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車の中からその光景は見えていたものの、降りて間近で見ると、失望はますます濃くなった。
「……取り壊し中、みたいだな」
足を止めた雪村が呟き、成美はただ頷いた。
アンティーク風の大きな門扉には、建設会社の名前が入った看板がかけてあり、そこに大きく「工事中」と書かれている。
しかしそれが増築や改装でない証拠に、門扉に表札はなく、郵便受けも撤去された痕跡がある。
締め切られた門扉には何重もの鉄鎖がかかっており、その両サイドに延々と続く高い塀の向こうでは、重機がたてる地響きにも似た音が響いていた。
「どうする?」
どうするって……
聞かれても、ただ途方にくれる成美には何も思いつかない。
一足遅かった。いや、一足だか二足だかは分からないが、灰谷市で成美が動けないでいる間に、氷室が残してくれていたかもしれない痕跡は、ひとつずつ消えていってしまっているのだ。
「とりあえず、回ってみるか」
視線を巡らせた雪村が、そう言って振り返った。
「え、回るって」
「工事車両が入ってるんだ。ここじゃないどこかに入り口があるんだろ。せっかくこんなとこまで来たんだから、話くらい聞いたらどうだよ」
「そ、そうですね」
冷静な雪村に促されるように、再度降りた車に乗り込む。
「大きなお屋敷ですね」
「そっか? 普通――まぁ、資産家にしては中程度ってところじゃねぇの」
さすがは、スノウ製菓の御曹司? 雪村一族の詳細は知らないが、雪村にしても、親族は相当な資産家なのだ。
それにしても、なんだか嫌な感じのする塀だな。
延々と続く灰色の壁を車内から見上げながら、成美は少しだけ眉をひそめた。
石レンガを積み上げた壁の上部に、黒い鉄製の剣様フェンスが凶器のように張り巡らせてある。フェンスからかろうじて垣間見えるのは鬱蒼とした木立だけだ。
背面に木々の生い茂った山を背負っているせいか、もう日が高いというのに薄暗い。そして空気がひんやりと冷えている。季節は初夏だというのに、ここだけ冬が残っているようでもある。
「ここに来るまでも思ってたけど、なんか、漠然と、気味が悪い家だよな」
車をバックさせながら、雪村が不意に言った。
「塀が暗いし、高すぎですよね」
頷いて成美も相槌を打つ。言い方は悪いが、まるでアンティークな監獄みたいだ。
「まぁ、それもあるけど」
前に向き直り、雪村はゆっくりと車を前進させた。
「事前に少し調べたんだけど、この辺り、化学系の工場が多いらしくてさ」
「あ、そう言えば、道中も工場ばかり目につきましたね」
灰色の建物。灰色の屋根。煙突から吐き出される白い煙。
「景色もそうだけど、環境にも身体にもよくなさそうな町だよな。自然、労働者が集まるからだろうけど、町全体が庶民的っつーか、悪く言えば貧乏ったらしいというか」
「……悪く言い過ぎじゃないですか。それ」
確かに特別区と比べたら街全体が低いというか、低層建物しかない印象はあるが。
「そんな中で、この屋敷だけ色合いが全然違うだろ。場所も街全体を見下ろす位置にあるし――ほら」
雪村の視線を追って顔を向けると、道路を隔てた眼下に、町並みが一望して見えた。
小さなガラクタをごちゃこちゃに並べたような雑多な町並み。そこに君臨するように点在する巨大な工場。
「まるで女王蟻が城を建てて、働き蟻の群れを監視してるみたいだ。この家も含めて街全体が気味悪い。ああ、ここだ」
道路の突き当りを曲がったところで、塀は唐突に途切れ、工事用のフェンスに切り替わった。青いダンプカーが二2台、その前に停まっている。
成美の視界に、その向こうの光景が飛び込んできた。緑の切妻屋根の洋風の館――その三分の一が見事に破壊されて瓦礫と化している。前では作業員と思しき男が2人立っていて、訝しげに雪村の車を振り返る。
「――すみません」
いきなり、ウインドウを開けて、雪村が声を上げた。
「こちら、氷室さんのお宅ではないですか」
重機の音が激しく、その声はおそらく届かない。作業員が1人、首をかしげながら駆け寄ってくる。
「仕事中すみません」
雪村は車から降り、先ほどと同じ質問をした。後部シートの成美は、雪村の思わぬ積極性に驚いたきり声もでない。
「ヒムロ――? いえ、違いますよ」
作業員がヘルメットを脱いで、じろり、と成美の方を見た。中年といっていい年代の男だ。いかにも肉体労働者らしく体格がいい上に目つきが鋭い。腕には監督と印字された緑の腕章をぶらさげている。
「この家の所有者はヒムロなんて人じゃあないですが、おたくさんたちは?」
同じように車を降りた成美はドキドキしたが、雪村は平然と微笑んだ。
「ああ、僕らは市役所の者です」
「役所?」
「ええ、灰谷市役所総務局行政管理課法規係の者です」
たちまち男がひるんだような表情になる。
「えっと、お役所の方が、なんだって」
「個人情報にかかることなので詳しくは申し上げられませんが、公用です。こちらに住む氷室さんに用事がありましてね」
すらすら口から嘘――嘘ではないところがすごいのだが――信ぴょう性あることを言う雪村。
「おかしいな。氷室さんのお宅ではないですか。住民票を確認したのですが、間違いなくこの住所のはずなんですが」
「ヒムロ、ですか。いやぁ、施主さんの名前とも違いますし、この家は昔からの名家ですが、そんな名前じゃ……」
雪村をすっかり信じ込んだ(決して身分を詐称しているわけではないのだが)男は、真剣に考えこむような眼差しになる。
男がひきこまれたタイミングを見計らったように、雪村がさらっと話題を変えた。
「なるほど、昔からの名家ですか。確かに、いかにも一昔前の領主様のようなお屋敷ですよね」
「ああ、いかにもじゃなくて、本物の領主様だったそうですよ」
男が得たり、という風に顔をあげた。
「なんでも江戸の時代から続く大地主だったとか。市町村合併前は、代々町の町長さんですからね。今じゃあ系統は途絶えたって話っすけど、一昔前のゴトウ家は、いってみりゃ町の殿様みたいなものですよ」
「ゴトウ」
「よくあるゴトウで、後ろに藤と書きます。あの、この辺りじゃ知らない人はいないくらい、有名な家なんですが」
後藤。
後藤水南。
ふいに背筋がぞくりとした。
それが氷室の妻である水南の旧姓なのだろうか。
「なのに、そのお屋敷が取り壊しですか」
「ええ、まぁ、詳しい事情は判りませんが、もう何年も誰も住んでないって話ですからね」
「由緒あるお屋敷なのに、もったいないですね」
余裕で腕を組む雪村に、完全に気圧されている工事の人。
「で? 取り壊し工事の依頼主は、氷室さんでは?」
「あ、いや、違います。確か有名な企業の役員さんで――ええと、サンジョウ様と」
また別の名前が出てきた。
「サンジョウ様。そちらの方が現在のお屋敷の所有者ですか?」
「まぁ、そうだと思いますね。あっしらはそう聞いてますが」
「有名企業、といいますと」
「三光重工です。えっと、この町にいくつか工場を持ってる大きな会社ですけど、そこの役員で創業一族の方とか……。ご存知ないですか。サンジョウマモルさんっていって、それこそ有名な方ですが」
知っているとも知らないとも言わず、雪村は頷いた。
「若いのにやり手で、今の言葉でいえば、イケメンってやつですかね。ここにも何度か来られましたけど、ちょっと近寄りがたい感じの、いかにもブルジョアって男ですよ」
すっかりおしゃべりになっている現場監督は、聞かれもしないことまでぺらぺらとしゃべる。
「ではサンジョウ氏は、ここに新たなご自宅でも建てられるつもりなんでしょうかね」
「いやぁ、それはどうですかねぇ」
何故か男は肩をすくめ、それはないでしょ、みたいな顔になった。
「少なくとも、住むおつもりじゃあない気はしますけどねぇ。だいたい今回の工事は母屋以外の取り壊しで、全部取っ払っちまうわけじゃあないようですし」
「では、母屋だけを残されると」
「そうじゃなくて、そこだけ権利関係が複雑らしいんですよ。残すというより、今は手がつけられないような感じで」
雪村がわずかに眉を寄せた。
「……完全に所有していない屋敷を、では解体しているわけですか。ちょっと判りにくい話ですね」
「まぁ、あれですよ。三光重工は昔から後藤家と懇意だったんで、その縁で土地屋敷の一部を買い取ってあげたんじゃないでしょうか。――売ろうにもなかなか、買い手のつかない物件だったでしょうから」
「つまり、曰くつき物件ということですか」
雪村の問いに、男は初めて口が過ぎたことを躊躇うような表情をみせた。
「まぁ、……地元じゃあ色々ね。私らが子供の頃の話だし、曰くっつっても、全部迷信みたいなものですけどね」
迷信を強調して言って、男は視線を屋敷の方に向けた。
「とにかく、あっしらが依頼されたのは、屋敷の一部を壊して撤去することだけですから、それ以上の話は、ちょっと」
ちょっといいつつ、かなり余計なことまで話してくれた男は、本気で言い過ぎたことを後悔しているようだった。
その空気を読んだのか、雪村もそれ以上の質問はしない。
「色々ありがとうございました。最後に、少しだけ話を戻しますが、私どもが探している氷室さんが、仮にこの屋敷に居候していたとすれば……そのあたり、どなたに確認すれば判るでしょうか」
「だったら、午後からくる管理人の婆さんに聞いてみてください」
少しほっとしたように男は言った。
「向井っていう管理人の婆さんがいて、その人が毎日1時きっかりに、母屋の掃除をしに来るんですよ。その人ならある程度の事情を知ってると思いますから」
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