その夜、家中が寝静まった後、約束どおり書庫にやってきた水南を、氷室は抱き上げて長椅子に組み敷いた。
 夜着にガウンを羽織った水南は、逆らわずに黙ってされるがままになっている。
 今夜の婚約披露をかねたパーティのことは、同行した使用人たちの口から聞き知っていた。それがいかに華やかで盛大なものであったか。相手の男性がどれだけ男らしくて見栄えのいい顔つきであったか。いかに水南とお似合いであったか――
 氷室もまた都内のホテルにまでは同行したが、用事が済むと早々に帰宅した。その道中に起きた不愉快な出来事も相まって、正直、水南の帰宅を待っている間、嫉妬で頭がおかしくなりそうだった。
 その負の感情のままに、今、氷室は最初の夜と同じように、水南の何もかもを暴いて壊そうとしている。
 激情に駆られたまま、氷室は荒々しく水南の脚を開かせると、ガウンを剥ぎ取り、夜着の胸を開いた。
「っ……」
 小さく声をあげ、胸を隠そうとする水南の手首を掴んで引き離す。胸に手を差し入れようとした氷室は、その時初めて気がついた。水南の右掌に、血の滲んだ包帯が巻かれている。
「……水南、これはどうしたんです」
「なんでも……、いいから、気にしないで」
 顔をそむけた水南の唇が震えている。
 手のひらに負った傷が、それがまだ治りきらないなら、いかに苦痛を伴うかは知っている。
「みせて」
 氷室は水南を抱き起こして座らせると、右手を自分の方に引き寄せた。
「包帯は志都さんが?」
「……自分で……、手袋をしていたから、志都はまだ知らないわ」
 そうだろう。巻き方が適当すぎる。
 氷室は水南の白い手からゆっくりと包帯を取り外した。
 その最中でも、普段から表情に乏しい水南の眉が、微かに歪むのが分かる。
 氷室もまた、顕になった手のひらを見て、その奇妙な傷跡に眉をしかめていた。
 中指の下と、手首の付け根。親指の付け根と、小指の少し下。つまり正面からみると菱型の形に、四点の傷ができている。どれも皮膚を破り肉がえぐれるほどの深いキズだ。
「なんですか、これは」
「……痛いわ、天」
 水南は抵抗するようにかぶりを振ると、右手を引いて、それを左手で隠すようにした。
「奴に、何かされたんですか」
「……そうじゃないけど……」
「じゃあどうしてそんな傷がついたんです。このことを、後藤さんは知っているんですか」
 迷うように視線を下げた水南は、「……クルスを握りしめていたの」と呟くように言った。
「クルス……?」
 十字架のことだ。でも握りしめていたといっても、肉がえぐれて血が出るほどに?
「……パーティの後、部屋がとってあって――断れなかったの、どうしても。早く終わって欲しくて、ただ神様に祈ったわ。ずっとクルスを握りしめていて、……気がついたら手のひらから、血が」
 その続きを遮るように、氷室は水南の頭を抱いて、引き寄せていた。
「……平気よ。天、何もなかったの。血を見たら、彼、慌ててしまって。……だから本当に大丈夫なのよ」
 胸の中で嵐が荒れ狂っている。その荒ぶる感情のままに、氷室は言った。
「どうして何も言わないんですか?」
「何も、とは?」
「いつもみたいに言えばいい。なんとかしてくれと、――結婚などしたくないと!」
「…………」
「そうしたら僕は……なんだって、します」
「…………」
 それが犯罪でも、人殺しでも。
 君のためなら、水南、愚かな僕はきっと何もかも捨てるだろう……
 
 
「……不思議」
 ぼんやりと水南が呟いたので、その身体を背中から抱き支えていた氷室は、ふと首をかしげていた。
 あれきり2人は何も語らず、ただ無言で時が過ぎるのに任せていた。やがて確実に訪れる別れの時を、それが永遠に来ないかのような錯覚に――それを錯覚だとも思わずにただ手を繋いで寄り添っていた。
「不思議とは?」
「……この部屋に私と天がいることが。ここが以前、お母様のアトリエだった話はしたかしら」
「いえ――」
「母もまた、絵を描く人だったの。この部屋の半分は、昔はクローゼットになっていて、そこに母の描いた絵が何百枚も収められていたんだそうよ……。今はもう、21枚しか残っていないけれど」
 水南が初めて、自分から母親の話をし始めたので、氷室は内心驚いていた。
「21枚とは、もしかして」
「そう。……一番奥に並べてある、同じ構図で書かれた絵のことよ。この家を鳥瞰して描いたもの……。あの絵を残して、残りは全部母自身が焼き棄てたんですって」
「焼き棄てた」
 氷室は眉をひそめていた。
「……当時の母は、少しばかり精神を病んでいたようね。この部屋の絵の大半は、彼女が集めて飾ったものだけど、それがどういう心理状況からきたものか、天には分かる?」
「……いえ」
 頭がおかしくなっていたのではないか、とはさすがに言えなかった。絵を焼き棄てたというくだりにも驚いたが、残った21枚が、何故よりにもよってあの不気味な絵なのか、という気味の悪さも残る。
「私には分かったわ。だから私、お母様の意図したとおりに、この部屋を完成させたの。私に解けた謎は、――もちろん天にも分かるはずよ。いつか――そう遠くない時に」
「まったく分かる気がしませんがね」
 本心から氷室は白旗をあげた。正直言えば、この部屋の絵画の不気味さに関してだけは、今でも苦手意識を払拭できない。
 水南は唇を微かに上げて微笑んだ。
「そうでしょうね。私にしてもごく最近、最後の謎に気づいたのだもの」
「……謎?」
「運命が永遠の螺旋の下にあること」
「…………」
「世界は逃げ場のない方舟ではないということ」
 まるで意味が判らない。
 氷室の沈黙を無視して、謎かけを続けるように水南は続けた。
「世界はひとつよ。でも同時に世界は何億通りも存在する。その意味は判る?」
「人の数だけ、世界は存在するという意味ですか」
「その通りよ。人は自分の目を通してでしか世界を認識することができない。私と天も同じものを見ているわ。でも私には天の目にそれがどう映っているか判らないし、天にも、私の目に世界がどう映っているかなんて、絶対に判らない」
「……そうですね」
 不意に胸が、物狂おしいまでの愛おしさでいっぱいになった。
 知りたい。
 それでも僕は、君を――君の観る世界を全部知りたい。
 それが僕にとって、決して受け入れられない世界であっても。
 眉を寄せた氷室を見上げ、水南は全てを帳消しにするような優しい笑顔になった。その愛らしさに思わず息が止まるほど――まるで水南らしくない可愛い笑顔に、氷室は面食らって視線を背ける。
「――さっきから、君の言うことは理解不能だ」
「そうね。天は頭が悪いから」
「だったらもっと、判るように説明してください」
「天らしくないわ。そんなに早く白旗をあげていいの?」
「君は、絶対に君にしかわからない答えを謎にする。白旗をあげる以外にどんな方法があるというんですか」
「……答えは私も知っているとは限らないのよ。だって世界は刻一刻と変わっているんですもの」
 微笑んだ水南は、再び氷室の胸に頭を預けた。
「写真はそのままを写すだけ……。でも絵は違う、必ずアーティストの目を通した世界が描かれるの。その人だけが捉え得る世界……そうして判るのよ。真の世界は私達1人1人の内側にあることが」
 少し眠そうな、まるで独り言でも言うような口調だった。
「本も同じよ……。作家の心が見る世界が描かれる。だから私は本を読むの。本は人生と世界そのもの。ねぇ天、生きている間に、人はいったい、何冊の本を読むことができると思う?」
 ふと思った。水南は一体、1日にどれだけの書籍を読んでいるのだろうか。
彼女の読書スピードは、氷室がいくら頑張っても太刀打ちできない鬼気迫る何かがある。
「そうして裡なる世界から開放された時、人は複数の世界に跨る真実と思しき欠片を知ることができる。でもそれは、……想像以上に恐ろしくて、辛いことよ……」
 ――水南……。
 小さな寝息をたてはじめた水南の身体を、氷室はやるせなさで一杯になりながらそっと抱きしめた。
 君の言うとおり、僕には、永遠に君の世界を覗くことはできない。
 それが人に下された摂理だというなら、僕は、僕の目で君という人を探り当てるしかない。
 氷室は今日の帰途、いきなり路上で声をかけてきた女のことを思い出していた。
 場所は中央区の繁華街。停まったタクシーから降りてきた女は、一目で水商売をしていると判る身なりをしていた。
(ねぇ、あなたもしかして氷室君? そうでしょ。私のこと覚えてない?)
(同じ高校だったのよ。一度後藤の家にもお邪魔したことがあるわ。――香澄よ、神崎香澄)
 かんざきかすみ―――
 苗字はうろ覚えだが、名前と顔ははっきり覚えていた。
 水南の同級生。それだけでなく校内ではかなり有名な存在だったからだ。……三条守のセックスフレンド。三条がそう喧伝し、本人もそれを否定せずにボス猿の愛人きどりで大きな顔をしていた。女王様公認のセフレ。つまり水南も香澄の存在を認めていたことになる。
 確か高校3年――つまり、氷室が高校1年生の時に、彼女は学校を中退した。家庭の事情だったと噂に聞いたが、詳しいことは知らない。三条とはその時に切れたようだ。
(これ、私の名刺。ねぇ、今度絶対にお店に来て。大丈夫よ。君、全然未成年には見えないから。結構大きなお店なの。……色んな人を君に紹介してあげられると思うわ)
 その含んだ言い方に本能的な危険を感じ、氷室は適当にあしらってその場を去ろうとした。何故だか、この出会いが偶然ではないような気がしたのだ。
(待って、氷室君)
 案の定、少し慌てた態で女が後を追いかけてきた。
(もし来てくれたら、いい話を聞かせてあげるわ。水南のことよ)
 一瞬眉を掠めた動揺を見越したように、微笑んで女は続けた。
(水南はね、あなたにとても大切なことを隠しているのよ。なんだと思う?――あなたの、お父さんのこと)
 即座に頭に浮かんだのは、自分と水南が姉弟かもしれないという、子どもの頃からよく耳にした噂だった。
 氷室が愛人の子にも関わらず、後藤家で厚遇されているのが原因だ。つまり氷室は、もともと後藤の愛人だった母と後藤の間に出来た子どもではないかというのである。
 母は絶対に違うと断言していたが、正直、女の言うことを鵜呑みにはできないという不安はあった。だから氷室は、4人の血液型を調べたのだ。
 後藤はO型、母はA型、父はB、そして氷室はABである。
 悩むまでもない単純な結末に、思わず氷室は失笑を漏らした。正直いえば、少なからず拍子抜けもした。もしかすると、心のどこかで血筋をたてに後藤の家を乗っ取ってやろうという復讐めいた下心があったのかもしれない。
 いずれにしても、氷室はその女の誘いを完全に無視して立ち去ろうとした。
 いまさら、父の話などどうでもいい。あんな男、とうに出所しているだろうが、死のうが野垂れ死のうが勝手にすればいい。むしろ、いまさらのこのこ出てこられた方が迷惑だ。
 そんな氷室の背を、女の声が追いかけてきた。
(ねぇ、氷室君。アルカナって、知ってる?)
 ――アルカナ……?
(わからないなら水南にきいてみるといいわ。水南はね、あなたにとても大切なことを隠しているんだから)
 結局香澄の言葉を、氷室は無視することにした。
 神崎香澄に虚言癖があることは学生時代から周知の事実だったし、水南に強い敵意を抱いていたのも明白だった。そんな女の言い草など、信じるに値しないと思ったのだ。
 なのに今、その女――神崎香澄が口にしたセリフが、ひどく鮮やかに頭の中で蘇り始めている。
(水南はね、あなたにとても大切なことを隠しているんだから)
 少なくとも神崎香澄は、氷室の知らない水南と三条を知っているのだ。
 氷室の知らない世界に住む水南を知っている……。
「天、目を閉じてみて」
 不意に聞こえた水南の声が、氷室を現実に引き戻した。
「そう、目を閉じて。……世界は闇よ。でもこれほど心安らげる場所は他にはない。ずっとこの中にいられたらいいのに……何も見ずに……何も知らずに……」
「……水南」
 思わず目を開けようとしたら、その目の上に水南の手が被せられた。
「私を連れて逃げて」
 闇の中、はっと氷室は息を引いた。
「今度こそ、天にもどうにもできないことは判ってる。手の傷が治ってしまえば、信仰をたてに性交渉を断ることもできないでしょう。天、そうなる前に私と一緒に逃げて」
「……どこへ?」
 掠れた声で氷室は訊いた。
「どこでも……天と2人だけで生きていける場所へ」
「…………」
「そうして……天の子どもを産むわ……1人だけ、……許してくれる?」
「…………」
 なんのための許しだろう。氷室の人生を目茶苦茶にするという意味だろうか。
 そう、全ては破滅へのいざないなのだ。
 それが判っていても、氷室は頷くことしか出来なかった。
 
 
 
 
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この物語はフィクションです。