「だめよ、みないで」
 氷室が覗きこむと、水南はくすくす笑いながら、膝の上のスケッチブックを閉じた。
「何を描いていたんですか」
「天よ。でもだめ。とてもおかしな顔になったんですもの」
 氷室は自分の頬が少しだけ熱くなるのを感じた。
「おかしな顔とは?」
「おかしな顔といったらおかしな顔よ。今度、上手く描けたら見せてあげてもいいわ」
「なんでそういう時でも上から目線なんですか」
「だって、私が天より年上ですもの」
 四方を書棚に囲まれた密会の場所で、ソファに座る2人はどちらからともなく手を繋いで寄り添いあった。
 柔らかな午後の光が、はめ殺しの窓から差し込んでいる。
 水南が集めた膨大な蔵書と不気味な名画のレプリカが飾られているこの書庫は、氷室にとっては子どもの頃から苦手な場所だ。
 皮肉なことに、今はその部屋が、人目を忍ぶ2人にとっては最も安全な隠れ場所になっている。部屋の鍵を持っているのは水南と氷室の2人だけだし、そもそも誰も――掃除を任されるている向井志都をのぞけば、誰もこの部屋には気味悪がって近づかないからだ。
 今も、迷路のように部屋を縦横断する高い書棚が、寄り添う2人の姿を完全に隠してくれている。
「そろそろ部屋に戻らなくちゃ」
「まだ時間はあるでしょう」
「……でもパーティの支度をしないと。また前のようにぎりぎりに戻ると、志都に叱られてしまうわ」
 そういって顔を背けた水南を、氷室は愛おしさと苛立ちが複雑に混在した気持ちで見下ろした。
 今夜、都内のホテルで水南の20歳のバースディパーティが開かれる。
 後藤家当主、後藤雅晴は2ヶ月ほど前から生活の拠点を中央に移し、来年行われる予定の参議院議員選挙の準備に邁進していた。
 その後藤が、いわば私的なパーティを大々的に執り行うのは、自らの権勢を政財界に誇示することと――そしてもうひとつ、もっと重要な目的があるからだ。
 今夜、水南は、与党幹事長の息子との婚約を発表する予定になっている。37歳。海外で証券関係の仕事をしていたその男は、いずれ父親の地盤を継ぐつつもりで昨年日本に帰国したばかりだ。
 水南は今回も、父の言葉に逆らうことなく恐ろしく素直にその婚約を受け入れた。
 今までもそうだった。水南は一度として父親の命じた結婚に異を唱えない。そのくせ氷室の前では結婚などしたくないとおぞけを振るうように訴えるのだ。
 結局、今まで決まりかけた幾つもの婚約話は、全て氷室が水面下で潰してきた。
 あるいはそれが、自分の身体と引き換えに水南が求めた見返りだったのかもしれない――と、ふと思う。
 学生時代、水南の忠実な番犬であり保護者だった三条守は、高校卒業と同時に、無理矢理に海外留学させられたと聞いている。三条家が後藤家との縁談に乗り気ではなかったとの噂もあるが、水南が何も語らないので、氷室に本当のところは判らない。
 つまり氷室は――三条の代わりに水南の忠実な番犬として雇い入れられた――という見方もできるのだ。
 美術講師、成島襄との関係は本当のところどうだったのか。
 三条とも、氷室と同様、肉体の契約を結んでいたのか。
 今も胸に渦巻くどす黒い疑念は、口に出して確かめたことはない。
 正直いえば、それが過去であれ未来であれ、水南が他の男に抱かれている様など想像したくもない。水南が他の誰かと結婚するくらいなら、死んだ方がマシだとさえ思えるくらいだ。
 なのに今回ばかりは、どうしようもなかった。
 相手は海外で育った政界のサラブレッド。父親の威光によって完全に守られた私生活は、どこをどうとっても足の引っ張り様がない。
 そう、今度ばかりは、しょせん未成年で後藤の使用人も同然の氷室には、なす術がないのだ。――
 それは水南も理解しているのか、それとも今度こそ本気で結婚するつもりでいるのか、今回に限っては結婚したくないと訴えてくることもない。
 冬の陽があっという間に落ちていくように、今、2人の時計は、急速に終焉に向かって針を進めている。今こうやって、何気ない会話をしながら寄り添い合っている間にも――
「水南」
「天……いけないわ」
 氷室の唇を避けた水南は、物憂げに目を伏せたままでそっと氷室の胸を押し戻した。
「約束したでしょう? 肉体で確かめあわなくても、もう私たちは心と心で結ばれている」
「……キスも、あなたの基準では肉体の契りの内に入るのですか」
「辛くなるわ。天、私も辛いのよ。……わかって……」
 閉じた水南の長いまつげに、宝石のような涙の粒が膨らんだ。
「いつか神様が2人の結婚をお許しになる日がくるまで、―――」
 そんな都合のいい日が、永遠に来ることがないのは判っている。
 今度の婚約話が出始めた頃から、水南はにわかに熱心なキリスト信徒になった。今では毎朝毎晩、食堂に儲けた特注祭壇に長い祈りを捧げ、肉食を断ち、婚前交渉を自身に禁じている。つまり氷室とも――その頃から一切の性的接触を断っている。
(彼を欺くためよ、天。一度お会いしてみて分かったのだけど、とても強引な方で……、志都とも相談して、信仰が深まったように振る舞うことにしたの。そうすれば少なくとも、婚前交渉をお断りする口実にはなるでしょう)
 あるいは禁欲は、今夜婚約する男ではなく、氷室を遠ざける口実かもしれないとの疑念を抱きつつも――結局氷室は水南に寄り添い、彼女の意のままになることを選択した。
 この人を愛している。その言葉以外に、こうも自分が惨めでいることに耐える理由があるだろうか。
「天、判って。……あなたが好きよ……大好き……」
 まるで氷室の複雑な胸中を読んだように、その頬を両手で抱くと、水南は額をおしあてながら囁いた。
「ずっとこのままでいて……ずっと私の傍にいて……。生きている間、天の時間は全部私のものだって、嘘でいいから約束して」
 氷室は黙ったまま、水南を抱き寄せ、艶やかな髪をそっと撫でた。
「私のなにもかもは、天のものよ……永遠に」
 これが演技だとでもいうのだろうか。
 この潤んだ目も、真摯な言葉も全部。
 しかしこの束の間の一時が終われば、水南は美しく着飾って婚約者が待つパーティ会場へと向かうのだ。
 判らない――水南の本当の気持ちなど、今は考えたくもない。
 水南を押し戻し、そむけた視線の端に、先ほど水南が隠したスケッチブックの断片が見えた。
 ――そういえば久しぶりに、絵を描いている姿を見たな。
 そのことが、かつて水南の恋人だった美術講師を否応なしに連想させる。
 氷室は、水南の腕を振りほどくようにして立ち上がった。
「すみませんが、僕が先に出ています。――パーティの件では、僕もまた、色々な仕事を押し付けられていますからね」
「天、今夜、この部屋で待っていて」
 歩きかけた氷室は脚をとめていた。
 夜間の逢瀬を水南に拒否されてから、もう随分が立つからだ。
「パーティが終わったら必ず行くわ。……お願いだから私を疑わないで……、私には、もう、あなた以外の人を愛することなんてできないのよ」
 
 
 
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この物語はフィクションです。