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「あの……さっきの人に、一体どういうアプローチをしたんですか?」
走りだした車の中で、ようやくおずおずと成美は口を開いた。
「この辺りに引っ越す予定だから、地元のことを教えて欲しいと言ったんだ。丁度、後藤邸が取り壊されている最中だったから、あのあたりの土地の購入を考えているとかなんとか――別に俺が、お前のことを奥さんだとか言ったんじゃないからな」
とんでもなく早口で、雪村。
その雪村が、成美以上に司書のおじさんの言葉に動揺しているのは、運転の乱れからも明らかである。
「そんなに全否定しなくても……私は気にしてませんけど」
「言っとくけど縁起の悪い誤解に、顎が落ちそうだったのは俺の方だ。誰がお前みたいな疫病神と……誤解されただけで一生不幸がついて回りそうな気がしてしょうがない」
「そこまで言わなくても」
さすがに少しばかりむっとしたが、成美は咳払いをして気をとり直した。
「……で、何を聞いたんですか?」
「…………」
「教えてください。結局他力本願のままですみませんけど……、さっきの方に連絡するかどうかは、私が自分で判断しますから」
雪村は軽くため息をついた。
「引っ越してくるのは大賛成――郊外の都市にありがちだが、ここも人口減で住民の高齢化が進んでいるんだそうだ。が、後藤家の跡地だけは絶対にやめておけ、と言われたよ」
「……曰くつきだから、という意味ですか?」
運転席の雪村が、わずかに目を細めるのが判った。
「汚ねぇ、町だな」
「え?」
「都市開発も、整備も、何もかもが遅れてる。――いってみれば低所得者の吹き溜まり。行政から完全に見捨てられた町だ」
「あの……、どうしたんですか、一体」
「ここはな、いってみれば後藤家が作った町なんだ」
「…………」
江戸時代から続くこの地方の大地主――後藤家。
苦々しげな口調で、雪村は続けた。
「遡れば戦後、荒れた田畑しかないこの町に三光重工――当時は三光工業っていうちっぽけな会社だったそうなんだが、その会社の工場を誘致したのが後藤家だ。そうして次々に、他の自治体が受け入れない有害工場を誘致し、百年足らずで荒地を工場の町にした。いわば、この町の創始者であり救世主だったってわけだ」
それは――本当にすごい家だったんだ。
「じゃあ、三光重工にとっても、後藤家は恩人のような立場だったんですね」
「そういうことになる。黎明期を支えたスポンサーみたいなものだな。創業一族である三条家とは長年に渡る姻戚関係もあるようで、今でも両家は少なからず縁が繋がっているんだろう」
なるほど、それなら三条守なる人物が屋敷を買い取った理由も納得できる。
「この町じゃ、後藤家は本当の意味での王様だった。町全体が後藤家に寄りかかっているから、誰ひとりとして頭が上がらない。何をしても許されるしもみ消せる。極端な言い方をすれば小さな治外法権区が成立してたわけだ」
ようやく雪村の不機嫌の一端が判った成美は、少しだけ眉を寄せた。
「それ、悪い意味の治外法権ですか」
「悪い意味だよ。氷室さんの婚家ならあまり悪く言いたくはないが、どうもろくでもない一族だったようだ。何をしてももみ消せるから、代々の当主はやりたい放題。大正の始め頃まで何人もの使用人が不審な死を遂げている。そのせいだろうが」
そこで言葉を切り、何故か雪村は黙りこんだ。成美はその続きを待ったが、軽い舌打ちの後、雪村はこう続けた。
「まぁ、そういった類の噂が根強く残ってるから、家の買い手がつかないんだろうってさ。――正直、驚いたよ。この平成の世に、ついこの間まで、そんな前時代的な一族が存在していたなんて」
そのせいだろうが……の次に、なんて言うつもりだったんだろう。
それが少しだけ気になったが、他にも聞いておきたいことはある。
「でも、そんなすごい家が、……言い方はあれですけど、どうして今みたいなことになってしまったんでしょうか」
工事の人の話では、家族は誰もこの町に残っていないようだ。
「それは……司書のおっさんの記憶に頼った話だが……、どうも後藤家は子どもに恵まれない家系らしく、この町に居着いて以来、代々女一人しか生まれなかったそうなんだ。当主は全員が婿養子。その婿養子が不出来だから家が駄目になったんだろうって」
「ああ……」
成美は得心して頷いた。まぁ、よくある話ではある。
「特に現在の当主――そいつが最悪だったんだそうだ。経営という意味では全く才のない男で、財産の大半を売名目的の慈善事業につぎこんだ挙句、後藤家を捨てて国政に打って出た。――後藤雅晴っつって、現職の参議院議員だそうだが、聞いたことないか」
「いえ」
首を横に振ろうとした成美は、はっとその刹那息を引いた。
そうだ。確かつきあい始めたばかりの頃、氷室さんはこう打ち明けてくれなかっただろうか。
出世に有利だというだけの理由で、知己の政治家の娘と結婚した。
やがてその娘に子供ができたが――それは、自分の子ではなかったと。
「それがもう15年も前の話で、以来後藤家には、当主の娘が1人で住むようになった。その娘も今から……7、8年前かな。屋敷からふっつりと姿を消してしまったんだそうだ。以来、近くに住んでる管理人の婆さんが出入りする以外、人が住んでる話は聞いたことがないってさ」
「娘……」
成美が思わずつぶやくと、雪村は心得たように小さく頷いた。
「地元でも評判の美人だったんだってな。彼女が結局、氷室さんの奥さんになった人なんだろ」
少し躊躇った後、成美は小さく頷いた。
「水に南って書いて、水南さんっていいます」
「へぇ、氷室さんとお似合いの名前だな」
言った後に失言に気づいたのか、雪村が軽く咳払いをする。
「いずれにしても、あの家の表札が後藤から氷室に変わった形跡はないみたいだ。霞ヶ関への通勤も不便そうだし、結婚を機に水南さんって人が家を出たんじゃないか?」
成美は何も言えないまま、ただ黙って視線を膝に向けていた。
「氷室さん。もしかして、いずれ婿養子に入るつもりで戸籍地だけを奥さんの実家に移したのかもしれない。まぁ、いずれにしたって、あの屋敷に氷室さんはいないよ」
きっと、そうなのだろう。
だったら私は、どうしてそんな家に、不思議な既視感を覚えたのだろう。
グーグルアースで鳥瞰図を見た時、絶対にどこかで見たような気がした。でもそれがどこだったのか――どうしても思い出せない。
「どうする。まだ時間があるけど、どっかで時間潰すか」
雪村がそう言って車を停めたので、成美はようやく我に返った。
「……大丈夫か」
「あ、はい」
ぼんやりしていた。
気づけば車は、再び後藤家の少し手前にまで戻っている。
左右をライラックの木々に覆われた細い坂道、この坂を登れば後藤邸だ。
氷室の婚家である後藤家。氷室が戸籍を移し、実際には住んでいなかった家。
何故だろう。どうしても――ここに何かがあるような気がしてならない。自分と氷室をつなぐ何かが。
「さっき通ったとこに、喫茶店があったな。ひとまずそこで飯でも食うか」
バックしようとハンドルに手をかけた雪村の肩を成美は咄嗟に掴んでいた。
「い、いいです、ここで。あとは1人で行ってきます」
「え?」
「もう時間もないし、主査はデートに行ってください。あとは1人で大丈夫ですから」
答えを待たずに、成美はバックを掴んで後部座席から降りた。
「――日高!」
急いで歩き始めた成美は、背後からかけられた強い声に、肩をすくませるようにして足をとめた。
車はまだ停まっていて、運転席から雪村が顔だけをのぞかせている。
「やっぱり行くな。駅まで送ってくから、車に戻れ」
「え、でも」
「また日を改めて出直そう。先方のことをもう少し調べてからでも遅くない。その時は俺も同席する」
「…………」
「母屋の所有権が複雑だって、工事のおっさんが言ってたよな? もしかすると後藤家の内部で何かトラブルがあるのかもしれない。氷室さんが無関係かどうか判らない以上、何も調べずにのこのこ乗り込んでいくのは危険だ」
雪村の言葉に、一瞬だがほっとしている自分がいる。
怖い――いや、自分は知りたくないのだ。これ以上、氷室の隠れされた面をのぞきたくない。月の裏側など見たくもない。
でも――
(ただ愛されるばかりで、愛する男の本当の姿を知ろうともしない。それゆえの悲劇であり、当然の結末よ。そうは思わない?)
(映画でも現実でも、愛とは常に戦ってもがいて、そうして自らの手で勝ち取るものよ。怠惰な女は失ったものにすら気づかない。そんな女には、せいぜい悲劇がお似合いなのよ)
真実から目を逸らし続けた私は。
大切なものを見失ったまま。
いずれ、大切な人まで失うことになるのだろうか。永遠に。
「……大丈夫です」
足をとめたまま成美は言った。
「日高――」
「本当に大丈夫。ちょっと様子みて、まずそうだったらすぐ帰ります。最悪、何かあれば主査に電話しますから」
「ちょっと待てよ」
雪村が車のドアを開けようとする。遮るように、成美は首を横に振った。
雪村の気持ちは涙が出るほど嬉しいが、これ以上彼を頼ると、ますます1人になるのが怖くなる。それに――
「ひ、1人じゃなきゃ、意味がないんです」
「は?」
「主査が優しいから、私、すっかり甘えてました。氷室さんの超嫉妬深い性格を完全ど忘れしてました。雪村さんが一緒だと、氷室さん怒って出てきてくれないかもしれない。ここから先は1人でいきます。今日は本当にありがとうございましたっ」
一気に言って背を向けた。
駆け出した背後で、車のドアが開く音がする。
「ちょっと待て、日高!」
驚くほど怖い声に、一瞬足がすくみそうになる。
「大丈夫です。何かあったらすぐに電話しますから!」
「馬鹿野郎、かえって迷惑だ!」
背中で返し、背中で聞いた。
成美は振り返らずに、幅員が1メートルもない狭い舗道に飛び込んだ。
――ごめんなさい。雪村さん。
これ以上頼ってはいけないという以前に、これ以上、氷室さんの中に他の人を入れてはいけないという気がする。どんなに怖い結末が待っていようと、ここから先は、私1人で行かないと――
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