすくめた。
「ま、そんなとこだ。国土交通省では、天は最初から色眼鏡で見られていた。いくら実力があっても、そういう視線はなかなか払拭できるものじゃない。だから天は、自分の過去を一掃できるほどの強力な後ろ盾を求めたんだ。――それが、国土交通省に強い影響力を持つとされる後藤議員。水南の父親だ」
 胸の奥が鋭く痛む。成美は視線を逸らしながら訊いた。
「だから、……だから彼は、水南さんと結婚したとでもいうんですか」
「そのとおり。でも、もちろんそう簡単にことが進むわけがない。なにしろ、後藤の親父にしてみれば、天は後足で泥を掛けて逃げた愛人の連れ子だ。そんな恩知らずの、薄汚い馬の骨に、大切な1人娘をくれてやるわけがない。なにより水南が、納得するはずがない」
「…………」
「それでも天は水南を望んだ。おそらくは無駄と知りつつ求婚した。幼少期を後藤家で過ごした天は、あの家の秘密を色々握っている。後藤議員がむげに断れないことを知っていた天は、結婚を諦めることと引き換えに議員を自分の後ろ盾にしようとしたんだろう。けれどそんな天の動向に、凄まじく怒りを募らせた女がいたんだ。――香澄だ」
 成美は眉を寄せたまま、三条を見上げた。
 胸が、嫌な風に高鳴っている。
「さっきも言った。香澄と俺は同級生。つまり香澄と水南も同級生だ。水南は閉鎖された小さな町の女王様で、香澄はそのカーストの最下層。そして俺の性奴隷で、俺は水南の忠実な番犬だった。香澄の水南への憎しみは当時から綿々と続いている。……わかるだろ。それくらい」
 その水南に、自分を利用した挙句に捨てた男――つまり氷室が求婚した。
 成美はようやく、三条がここで自分に伝えようとしていることを理解した。
 もし神崎香澄が、氷室を本気で愛していたとしたら。
 その怒りと絶望はいかほどのものだったろうか。
「案の定天の求婚は失敗したが、後藤の親父さんのとの取引は成功した。天は、後藤の親父さんの口添えもあって、出世の登竜門ともいえる海外派遣の座を手に入れたんだ。が、事件はその後に起きた。ある日、後藤議員の事務所に暴力団関係者を名乗る男から脅迫めいた電話がかかってきてな――それが、天がドイツに発ってから2ヶ月が経った頃のことだ」
 聞きたくない。
「お前の娘を預かっている。同意の上で一緒にいる。娘と暴力団との関係をマスコミにばらされたくなかったら、しばらくの間黙っていろ。そうすれば娘は無事に返す」
 もうこれ以上、聞きたくない。
「折しも参議院選挙前。スキャンダルを恐れた親父さんは、脅迫者のいいなりに1ヶ月沈黙を守り続けた。そして水南は帰ってきた。同時に親父さんの事務所には、水南が刺青の男に抱かれている動画が送りつけられた」
 口を手で押さえ、成美は顔を背けていた。
 なにそれ。
 なにそれ。どういうこと?
「こんな動画が世に出回ったら現職国会議員としては身の破滅だ。弱り切った後藤は水南を早々に結婚させて海外にでもやろうと画策した。……が、できなかった」
 成美はその続きを拒否するように首を横に振った。
「水南が、妊娠していたからだ」
 声も出ないまま、成美はただ目だけを震えるほどに見開いた。
「後藤の親父さんがどう説得しても、水南は絶対に産むと言い張ってきかなかった。水南はクリスチャンだからな……キリスト教では基本的に堕胎は許されない。が、後藤議員にしてみれば娘が未婚の母になるなど認められるはずがない。しかも相手は現役のヤクザだ。そんな男と血のつながった子を産めば、後々どんな遺恨が残るかわかったものじゃない」
「…………」
「そこでようやく後藤が思い出したのが天の存在だよ。後藤は全ての事情を天に打ち明け、今度は逆に頼むから娘の夫になってくれと懇願した。この醜聞を永遠に秘密にしてほしいと土下座した。天にしてみれば、渡りに船。待ってましたとばかりの結末だ。もうわかったと思うが、水南を拉致したのは香澄が雇ったヤクザだよ。――もちろん天は、こうなることを予測していたはずだ」
 嘘だ。
 そんなこと、絶対にあり得ない。
「全く天は、頭のいい男だよ。自分の手はひとつも汚さず、女の嫉妬と執念を利用して、ついに絶対不可能な難題を解決した。まさかあの天が水南の夫になるなんて、天変地異が起きてもありえないと思ったが」
「信じません。そんな話!」
 遮るように、成美は言った。
「いくらなんでも、ありえない。どうして氷室さんが、そこまで非道い真似をする必要があるんですか。だいたい」
「だいたい?」
 言葉を切った成美を追い込むように、三条が問い詰める。成美は震えながら目を逸らした。
「だいたい氷室さんは――水南さんを愛していたはずです」
「は、はははっ、あんた本当にあまちゃんだな」
 腹を抱えるようにして、ひとしきり三条は笑った。
「深すぎる愛はな、大抵より深い憎悪に裏付けされているものなんだよ。天は確かに水南に執着していたさ。それを愛と呼べるならそのとおりだ。しかしその愛がどうしたって報われない時、人はどういう行動に出ると思う?」
「……………」
「あり得なくても、事実は事実。あの頃の天は、あんたが思う以上に水南を憎んでいた。一方香澄は香澄で、いつまでも水南に執着する天が許せなかった。天は、少なくとも香澄の行動を予想できたはずだ。なのに、なんの手も打たなかった。天に香澄が止められなかったとは思えない。つまり、やろうと思えばできたことを天は故意に怠ったんだ。――それを共犯といわずになんという?」
 耳に両手をあて、成美は力なく首を横に振った。
「そうして天は、いけしゃあしゃあと水南を妻にもらいうけた。当時の水南は無気力で、生ける屍も同然だった。天にしてみれば哀れな敗北者に見えただろうさ。でもな……」
 にやりと笑って声をひそめ、三条は成美の耳に口を近づけた。
「その結婚で、結局、身も心もボロボロになったのは天の方だったのさ」
  ――え……
 口元に笑いだけを残し、三条は成美から顔を離した。
「水南が黙って天の目論見を受け入れた理由は二つある。一番大きな理由は後藤に邪魔されずに無事に子どもを出産すること。もうひとつは天への強烈な意趣返しだ。わかるか、その意味が」
 成美は強張った顔のまま、三条の顔を見返した。――わからない。
「愛のないはずの結婚は、天の心だけをひどく無様にかきみだした。そう、結局のところ、天は水南を愛していたのさ。どう抗おうと、どう否定しようと天は水南に昔から惚れていた。水南はそれをよく知っていたから、天の妻になることを受け入れたんだ。――それが最も効果的な意趣返しになると判っていたから」
 ようやく意味を解した成美は、その残酷さに打ちのめされて顔をそむけた。
 もういい。もう何も聞きたくない。知りたくない。
「――腹の子が5ヶ月になった頃、水南はあっさりと天を捨て、男と一緒に姿を消した。相手は誰だか知らねぇけど、恐れ多くも国会議員の娘と結婚できない程度に汚れていたことだけは間違いない。きっと、こうなる前から水南が添い遂げようと心に決めていた男なんだろう。――わかるか。つまり水南は、最初から天を利用して、その男と逃げる機会をうかがっていたんだよ」
 やめて。
「その時の天の絶望、憔悴――今思い出しても、笑いがとまらねぇよ!」
 やめて――
「後藤との約束があるから籍はそのまま、天の方から離婚することも、離婚に応じることできやしない。そうやって天の20代は全部水南に奪いつくされたのさ」
 やめて……。
 いきなり肩を掴まれた。はっとして振り返ると三条の顔が間近にある。
「俺が、水南がされたのと同じことを、香澄にして何が悪い? その挙句香澄が自殺したとして、なんの責任を感じる必要があるってんだ? あ?」
「………………」
「水南が止めなきゃ、天の野郎もとっくの昔に殺していたさ。――そうしなかったのは、天はあくまで水南の獲物だったからだ。水南が死んだ今でもそれは変わらない。いまでも天は、水南だけの玩具だ」
「…………」
「おかしいか? 笑えよ? ――俺はな、主人に待てと言われたら、いつまでもしっぽを振って待つ忠犬なのさ」







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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。