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「申し訳ございませんが、すぐに担当の者が参りまして、詳しい事情を説明させていただきますので」
 何を聞いても、扉の前に立つ頑健そうな女性はそう繰り返すばかりだった。
 地味なスーツ姿だが、おそらくは私服刑事だろう。明凛より若そうなのに、場慣れした落ち着きが感じられる。
「怪我の具合や、今後のことなどは担当の先生にお聞きください。じき、おいでになられると思います。とりあえず、中に」
 ではなんのために、貴女は病室の前に立っているのか。
 そう訊きたかったが、かろうじて喉元で押し留めた。今は、どう想像しても悪い答えしか思いつかない。
 刑事が病室の前で待機している――それは、紫凛がただの犠牲者ではないことを意味しているような気がしてならないからだ。
 ――どういうことなの……。
 じゃあ、沢村さんは、今、どこで何をしているの。
 それでも覚悟を決めて病室に入った明凛は、その瞬間、言葉もないまま立ちすくんでいた。
「紫凛……」
 小さく漏れた声が、かすれて喉に引っかかる。
 顔半分を覆う包帯。残る半分は青く腫れて見る影もない。
 だらりと垂れた腕にも包帯が巻かれている。
 その状態で、紫凛は意識のない人のように眠っていた。
 まるで。
 まるで――12年前のあの夜のように。
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 ――なにしに来たの?
 ――自分じゃなくてよかったって、本当は安心してるんでしょ? 偽善者ぶって心配しても、本音じゃそう思ってるんでしょ? 
 私があいつらになんて言われたか知ってる?
 聞きたくない? ううん。聞いてよ。聞く義務あるでしょ。だってあたし、あんたの身代わりになったんだから。
 いい、こう言われたの。私が必死に自分の名前を言ったらこう言われたの。お前なんか――
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「失礼します」
 背後の声とノックの音で、ぼんやりしていた明凛ははっと我に返った。
 振り返るより先に眠る妹の顔を窺い見たが、瞼は閉じたまま、握っている手はぴくりとも動かない。
「……はい」
 ためらいながら振り返ると、扉の向こうから、病室の前にいた私服刑事が顔を覗かせ、遠慮がちに会釈している。
「よろしいですか。今、担当の者が到着いたしましたので」
「どうぞ」
 随分ゆっくりなんですね。
 そんな厭味をかろうじて飲み込むと、明凛は妹の手を布団の下におさめて立ち上がった。
 先にやってきた担当医から、既に、簡単な説明だけは受けている。
 上半身数カ所の打撲と、顔と腕の切り傷。一番ひどいのが右頬から顎にかけての長さ15センチ程度の切り傷で、それは場合によっては痕になるかもしれないとのことだった。
 なにかしら喧嘩に巻き込まれたと聞いてはいるが、詳しい事情は警察から聞いてほしいと。――医者もそこだけは言葉を濁した。
 仕事中にいきなり呼び出しておきながら、当の警察は一時間近くも遅れてくる。
 さすがに憮然としながら立ち上がった明凛は、しかし、そのまま表情を止めていた。
「申し訳ない。遅れました。すぐ後を追うつもりが、なかなか現場から離れられなかったので」 
 扉を後ろ手で閉めながら、渋い色合いのスーツを着こなした男が、丁寧に頭を下げている。
 その生真面目な顔をした男が――つい2日前に会ったふざけた探偵だと気づくまで、明凛は何度も瞬きを繰り返さなければならなかった。
「柏原課長さん」
 警察手帳を慣れた手つきで示しながら、少しだけ男は笑った。
「予想はしていましたが、またお会いしましたね」
 頭ではそれしかないと判っていても、咄嗟に言葉が出て来なかった。
 なでつけた髪と眼鏡が、男をまるで別人にみせている。
 悪夢のようだが現実だ。では、先日会ったこの男は――宮原と名乗った男は、探偵などではなく警察だったとでもいうのだろうか。
 記憶の底で、また何かが揺らめいた。
 そうだ、確かに私は、過去、この男に会っている。どこで?――今日と、殆んど同じシチュエーションで。
「烈士は?」
 不意に、かすれた声が、背後から響いた。
「刑事さん、烈士はいた?」
 ――紫凛……!
 振り返ると、紫凛は目だけを開けたまま、天井を見上げていた。
「いませんでしたよ」
 明凛の背後で、宮原の答える声がする。
「邸内は隅から隅まで捜索しましたが、逃げたのでなければ、最初からいなかったんでしょう。いずれにしても、お探しの男性がいた形跡は、何も残っていませんでした」
「……そう」
 やはり天井を見上げたまま、紫凛が小さく嘆息した。
「……なぁんだ。じゃあ、やっぱり私が、読み間違えたのね」
 独り言のように呟きながら、その目は一度も明凛を見ない。
 枕頭まで歩み寄ってきた宮原が、苦く笑って紫凛を見下ろした。
「よかったですね、……といっていいのかな」
「ま、いいんじゃない。これで少しは、ほっとしたから」
 息をつめたまま、二人の意味不明の会話を聞いていた明凛は、そこでようやく隣の宮原を振り返った。
「どういうことなんですか」
 微笑したまま、宮原は答えない。紫凛もまた、沈黙している。
 その紫凛に、明凛は混乱しながら視線を戻した。
「どういうことなの。一体、沢村さんは……あの人は、紫凛と一緒にいたんじゃないの?」
 ぼんやりと天井を見上げたまま、やはり紫凛は答えない。
「つい数時間前のことですが、大明拓哉を逮捕しましてね」
 いきなり、宮原が口を開いた。
「容疑は、現時点では覚せい剤取締法違反です。これ以上はまだお話できませんが――僕らの腹積もりとしては、十数年は奴をぶちこむつもりですよ」
「そんなことはどうでもいいです」
 明凛は感情を抑えて遮った。
「紫凛はどうしてこんな怪我をしたんですか。それをまず、きちんと説明してください」
「その前に、まず一言お断りしておきたい」
 官僚を思わせる険しい目元に折り目正しい口調。これが本当の男の正体なのか、それとも先夜が本物なのか。
「実はこれは、まだ公表されていない事件でしてね。今夜県警部長が会見を開くまで、一切、口外してはならないことになっている。なにしろ大明一族はこの地方じゃ有名な権力者だ。色々とね。大人の事情があるんですよ」
「もちろん誰にもいう気はありません。それで?」
 急かす明凛を、宮原は初めて気の毒そうな目で見た。
「妹さんは単なる被害者じゃない。それはもう、お察しですよね」
「……どういう意味でしょう」
 再び明凛は、自分の胸が闇に閉ざされるのを感じた。
「紫凛も……なにかしらの、犯罪に関わっている、ということですか」
「そうじゃない」
 微かに苦笑し、宮原はゆっくりと首を横に振った。
「先々夜、僕は悪魔だと言ったでしょう」
「…………」
「あなたとお酒を酌み交わしながら、その実僕は、あと一両日もすれば大明の自宅に警察が踏み込むことを知っていたんです。その室内に、あなたの妹さんがいることも、ちゃんと知っていたんです」
 宮原の言いたいことが判らず、明凛はただ眉を寄せる。
「その際、あなたの妹さんになんらかの危害が加えられる可能性があることも、承知していたんです。大事の前に雪村さんの呼び出しに応じたのは、あなたに余計な真似をしてほしくなかったからです」
「すみません、もっと簡潔に説明していただけますか」
 たまりかね、明凛は遮っていた。
 もう、目の前の男が刑事だろうが探偵だろうがどうでもいい。妹は今、どういう立場に置かれているのか。
「妹さんは、警察の協力者でした」
「……………」
「あることを条件に、紫凛さんは大明拓哉に意図的に接近してくれたんです。大道は小心ゆえにひどく用心深くてね。これまでも機会はあったが、なかなか現場を押さえることができなかった」
 紫凛が――
 警察に協力して、そんな危険な真似をした。
 では先日、探偵社の部下を大明邸に潜入させていたというのは……。
「違法薬物摂取の現行犯逮捕だけでは、甘すぎる。僕らはどうしても、もっと大きなヤマであの悪党をあげたかった。妹さんは僕らが内偵のために大明邸に送り込んだ、警察の協力者だったんです」
 次の瞬間、明凛は渾身の力で宮原の頬を殴っていた。
 わずかによろめいた宮原が、苦笑して顔を歪める。
「……グーですか」
「男を殴るのは、昔からグーと決めています」
 それだけ言い捨てると、明凛は病室の扉を開けて、退室を手で促した。
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「ばっかじゃない」
 扉を閉めていると、背後から呟くような紫凛の声がした。
「腐っても警察殴ってどうすんの。あの人じゃなかったら、お姉ちゃんただじゃすまなかったかもしれないよ」
「なんでそんな馬鹿な真似をしたの」
 明凛は、感情を抑えて振り返った。
 そしてようやく、宮原を追い出すタイミングが早すぎたことに気がついた。まだ肝心なことを何も聞いていない。が、それは妹の前では決して聞きたくない気もする。
「もしかして最初から、それで大明さんに近づいたの?」
「最初?」
 嗤うように呟いた紫凛の目は、依然ぼんやりと天井を見上げている。
「最初っていつのこと? ああ、お姉ちゃん知ってたもんね。私が拓哉とつきあってたこと」
「…………」
「違うよ。……去年の夏頃かな……ふらっと寄ったクラブで意気投合して、セフレみたいな感じになったけど、その時は、ただの偶然。宮原さんに再会するまで、拓哉が警察にマークされてるなんて、夢にも思ってなかったから」
 明凛は眉をひそめながら、紫凛の枕元に歩み寄った。
「……知ってたの。宮原さんのこと」
 くすり、と紫凛は笑った。
「知ってるっていうか、お姉ちゃん、本当にまだ思い出せない?」
 思い出す……。
「あの人、交番勤務のおまわりさんだよ。私を、最初に見つけてくれた人」
 明凛は息を引いていた。
「当時はまだ新人だったし、雰囲気も全然変わってるけど、お姉ちゃんとも一度会ってるはず……でしょ?」
「……………」
「覚えてない? 私が入院してた時にずっと病室の外に立ってた人。私がお姉ちゃんに殴りかかった時、慌てて止めに入ってきてくれたでしょ。――覚えてない?」
「…………」
 覚えている……そんなことがあったことだけは。
 いや、正確にはつい先ほど思い出したのだ。あまりに今夜が、12年前と酷似していたから。
 顔も名前も覚えていない。ただ自分と紫凛の間に入ってきて、必死の表情で泣き喚く紫凛を押しとどめていた若い制服警官がいたことは――記憶の片隅に残っている。
「その宮原さんが、いきなり私の前に現れたのが年末あたり。あの人、警告にきてくれたの。大明氏に関わっていると大変なことになるから今すぐ別れて二度と関わりあいにならないようにって。――勝手な推測だけど、多分私も、警察にマークされてたんだろうね。拓哉に女はいくらでもいたけど、長く続いてるのは私だけって言ってたから。……まぁ、本気だろうが嘘だろうが、どっちでもいいんだけど」
「…………」
「私が拓哉に、お姉ちゃんを襲ってって頼んだことも、もちろん宮原さんは知ってたんだと思う。年末に拓哉が大怪我して、その実行犯が烈士だってことも、宮原さん全部調べてたみたいだから」
「…………」
 沢村の名前が再び出てきたことで、明凛は自分の顔が強張るのを感じた。
 天井を見上げたまま、自虐的に紫凛は笑った。
「どうせ、お姉ちゃんのことだから、なにもかも承知の上で、拓哉とデートしたんでしょう? あいつの悪い噂なんて、ちょっと調べればいくらでも出てくるもの。しかも拓哉の父親が、弁護士使ってあいつの女関係全部調べあげてたからね。お姉ちゃんが私の存在に気づいたのって、その辺りだと読んでるんだけど、違う?」
 違う? といいつつ紫凛は一度も明凛を見ず、明凛もまた肯定も否定もしなかった。
 自分に交際を申し込んでいるという大明拓哉が、あろうことか双子の妹と愛人関係にある――その衝撃的な事実を内々で教えてくれたのは、紫凛の読み通り、弁護士の松下である。
 松下は以前から明凛を実の孫のように可愛がってくれていたこともあり、苦渋の上で依頼人の恥を打ち明けてくれたのだ。そういう事情があるようだからこの話は断りなさい、と。
 その日、明凛は即断で大明氏と会うことを了承した。
 なにかしらそこに、紫凛の意思を感じ取ったからだ。これは妹が勧めた縁談だ――そう思ったから。
「どうせなら、抵抗せずにやられちゃえばよかったのに」
 紫凛が、嗤うように呟いた。
「そしたら烈士も、あんな馬鹿な真似しなかったのに。……烈士まで、巻き込まれることはなかったのに」
「沢村さんは、なんであんな真似をしたの」
 それは明凛の、最大の疑問でもある。
 答えず、紫凛はうっすらと笑った。
「宮原さんの警告にしたがって、私、拓哉とは距離を開けることにしたの。私にだって、その程度の分別はあるのよ。公務員の妻が犯罪に加担したら、直斗だってただじゃすまないでしょ。……宮原さんは元々は直斗の父親の部下で、そういう意味もあって私に警告してくれたんだと思ったから」
「なのに、どうして?」
 明凛は紫凛ににじり寄っていた。
「どうして、その大明さんに、紫凛はまた近づいたの」
「烈士を、助けたかったからよ」
 淡々と紫凛は答えた。
「自分を半殺しの目に合わせた相手が烈士だって判った時点で、拓哉が烈士をそのままにしておくはずがないからよ。しかもあの馬鹿、私の携帯から写メも勝手に抜き取ってた。もうお姉ちゃんも見せられたんでしょ? あの写真使って、もしかしたら直斗まで脅迫する気なのかもしれない。もう拓哉には、死んでもらうか捕まってもらうしかないなって、私も腹を括ったわけ」
「……自分から、警察に協力するって言ったわけ?」
 紫凛が意図的に流出させたわけではなかった――安堵したのも束の間、すぐに明凛は眉を険しくさせた。
「それで大明さんの屋敷に行ったわけ? なんて馬鹿な――なんて馬鹿な真似をしたの!」
 宮原は、それを紫凛には告げなかったのだろうか。
 当時の事件に関わった者の1人なら、まさか知らなかったはずはない。
 大道の傍には、12年前の事件の関係者がいたかもしれないのだ。
「そうね。馬鹿ね。それでこんな大怪我をしたんだもの」
 紫凛は淡々といって、自分の頬のあたりをぎこちなく指でなぞった。
「痕になる?」
「大丈夫よ」
 医者に宣告されたことは、今はまだ言いたくない。
「そう……」
 何故か紫凛は落胆したように息を吐き、物憂げに目を閉じた。
「……ねぇ、少し寝てもいい? なんだかひどく疲れちゃった」
 明凛は頷き、ずれた布団を妹の肩にかけなおした。
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「落ち着かれましたか」
 電話と買い物を済ませてから病室に戻ろうとすると、扉の前には宮原が立っていた。
「最初から落ち着いています」
 冷淡に明凛は答え、目をすがめて男を見た。
「理由をお聞かせ願えますか。どうして被害者である妹を、加害者のいる屋敷に送り込んだりしたんです。あなた、それでも警察ですか。それ以前に男ですか」
「むろん止めました。しかし紫凛さんは聞かなかった」
 宮原は、やや疲れたように肩をすくめた。
 大捕り物を無事に終えた直後のせいか、その顔にも声にも疲労が濃く滲んでいる。
「このままでは、彼女の立場はよくて重要参考人か不作為の共犯者です。――こう言っても信じてもらえないかもしれませんが、僕は恩人である藤崎警部の親族を、そんな目にだけはあわせたくなかった」
 明凛は視線を下げ、直斗の父が何故警察を免職になり、そして失意の内に病死したのかを考えていた。
 信じても、いいのかもしれない。この宮原という男を。
「それで、紫凛を……」
 あえて協力者という立場にしてくれたのか。もしかして。
「そうです。勝手に証拠を探そうと大明邸に入った紫凛さんを、僕が無理矢理そういう立場に仕立てました。そうでなければもう、紫凛さんを庇いきれない状況になっていましたからね」
 明凛は黙って壁に背を預けた。
「……紫凛はどうして、そんな真似を?」
「……本人からお聞きになりませんでしたか? あなたと同じで、沢村という男を探していたからですよ」
「…………」
 うつむき、明凛は唾をのみこんだ。
 そのことは、あえて考えないようにしていた。
 沢村は、私だけではない。あの直後、紫凛の前からも消えていたのだ。
「沢村さんは、灰谷市にいないとあなたは言いました」
「そう言わなければ、あなたまでもが大明邸に乗り込むと言いかねない勢いでしたので。もう打ち明けますが、沢村烈士という男は、大明氏と会った直後に行方をくらましているんです。彼のしでかしたことを鑑みると、大明邸に監禁されている可能性は十分にあった。――紫凛さんは、彼を助けたいんだと、そればかりを言っていましたね」
「…………」
 明凛は目を閉じ、額に手をあてていた。
「……紫凛も、無論知っていたんですね。大明の傍に、……昔、あの子を……」
「もちろんです。僕が警告した理由のひとつも、それがあるからです。でも紫凛さんは、逆にあっさりとこう言いましたよ。もう私、過去から逃げる気はないんですって」
「…………」
 負けた――
 明凛は静かな気持で理解した。
 ただ目をつむり、逃げていた自分と違い、紫凛は危険をおかしてまで過去と対峙していたのだ――沢村を助けるために。
「……最後にひとつだけ、教えてください」
 額をおさえたまま、明凛は言った。
「沢村さんは……本当に12年前、紫凛に乱暴した連中の一人だったんでしょうか」
 数秒の間、迷うような沈黙があった。
「当時の警察の記録には、そうあります」
 明凛は目を閉じ、うなだれた。
 それも、また、目を逸らさず認めるしかない事実なのだ。
「ただ、当時の少年たちの供述は曖昧で、色んな部分が灰色なままになっていることだけは確かです。……正直言えば僕は、今回紫凛さんが身の危険を犯してまで沢村を助けようとした理由は、愛情だけではないと思っているんです」
「どういう、意味でしょう」
「真実は、本人たちだけが知っている。そういうことではないでしょうか」
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。