9


 後藤家の勝手口は、工事用フェンスがあった方とは反対側の隘路を抜けてすぐ、幅員3メートルほどの道路に面した場所にあった。
 小さな門扉はさびついた海老茶色の鉄格子で、表玄関の豪奢さからは、想像もつかないみずぼらしさだ。
 こちらが西側なら、現在工事が入っている場所は東側である。どれだけ敷地が広いのか、ここまで来ると重機の音は殆んど気にならない。
 ここまで勢いで来て初めて、成美は今が午後1時にほど遠い時刻だったことに気がついた。
 雪村が血相を変えて呼び止めてくれたのも、まだ早いと言いたかったのかもしれない。
 ――どうしようかな。ここまで来て、また山を降りるのもちょっと……
 格子の向こうには石畳が続き、その奥は植え込みで閉ざされて、どうなっているのかは見当もつかない。
 鍵はしっかりしまっている上に表玄関同様鉄鎖が巻かれている。しかも目に付く場所に防犯カメラ。無人の住処だというのに赤いランプが点いている。
 ためらいながら小さなチャイムを鳴らしても、やはりと言うべきか、中からはなんの応答もなかった。
 成美は腕時計を見た。1時まであと50分。うろうろしていればそれなりに潰せる時間ではある。
 ――このまま、この辺りで待ってみようか……。
 正直、なんとも居心地が悪い場所だった。人様の敷地内――しかも入ってはいけない場所に、ぽつんと取り残された気分である。
 この勝手口は、おそらく後藤家の使用人たちが使っていたのだろう。
 正門との格差の激しさもさることながら、いかにも人目につかない所に作られた感がある。昭和初期を思わせる門扉のデザインにも、時代――というか、身分制度の名残が伝わってくるようだ。
 全体的に暗いのは、背後にそびえる山のせいだ。屋敷全体を背後から包み込むように、木々の生い茂る暗い山が覆いかぶさっている。この屋敷が山の中腹に建てられているのは道中の様子で判ったが、この山そのものが後藤家の所有不動産なのだろうか……。
 その時、いきなり背後で車のエンジン音がした。
 一瞬雪村が追いかけてきたのかと思ったが、そうではなかった。鋭いブレーキ音をたてて急停車した白のベンツ。運転席にはサングラスをかけた男が座っている。
 成美は目を見開いていた。
 ――氷室さん?
 顔は殆んど見えなかったが、シルエットの雰囲気が氷室のように見えたのだ。
しかしそれは一瞬で、背格好だけが似た別人だと分かった時には、男は車から降りていた。
 手足が長くて、スマートだが身体全体に厚みがある。光沢のあるネイビーのスーツ。固く逆だった黒い髪。
 挨拶するタイミングを完全に逸したまま、成美は一歩引いていた。
 男の全身から、侵入者を威嚇し、そして拒否するオーラが漂っている。
「……誰、お前」
 低いバリトンと共に、男はサングラスをゆっくりととりはらった。
 成美は息を引いていた。
 極端な三白眼と鋭くつり上がった眦。抜けるように白い肌に、赤い唇。
 つい先程、ウェブで写真をみたばかりだ。髪型がまるで違うから、すぐには判らなかったけど――
 三条、守。
 手足が固まり、全身の血がいきなり引いた。
 DV、拉致、監禁、自殺。
 逃げなきゃ……
 ゆ、雪村さんに、電話……
 固まったままパニックになる成美の側に、三条守はゆっくりと歩み寄ってきた。
 ものすごく威圧感のある人だ。恐怖のハードルが限界まで上がっているせいかもしれないが、まるで猛獣に追いつめられているような気がする。
 男は不意にかがみこみ、成美の顔の正面に自分の顔を持ってきた。
「あ?」
 成美はもう、固まったまま声もでない。このまま顔面パンチでもされて、鼻が折れたりするのだろうか。駄目だ、怖い。怖くてもう、息もできない。
「は、は、はは」
 しかし男は、不意に相好を崩して笑い出した。
「マジか、マジかよ。やっぱ、神だな、神だよ、神」
 はい?
 男の言う言葉の半分も理解できないまま、成美はがちがちに固まった視線を上げた。
 男は片手をポケットにつっこんだまま、口元を広げて笑っている。
 写真を見た時も思ったが、笑った方が怖い顔の人も初めてだ。顔が細くて端正なのに、口だけが奇妙に大きなせいかもしれない。
 頬や目尻にいくつも刻まれた皺も、肌が陶器ように白いだけに、どことなく作り物めいて気味が悪い。
「ああ、悪いな、独り言だよ。あんた、えーと、なんだっけ、ああそうだ、ナオミちゃんだろ。ヒダナオミちゃん」
 あてずっぽうにしては、微妙に当たっている。
 成美は警戒しながら、男から一歩後ずさった。
「……日高成美ですけど」
「ああ、そうね。日高成美。悪いね、昔から人の名前覚えんのが苦手でね」
 いや、そんなことより、初対面で、しかも天地ほど立場の違う人が私の名前を知っていることの方が……
 男と会って、初めて成美の心臓が強く脈打った。
「あの、私のことをご存知なのは、もしかして」
「もちろん、天に聞いたからさ」
 男は口元を広げて微笑した。
 氷室さんに……。
 予想していたくせに、それでもその刹那、成美の心臓は止まりそうになっていた。
 彼に、会ったんですか。
 彼は今、どこにいるんですか。
 矢継ぎ早に口から飛び出しそうな質問を、自制心を振り絞って飲み込んだ。今はまず、自分の立場をこの人に――正直に伝えるべきだ。
「あの、私」
「もしかして、シズさんに会いに来た?」
 成美を遮るように、三条は言った。
 は? シズさん?
 ずいっと三条が前に出てきたので、成美は慌てて門扉から飛び退いている。
「ああ、この鍵がかかってるってことは、シズさん、まだ来てないよ。今日は来ないのかもしれない。あの人ももう、年だからね」
「シズさんって、このお屋敷の管理人の方ですか」
「そう。向井志都さん。俺も会いに来たんだけど、この時間に来てないってことは、無理そうだな。あの人時間に正確で、だいたいいつも12時には来てるから」
「そうなん、ですか……」
 工事の人は1時だと明言していたけれど……この場合、どちらを信じればいいんだろう。
 困惑した成美を、三条は面白いものでも見るような目で見下ろした。
「というより、志都さんは知らないけどね」
 なに、を……?
 警戒したまま三条を見上げた成美に、三条は目を細めて笑ってみせた。
「天の行方。探してんだろ。天のこと」
「…………」
「天から聞いてるけど、恋人なんだよな? 随分年が離れてるようだけど、こんなとこまで追いかけてくるあたり、それなりに本気だったりするわけだ」
 それにはどう答えていいか分からないまま、成美は曖昧に頷いた。
「は、はは。そりゃすごいね。天に教えてやりたいよ。このシチュみたら、あいつ、血相変えてすっ飛んでくるんじゃねぇのかな。おもしれぇ。マジで天に教えてやりてぇ」
 気味悪さから黙りこむ成美を見下し、三条は笑いの余韻を含んだ声で続けた。
「まぁ、それは無理だけどね。俺も天がどこに消えたか知らないから」
「……………」
「俺もずっと探してんだ。あいつ、この家を俺に売っときながら、一番大切なものを持ち逃げしやがったからさ。なぁ、あんたのとこに、天から連絡とかないわけ?」
「………売った」
 無意識に、成美は聞き返していた。
 この屋敷を、氷室さんがこの人に売った。つまり氷室さんが、この屋敷の――所有者だった。
「そ。購入代金は俺が留保してるけどね。天は受け取りを拒否してるし、――ま、色々複雑なことになってっから」
 肩をすくめ、三条は冷めた笑いを口元ににじませた。
「なにがあったか、あれだけ固執してた幽霊屋敷を、正月明けに天の方から売りたいと言ってきた。この屋敷で売買契約を交わして、それが天と会った最後になるな」
「氷室さんが持っていった大切なものって?」
 少し肩をすくめて、三条は成美を見下ろした。
「鍵」
 ドキリ、と成美の胸が高鳴った。
「そう、鍵。なんでもこの家には聖域みたいに大切な場所があって、天はその鍵を持ったまま消えたんだそうだ。まぁ、志都さんがそう言い張ってるだけで、俺もそれがなんの鍵だかまでは知らねぇんだけど」
 あの鍵だろうか。
 彼がマンションに残し、管理者として市役所が預かっている鍵。
「なんにしても、鍵が戻ってくるまでは、母屋の取り壊しができねぇんだ。荷物の処分とか面倒な問題が残ってるのもあるけど――鍵がなきゃダメたって、志都さんが頑なに言い張ってるからさ。俺も、あの婆さんにはガキの頃から世話になってるからね」
 鍵はまだ福利課の金庫の中にある。やはり無理をしてでも借りてくればよかった――
 成美は動揺が顔に出ないように気をつけながら、懸命に思考を巡らせた。
 聖域みたいに大切な場所とはなんだろう。鍵を閉めて消えたということは、その中に誰も入れたくなかったということだろうか。けれど屋敷は早晩取り壊しになる。鍵をかけていることに、部屋を閉ざす以外の何か別の意味でもあるのだろうか。――
 そんな成美を、再び三条は笑いを帯びた目で見下ろした。
「そんなことより、さ。あんた、天を探しに来たんだろ」
 成美は頷きながら、自然に一歩引いていた。
 とん、と背中が門扉にあたる。
 その分、三条が距離を詰める。
「天がどこにいるのかは知らないけど、消えた理由なら知ってるよ。あいつは、ようやく気づいたんだ」
 なに、に……?
 もう息もかかるほどの距離だ。成美は門扉の鉄格子を後ろ手に握りしめる。
「自分がしたことの罪の重さに」
「………罪?」
「なぁ、教えてやろうか。天が一体何をしたのか。あいつがどれだけ冷酷非道な悪魔なのか」
 どういうこと? 氷室さんが――悪魔?
「俺を怖がってるみたいだけど、天に比べたら、俺なんててんで子供だよ。あのずる賢い悪魔の恋人が、俺みたいな小物にいちいちビクビクすんなって。はっきり言って俺、あんたの勇気に敬意を表したいくらいなんだから」






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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。