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「はじめまして。宮原といいます。ここにいる雪村さんとは、友達以上恋人未満。簡潔に言えば清い交際を」
名刺を出して、生真面目に挨拶した男の腕を、後ろで唖然と口を開けた雪村がいきなり引っ張った。
「っ、あのですね。これ以上ふざけると、僕も本気で怒りますよ!」
「え、違った? てっきり雪村君、僕に本気になってくれたと……」
市内中心部の居酒屋。
明凛はその光景を、しばし唖然と見上げていた。
雪村さん……そういう……人は見かけによらないというけれど……。
いや、今はそんな個人的な趣味に関わっている場合ではない。
「宮原さんは探偵事務所の方で、大明氏のことをお調べだとお聞きました」
宮原がオーダーを済ますのを待って、明凛は本題を切り出した。
正直なところ、信用できるかできないかと言えば、明らかにできないタイプだと思った。
目尻の垂れた、いかにもやに下がった風の顔立ちは、美男ともいえるしそうでないともいえる。
安っぽいカーキ色のコートにくたびれた靴。強いくせ毛はいかにも無精者といった感じだ。
今日まで探偵という職業の人間と会ったことはないが、こんなものかと言われればその通りだろうし、どこか――穿ち過ぎた見方をすればだが――いかにもすぎるような気がする。
それ以前に、指定された場所が、店員含め男しかいない居酒屋というシチュエーションにも戸惑いを覚えるが、今はそんな些細な違和感にこだわっている場合ではなかった。
「――同じ事務所の方を、大明氏の側近としてもぐりこませていらっしゃるとか。もちろん、聞いたことを口外するつもりはありません」
ぶっと宮原が、飲みかけの水を吹き出した。
「そんなことまで言っちゃったの? 雪村君」
「しょ、しょうがないでしょう。元上司に話してくれって頼まれたら」
「他言されたら、身の破滅だって言わなかったっけ。僕」
「だったらそもそも、僕にそんなヤバイ話、漏らさないでくださいよ」
「……いや、……まぁ、それは確かに、僕が悪いんだけど」
困惑したように宮原は首筋のあたりを指で掻いた。
そしてじろり、と黒目の大きい双眸で明凛を見る。警戒しているのか、少し威嚇するような眼差しである。
ふと明凛は眉を寄せた。男が垣間見せたその表情に、記憶の何かが喚起された気がしたのだ。私はこの人を知っている――? どこかで会った……? いや、まさか。
首を横に振るようにして宮原が肩をすくめた。
そのときには宮原は、もう最初の印象どおりの、どこか芯のないだらっとした表情に戻っている。
「まぁ、いいです。判りました。言っちゃったものは仕方がない。で? 僕にお聞きになりたいこととはなんですか」
明凛は頷いて居住まいを正した。
「細かい事情は、割愛いただいて結構です。沢村烈士という人が大明拓哉氏に会った夜、――先々週の金曜、場所は灰谷プラザホテルだと推測しているのですが、そこで何があったか、もしご存知なら教えていただきたいのです」
宮原は黙って眉だけ上げると、運ばれてきたジョッキに口をつけた。
「なるほど」
ちょっと困ったように、頭をかく。
「知っていても、教えられることと教えられないことがあります。こちらも、報酬をもらって仕事をしている立場なんで……」
「もちろん、教えられる範囲で構いません」
「だったら、ない、です」
大げさに眉を寄せながら言って、男は申し訳なさそうに肩をすくめた。
「大明自体は小物ですが、裏にあるのが案外大きな事件なんです。こっちも命がけで部下を潜入させてるんですよ。うかつなことは言えません」
「お願いします。誰にも口外しないと約束しますし、報酬なら言い値でお支払いします」
「金ね。……金じゃあ、僕みたいな自由人は動きませんよ」
ジョッキを飲み干し、宮原は少し冷めた口調で言った。
「雪村君に呼ばれたから来ましたが、話がそれだけならお断りです。こっちも守秘義務がある。――特に大道に関しては、依頼人が大物なんです。大げさじゃなく、僕も命がけなんですよ」
「……何をしたらいいですか」
両膝で拳を握りしめたまま、明凛は言った。
言いながら、自分でもこの逼迫した気持の理由が判らなかった。
「なんでもします。……お願いです。どうしても知りたいんです。どうしても」
「いや、だから」
「お願いします!」
あの夜に、沢村の身に起きた出来事の全てが判れば、釈然としなかった何かが附に落ちるような気がする――どうしてだか、する。
周囲の雑音だけが、しばし3人の沈黙を塞いだ。
「……ちょっと」
それまで黙っていた雪村が、宮原を肘でそっとついた。
その肘をすぐにひっこめた上にひどく強張った顔をしているから、相当緊張しているか――話すことすら嫌なのだろう。
「あのですね。何を今さらもったいぶってるんですか。僕には色々喋ってくれたじゃないですか。……聞いてもないのに、あることないこと」
「そりゃ、だって、君が興味ありそうだったから」
「――あのですね」」
うつむいた雪村が、何かよく判らない言葉をぼそぼそっと口にした直後だった。
「捕まって袋叩きにあったんですよ。大道が自前で雇った、チンピラみたいなボディガードに!」
いきなり向き直った宮原がそうまくしたてたから、明凛は驚いて顔を上げた。
「沢村さんが、ですか」
「今、その彼の話だったのでは?」
逆に聞かれ、面食らって明凛は頷く。
「大明もね。以前はそんなやくざな連中を引き連れてはなかったんですが、年末に大怪我をしてから、ちょっと事情が変わったんでしょうね。――ここからは、ちょっと、公にはできない部分ですけど、もちろん大明は、沢村って奴をただで帰す気はなかったんです」
「どういう、意味でしょう」
「あの男が昔からよくやる手法ですが、抵抗する気力がなくなるまで傷めつけて、自分の配下にするんですよ。もちろんその方法は、暴力だけじゃありません」
「……薬か何かを使うということですか」
「さすがは雪村君の元上司。頭の回転が早いです」
宮原は上機嫌な笑顔を作ると、新しいジョッキをオーダーした。
「まぁ、ドラッグと札びら、そんなところじゃないでしょうか」
「待ってください。沢村さんもその夜、そんな目にあったというんですか」
明凛は立ち上がっていた。
だとしたら、週明けからの彼の異変も理由がつく。
「いやいやいや、それは少し飲み込みが早すぎる。まぁ、座りなさい。課長さん。あんたはあの夜、シラフの沢村君と会ったんでしょうが」
宮原は呑気に片手を振った。
「僕としては、愛する雪村君がその危険な役目を担わなくてよかったと、胸をなでおろすばかりです。――沢村君は無事でしたよ。確かに怪我はしましたが、重篤なものじゃないでしょう? 理由があります。これは非常に運のいい偶然ですが、チンピラ連中の中に、沢村君の元同級生がいたんです」
「…………」
元、同級生。
「私立、鯖浦高校の……」
「ほう、よくご存知なんですね」
「………………」
「最もその男は、沢村君の一学年年上で、沢村君と同じ頃に高校を辞めていますがね」
明凛は無意識に、自分の口元を押さえていた。それは――それは、多分。
「大丈夫ですか。顔色が真っ白だ」
「いいえ、大丈夫です」
こみあげた吐き気を飲み込み、明凛は宮原に向き直った。
「その人が、沢村さんを逃してくれたんですね」
「そうです。まぁ、それが友情からか、互いの弱みを握り合っているからかは知りませんがね」
宮原は肩をすくめて両腕を広げた。
「会いますか」
「……誰にですか」
「沢村君の元同級生に。いますぐ、と言われれば無理ですが、スネに傷持つチンピラ一人を呼び出す程度なら、わけはありませんよ」
「…………」
静かにこみ上げた吐き気と憎悪を、明凛は無表情でやりすごした。
まだ、その程度には、自分にも当時の傷は残っている。
そういう意味では、直斗の言うとおり、自分はこの12年、あの夜起きた出来事から、目を逸らし続けて生きてきたのだ――
「結構です。なにも彼の過去を、知りたいわけじゃありませんから」
「では、仕方ありませんね」
少しほっとしたように、宮原は苦笑した。
「今の時点で、僕がお話できる情報は以上です。それ以降、沢村という男がどうなっったかは知りません。そしてこれは、サービスで忠告しますが、もう、大明には二度と関わり合いになってはいけません。あなたが、今のご身分を守りたかったら」
「どういう、意味でしょう」
「言えません」
宮原はからかうように微笑んだ。
「そういう意味では、僕は悪魔かもしれませんね。これは忠告ではなく、警告です。大明拓哉に、二度と連絡をとってはいけません。あっても絶対に無視してください。――いや、聞きそうもない顔をしていますね。では、もうひとつサービスです。沢村という男は、もう灰谷市にはいませんよ」
「彼は……どこに?」
「どこって、そんな」
宮原は苦笑して、肩をすくめた。
「それは、沢村君にしか、わからないんじゃないですか」
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元気か。
木曜には、灰谷市に戻れそうだ。
一度明凛のお母さんにも挨拶したいし、七時頃でよければ、家で待っててもらえないか。
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メールが入っているのに気づいたのは、帰宅してからだった。
明凛はコートを脱いで、リビングのソファに腰を預けた。
木曜日。
運のいいことに、母親が帰ってくるのもその日の午後だ。
――お母さんに、メールしないといけない。
あの人のことだから、驚きもしなければ、喜びもしないだろうけど。それでも、少しは安心してくれるだろうか。
「……………」
なのに指は少しも動かず、明凛は携帯を閉じていた。
――私……なにをしているの。
なにを今になって、迷っているの。
沢村は消え、時を同じくして紫凛も消えた。どんな事情があろうと、それが全ての答えなのに。
そうして私は、心の何処かで彼の過去から目を背けて続けているのに。
しばらく唇を震わせていた明凛は、やがて顔をあげ、深く息を吸い込んだ。
――大丈夫……。
私はまだ、大丈夫。
またいつものように、気持ちを切り替えることが出来る。
今度は少し、時間がかかるかもしれないけど。
明凛は携帯を取り上げ、直斗に了解の返信をした。
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「課長、外線で電話が入っています」
末席の三ツ浦がそう言って立ち上がったのが、昼休憩の終わる五分前だった。
「それは、急ぎの電話なのか? 昼休憩だぞ」
声をかえしたのは、いつものことながら過剰に気をつかう阿古屋である。
「課長はただでさえ忙しいんだ。今だって、仕事を片付けておられるのに――誰からだ」
「いいです。私用を片付けていただけですから。こちらに回して、三ツ浦さん」
明凛はそう言いながら、婚姻届の上に他の書類を被せた。
まさか仕事ではなく、婚姻届を書いていましたと言えば、阿古屋はどんな反応を見せるだろう。
昼休憩を利用して、隣の区役所に用紙をとりにいったのだが、あわせて戸籍請求もしたせいか、市民課の視線は一気に明凛に集中した。
役所の噂は、有名人ほど一気に広まる。これで結婚しないと、本当にいい笑いものだ。
「なんだと? 相手を聞いてない?」
「いや、だって。聞いても名乗ってくれないんですよぉ」
「馬鹿モンッ。そういう時は、おつなぎできませんと断らんか!」
阿古屋と三ツ浦のそんな問答が聞こえた時には、すでに明凛は受話器を上げていた。
一瞬嫌な予感がしたが、仕方がない。
「はい。課長の柏原です」
「柏原明凛さんで間違いないですか」
返ってきたのは、いやに事務的な男の声だ。
明凛は眉をひそめて、受話器を耳に当てなおした。
「はい、柏原明凛は私ですが。何のご用でしょう」
「失礼しました。お仕事中申し訳ありません。私、灰谷県警のイソヤ、と申します」
警察――
胸に黒い幕がいきなり降りてきたような気がした。
「実は、藤崎紫凛さんのことで、お電話を差し上げています。妹さん、で間違いないですね」
「すみません。紫凛に何があったんですか」
声を荒げ、明凛は立ち上がっていた。
管理課全員の視線が、一気に明凛に集中する。
「落ち着いて――命に、別状は、ありません」
「…………」
「落ち着いて――いいですね。あまり、声をお出しにならずに聞いてください。何分、まだ、未発表の事件ですので」
――事件……。
明凛は唇を押さえて、席についた。
動揺のあまり、息さえできない。
つまり、命に別状のない程度の、怪我をしたということだ。
しかもそれは事故ではない。なんらかの事件に巻き込まれたのだ。
咄嗟に大道の名前が浮かぶ。宮原という探偵に大道のよからぬ噂を聞いたのはつい2日前のことである。まさか――でも。
「詳細はおいでになられた時にお話いたしますが、妹さんは現在、中区の有吉総合病院に収容されています。ご親族の方にご連絡したいと申し上げたら、お姉さま以外とは会いたくないと」
「すぐに行きます」
遮るように言って受話器を置くと、阿古屋に年休を取る旨だけ告げて、明凛は執務室を飛び出した。
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