「5時過ぎにすみません。法規係の雪村ですが」
 席に戻ってすぐに雪村は電話をかけ始め、成美は少し憂鬱な気持ちで机の上を片づけはじめた。
 閑散期の6時前とあって、係員はすでに全員帰庁している。
 どうしよう。これから。
 自分の無力さというか、要領の悪さというか、頭の悪さが情けない。
 氷室さんを探そうと心に決めたものの、手がかりはまるで掴めず、やることなすことつまずいてばかり。こんなことで、本当に私、氷室さんを取り戻すことができるのだろうか。
 彼を連れて行ってしまった水南さんの手から。
「ああ、ヤマシロさん? すみません。遅い時間に。先日相談のあった件ですが、あの時は様子をみたら、というようなことを言いましたけど、ちょっとそれじゃまずいなと思ったものですから」
 雪村は淡々と電話を続けている。相手はおそらく担当している局の誰かだろう。
 おそらくだが、法律相談の回答だ。
 定時時過ぎに、しかも雪村主査の方からわざわざかけるなんて珍しい。
 そう思いつつ、成美は携帯電話をバックに収めて立ち上がった。そして電話中の雪村に一礼だけして、先に退室しようと――した時だった。
「ええ。氷室課長が置いていかれた貴重品の件です。物が物ですし、相手も相手――後々警察が入ってきて問題になってもいけませんしね。早急に所在を調査し、通知なり公告なりを出しましょう。速やかに戸籍をとって、――ああ、取った。じゃあちょっと確認したいことがあるんで、今から現物もってうちに来てもらえますか」
 え――?
 え? え?
 唖然とする成美の前で、雪村はため息と共に受話器を置いた。
「ど、どど、どういう、今の」
 つんのめるように駆け寄った成美を、雪村は心底迷惑げに手で制した。
「落ち着いて喋れ。――相手は福利課。氷室さんが住んでたマンションを契約してる課だ。知ってるだろ。市の職員には住居手当しか出ないが、国家から派遣された氷室さんには市から住居のあっせんがあるんだ」
 そういえば――
「で、でも氷室さん、以前、住んでる部屋に関しては自分で気にいった物件を選んで、家賃も自分で払ってるみたいなことを」
 落ち着きをなくした成美を見て、雪村は再度ため息をついた。
「確かに氷室さんの場合、本人の希望どおりの部屋を契約してるんだけど、契約者はあくまで、市だ。家賃も条例で定めた範囲内の額は出してる。でないと逆に給与規則違反になるからな。まぁ、そんなことはどうでもいいよ。問題は今年の1月、部屋を撤去した際に――忘れ物があったんだ」
 忘れ物。
 自分の心臓のどこかが、深い音をたてた。
「なんですか」
「キーケース」
 鍵――
「なんとかって高級ブランドの、原価で10万近く、中古で売っても7、8万はくだらない品物なんだそうだ。中にはマンションのものではない鍵が入ってて、処分しようにもできないって、福利課から相談を受けたのが4月の終わり。――んなもん、いつか本人から連絡があるだろうから金庫の中にでもぶちこんどけって、適当に答えたんだけど」
 自分の心臓が、とくとく音をたてている。
 鍵――氷室さんの部屋のものではない鍵。
 それは、もしかして……。
「……なぁ」
「あ、はい」
 迂闊にも鍵のことで頭がいっぱいになっていた成美は急いで顔をあげた。
 そうか。債権の行使など正当な理由があれば、戸籍請求は問題なくできる。口では馬鹿にしたようなことを言いつつ、雪村は正当な手段で成美に協力してくれようとしているのだ。
「す、すみません。本当にありがとうございます。この恩は、いずれ必ずお返ししますので」
「そういうんじゃなくて」
 憂鬱そうに嘆息した雪村は、髪をかきあげながら立ち上がった。
「お前と氷室さんって、なに? いい年して、鬼ごっこかかくれんぼでもやってるわけ」
「――え?」
「部屋にチリひとつ残さないほど几帳面に片付けてった人が、なんでわざわざ、鍵の入った高級ケースを忘れていったんだろうって、福利課の人も首かしげてたよ。その理由――お前の説によると、氷室さんがわざと残した手がかりってことになるのかな」
「…………」
「それとも、福利課の連中が戸籍請求することまで計算してたのかな。まぁ、どうでもいいけど、今から担当が持ってくるから、お前、同席して確認してみろよ」
 
 
「なにしろあれですよ。氷室課長の所在を確認しようにも、住民票上のマンションはもう、売却された後、でして」
 福利課の担当主査、山城はいかにも頼りなさげな目で、雪村と成美を交互に見た。
 年はもう50前だというのに、何か問題があればすぐに雪村に泣きついてくる依存心の高い男である。
「国や他の自治体から灰谷市に来られた人は沢山おられますが、こうも所在が掴めなくなったのは氷室課長が初めてのケースでして。戸籍まで取るのはどうかと思いましたが、何分残された物が貴重品の類ですし」
「これ以前の戸籍は」
 素っ気なく言った雪村の手には、世田谷区役所から届けられたばかりの戸籍謄本の写がある。
「い、いえ。それはまだ。ご本人がお亡くなりになられたわけではないですし、ひとまず附票が手に入れば十分だと思ったものですから」
「……僕の記憶が確かなら、附票に記されている住所地に、もう氷室課長はお住まいではないのでは?」
 雪村はそう言い、少しだけ眉を寄せて手元の戸籍に視線を落とした。
 「附票」とは、戸籍に付随されているもので、本人の住所地が記載されているものだ。通常、本人がどこに引っ越しても、附票に全て記録される仕組みになっている。
 しかし、その附票に記された住所地はひとつしかなかった。
 すでに売却された、世田谷のマンションである。
「おっしゃる通りです。それは灰谷市のデータベースに登録されている住所ですね。今まで二度手紙を出しましたが転居先不明で戻ってきました。戸籍を見ていただければお判りだと思いますが、どうやら氷室課長は、去年の9月に転籍されているようなのです。この戸籍は転籍後の戸籍なので、直前の戸籍地までしか記載されていません」
 言い終えた山城がため息をつく。
 行政管理課の会議室。雪村の隣に座る成美ももう、戸籍の内容は確認済みだった。
 本籍は、氷室の住民票上の住所でもある世田谷のマンション。戸籍主は氷室天。
「氷室課長に、ご家族はいなかったんですかね」
「この戸籍が作成されたのが、去年の9月ですから……。まぁ、奥様がお亡くなりになった時に転籍されたんでしょうね。お子さんがいらしたとの噂もありますが、母方の実家が引取りでもしたのでしょうか……。以前の戸籍をとってみれば、そのあたりはわかるかもしれませんが、そこまでしていいものかどうか」
 以前の戸籍。
 目の前にある戸籍には、当然氷室の、転籍前の戸籍地も記載されている。
 東京都内。ただし23区ではない。初めて目にする市名だ。戸籍主は氷室自身。それが、水南が生存中の本籍であるならば、その地で、以前氷室は水南と暮らしていたことになるのではないか。
 ドクン、と心臓が強く鳴った。
 つまり、転籍前の戸籍さえ手に入れば、彼と水南がいつ結婚し、いつ子供ができたかが判る。氷室の両親はおろか、水南の出生についてもあらかたのことが判る。
「まぁ、事情は判りました。――その上で、改めて件の鍵を確認させてもらえませんか。現物をお持ちいただいたと思いますが」
「ああ、はい」
 山城が慌てたように、脇に置いていた大きな紙袋を取り上げ、中からビニール袋で丁寧に包まれたものが取り出される。成美はその間、息すら上手くできなかった。
 上品な光沢を放つ革製の、ダークブラウンのキーケース。
 成美は目を閉じていた。手にとって見るまでもなく氷室の私物に間違いない。
 成美の表情でそれと理解したのか、雪村がケースを手にとった。
「中を見せて頂いても?」
「ええ、もちろん。とはいえ、奇妙な鍵が一本きりはいっているだけですが……」
 奇妙な鍵?
 成美と雪村は思わず顔をみあわせている。
「返還されたマンションの鍵が入っていたわけではないんですか?」
「いえ、そっちは引っ越し業者から直に返されたんです。ちなみに業者も、このキーケースにはまるで見覚えがないと言っております。つまり――あれですよ。このキーケースは、引越し業者が作業を終えて撤収した後、わざわざ部屋に置かれたということだと思うんです」
「…………」
 眉をしかめた雪村が、ケースを開く。細い鎖に繋がれた小さな鍵が、隣に座る成美の目にも飛び込んでくる。
 それが――もしかすると自分の部屋の鍵かもしれないと思っていた成美は、拍子抜けしたような息を吐いていた。
 違う――成美の部屋の鍵ではないどころか、近年の住宅ではとうに使われなくなった、とても古いタイプの鍵のように見える。
 丸いヘッド部分は青くくすみ、そこに幾つもの点状の模様が刻まれている。円状の筒にはぎざぎざの小さな歯がついており、それも相当摩耗している。
「……確かに、奇妙な鍵ですね」
 呟いた雪村が鍵を手の中でひっくり返す。「この鍵自体に、あまり価値はないようにも見えますが」
「そう見えますが、実はヘッド部分に、相当細かな模様が彫り込まれているようなんです。拡大してみないとちょっとわかりづらいですが……どうやら魚の模様みたいで」
「魚?」
 成美も目をこらしたが、どう見ても小さな点にしか見えない。それにしても魚の模様って……どういう趣旨なんだろう、それは。
「なんにしても、何かこう……曰くつきのような気がしましてね。奇妙なところはもうひとつあるんです。これを見てもらえますか」
 山城が、雪村の手からキーケースを取り上げ、まるっこい指で中から畳み込んだ薄い紙片をひっぱりだす。
「実はこんなものが、ケースに最初から入っていたんです。何かの謎かけのようで、こういってはなんですが、少々気味が悪くて」
 雪村が眉をひそめながら、山城から受け取った紙片を開く。薄い紙にはびっしりと英文が印刷されている。綺麗に切り取られているが、本から切り取った1ページのようだ。
「若い者が調べてくれたんですが、ニーチェとかいう……ドイツの哲学者が書いた本の1ページなんだそうです。なんですかね。ひどく有名な名言が書いてあるんだそうですが、氷室さんの座右の銘でしょうか」
 座右の銘? そんなもの氷室さんにあっただろうか。
 目を細めた雪村が、紙面をひっくり返すが、印字された文字以外、特に変わった部分はない。
「わかりませんね。確かに気にはなりますが、それはまた後で確認するとして――氷室さんの戸籍に話を戻しましょう。まぁ、取るしかないでしょうね」
 雪村は紙片を山城に返すと、キーケースを元通りに閉じ直した。
「連絡のつく親族にたどりつくまで、どれだけ遡ってもいいから戸籍を取ってください。でないと処分のしようがない」
「やっぱりそうですよね。とはいえ氷室課長は謎が多いといいますか……なにかと有名な方ですから、私生活を覗き見するようで、ちょっと気がひけてしまいまして」
「仕事です。そんなの割り切ればいいんですよ」
 不意に衝動に突き上げられるように、成美は立ち上がっていた。
 話していた2人が、驚いたように成美を見上げる。
 よく判らないけど、すごく嫌な気持ちだった。
 なんだか嫌だ。――いや、なんだかというレベルではない。
 これ以上、氷室さんのプライベートに、無関係の人たちが踏み込むのは絶対に嫌。
「おい、なんだよ。座れ」
「そこまでする必要はないと思います!」
 雪村を遮るように言う成美を、山城がうろたえた目で見上げる。雪村が小さく息を吐いた。
「あのな、日高」
「しなくていいですよ。戸籍なんて必要ないです。こんなことしなくても、いつか必ず氷室課長の方から連絡がありますよ。だいたい忘れ物なんて……金庫の中にぶちこんどけばいいじゃないですか! こんなことでいちいち法規係に相談にこないでくださいよ!」
「え、いや、でも、えっ……?」
 成美と雪村を交互に見ながら山城が狼狽えている。横を向いた雪村が、今度ははっきりとため息を吐いた。
「……実はですね、山城さん」
 そこで言葉を切った雪村が、目だけで成美を見上げ、座れ、と合図する。
 ようやく自分の態度のまずさに気づいた成美は、ぎこちなく謝ってから席についた。
「実は、同席しているこのバ……日高が――道路局の担当だったこともあり、個人的に氷室課長と、少しばかり親しい間柄にありましてね」
 何を言い出すのかと思ったが成美は否定せずに頷いた。
「氷室課長の親族や昔の知り合いなども知っているとのことですので、――どうですかね。ちょっとその線をこのバ……日高にあたらせてみますので、少しご猶予、いただけますかね」
 このバ……に続く言葉は容易に想像がつく。二度繰り返されたことで、雪村が相当怒っていることも想像がつく。
「それは……、でも……、ど、どうなんでしょうね。その、疑っているわけではないんですが、本当に今でも、氷室課長と連絡が取れるお立場なんですか?」
 おどおど口調ながらも辛辣なことを言う山城は、さすがに訝しげに成美を見ている。
 成美はごくり、と唾を飲んだ。
 今、ここで否定せずに頷くということは、自分と氷室が特別な関係にある――とは誰も信じないだろうから、「氷室課長に遊ばれて捨てられた可哀想な女」というレッテルをあえて受け入れるということだ。
「……あの」
 一時膝の上で拳を握りしめてから、成美は再度立ち上がった。
「ちょっと、お待ちいただけますか。今、証拠みたいなものを、お持ちしますので」
 急いで自席に戻った成美は、机の下におさめていたバックの中から、キーケースを取り出した。青い北風のキーホルダー。一瞬胸に迫る感情があったものの、鍵からキーホルダーを外すと、成美は再び会議の席についた。
「氷室さんの部屋の鍵です。……そちらに返されたものと照合いただければ判ると思います」
 成美に返されたのは恐ろしく重苦しい沈黙だけだった。
 それはそうだ。そんな生々しいものを見せられたら、誰だって言葉をなくすだろう。
 何故か雪村の顔が見られないまま、成美は深く頭を下げた。
「ひ、氷室課長と連絡がとれたら、必ず山城さんにご連絡します。それまで少しだけ待ってください。お願いします。必ず連絡がつくと思いますので」






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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。