|
6
/
/
/
「はい――」
覇気のない声と共に扉が開く。
出てきた沢村は、まさかそこに立っているのが明凛だとは思わなかったのか、一瞬明らかに動揺していた。
が、次の瞬間、呆れたような息を漏らして、ぼそりと呟く。
「……来るかよ、普通」
薄い長袖シャツにグレーのスウェット。
顎には無精髭が生え、髪も寝乱れている。
今日一日、家にいたのだと明凛は思った。室内には煙草の匂いが充満している。
金曜日。仕事は今日も休みだった。
今週沢村が出勤したのは、一日と数時間。
さすがに堪りかねたのか、退庁間際「一度私が、本人と話してみましょうか」と、阿古屋に言われたばかりである。
黙ったまま立っていると、壁に手をついた沢村が、屈みこむようにして明凛を見た。
「あんたもいい加減、しつこいね。もう聞いたでしょ。俺があんたの妹に何やらかしたか」
「…………」
視線を下げると、サンダルを履いた沢村の足越しに女物のヒールが見えた。見覚えは、ない。でも紫凛の私物など、そもそも関心を持って見たこともない。
「……紫凛?」
「いや」
沢村は軽く肩をすくめた。
「内緒にしといてもらえます? 特に、紫凛の元ダンナには」
なんと答えていいのか判らなかった。
ヒールのデザインからして、先日のオレンジブラの子とは違うようだ。
押さえていた失望が、徐々に胸をひたしていく。
それでも、懸命に自制しながら明凛は言った。
「今日は、ちゃんと沢村さんの口から話が聞きたいと思って」
「何を」
「……色んなことを。紫凛のこともそうだけど」
遮るように沢村は鼻で笑った。
「そういうの、藤崎さんにもう全部話してるんだけど、俺」
それが、よく判らない。
どうして彼は、そんな迂遠な真似をしたのだろう。
「直斗のことは、いつから知ってたの」
「最初から。最初に紫凛から、聞いてたから」
「面識は?」
「は、それ、一体なんの尋問っすか」
面倒そうに答えた沢村は、ふと背後を振り返った。そして再び視線を元に戻す。
「じゃあ、部屋にあがります? 今丁度、女寝ちゃったところなんで」
――は……?
「待って。できれば、場所を変えて」
さすがに明凛は愕然とした。
なのに沢村は、さっさと踵を返してリビングの方に消えてしまう。
「……………」
なにを、考えてるの。
さすがに怒りで指が震えた。それでも靴を揃えて脱ぎ、努めて冷静に、明凛はリビングに足を踏み入れた。
室内はひどい有様だった。キッチンにもテーブルにも、煙草とアルコール飲料の缶が散乱しており、すえた異臭を放っている。
寝室に続く扉はしっかりと閉めきってある。この奥で、彼と過ごした誰かが眠りに落ちているのだろうか。
「――で?」
寝室前の扉に寄りかかりながら、沢村は物憂げに腕を組んだ。
「何をどう話せばいいっすか。俺がサバ高――県内一偏差値の低い鯖浦高校にいて、あんたを付け狙ってた重信のパシリだったことから話せば納得してもらえますか」
「……履歴に、その高校の名前はなかったけど」
リビングの扉の前に立ったまま、感情を堪えて明凛は言った。
私立鯖浦高校のことは、はっきり記憶に残っている。
重信という男に目をつけられた原因でもあるのだが、吹奏楽部同士の交流があり、何度か高校にまで足を運んだことがあったからだ。
「そりゃ、卒業してないから」
明凛の疑問に、沢村は軽く肩をすくめた。
「一年で中退したんですよ。さすがに居づらくなったから。警察に何度も呼び出されて、余罪やなんやら調べられて。――多分、あの事件に関わった連中は、俺含めて全員辞めてんじゃねぇかな」
「なんで、そんな真似をしたの」
さすがにその質問をする時、語尾が震えた。
「沢村さんがそんなことをする人だなんて、私には信じられない。……何かの間違いじゃ、ないの」
「あんた、ねぇ」
一瞬唖然と眉をあげた沢村は、くっくっと、喉を鳴らすようにして笑い出した。
「一体どこまで騙されやすいんですか。そんなに俺に惚れてんですか。ちょっとのぼせ上がりすぎですよ、それ」
「…………」
「そんなことも何も、当時に俺らにすりゃ、そんなの、日常茶飯事ですよ。逃げた紫凛が警察に保護されたから、たまたま表沙汰になったってだけで。それ以外にも、しょっちゅう似たようなことしてましたよ」
明凛は無言で唾を飲み込んだ。
たとえ直斗の言ったことが事実でも。
どこかで、何か、別の理由があるものだと信じていた。
それが今、頼りなく崩れていく。
「そりゃね。紫凛のことは可哀想だと思いましたよ。随分後で知ったことだけど、重さんが恨んでた女とは別人で、いってみりゃ、あんたの身代わりになったようなもんだから」
「…………」
「そういう意味じゃ、ちょっと気にはなってたんですよね。だから――三年くらい前かな。バーでいきなり声かけられた時は、マジ驚きましたよ。怖くねぇのって聞いたんですけど紫凛も紫凛でふっきれてて。てか、女の貫禄みたいなものが別人で。逆にこっちが翻弄されっぱなしですよ」
「…………」
「旦那が単身赴任だっつーから、その夜の内に、あいつの部屋でセックスしました。それからずっと付き合ってるけど、俺がいくら熱くなっても、あいつ、なかなか旦那と離婚しないんですよね。なんでだと思います?」
それは、――直斗のことが、好きだから。
少なくとも、明凛はそう信じている。でもそれを、今言葉にはできなかった。
「藤崎さん、もともとあんたの恋人だったんでしょ? 前も聞きましたけど、あんたが一度過ちを犯した相手って、藤崎さんのことなんでしょ?」
「…………」
「あんたと藤崎さんが元さやに収まるのが、紫凛はどうしても嫌だったみたいですよ。二年前――あんたが灰谷市に戻った頃ですけど、あんたと藤崎さんを会わせないために、紫凛が何を仕組んだのか、知ってます?」
「その話は、もういいわ」
明凛は力なく遮った。今は、直斗の話はしたくない。そんな話をするために来たのではない。
「もう、知ってるし……最初からわかってたから」
「写真撮ったの、俺なんですけど」
さすがに衝撃で、一瞬目の前が暗くなるのが判った。
「藤崎さん、写真見せられて、もう二度とあんたに会わないって紫凛に約束したそうです。あんたは強くて、脅しに屈しない人なのかもしれないけど、藤崎さんは違いますよ。灰谷市に飛ばされたばかりのあんたの立場を慮って、結局自分が悪者になって紫凛の言いなりになったんです」
「…………」
――直斗が……。
「そこまでは、さすがのあんたも知らなかったでしょ」
馬鹿にしたように沢村は鼻で笑った。
「紫凛は、あんたのせいで自分の人生が目茶苦茶になったって思い込んでるから、――言い方悪いですけど、病的に思い込んでるから。そのあたり、何言っても無駄なんですよね。もう藤崎さんとは何年も別居してるしセックスもしてねぇのに、あんたに返したくない一心で、離婚しないって言ってるんです。もう、おかしいっつーか、不幸でしょ。そんなの。誰にとっても」
「……………」
「俺、どうしても紫凛と一緒になりたかったから、じゃあどうすりゃいいんだって考えましたよ。どうすりゃあいつが、藤崎さんと別れる気になるのかって、ない知恵振り絞って考えました。で、思いついたんです」
聞きたくない。
予想していたこと以上の結末を予感し、明凛は背後の扉に背を預けた。
もう、立っているのが辛い。
「俺があんた、誘惑すればいいんだって」
「…………」
「その後でゴミみたいに捨てれば、紫凛の溜飲も下がるだろうって」
「…………」
「しょせん紫凛は、あんたが持ってるものが欲しくて妬ましくてたまらないだけなんですよ。俺が嘘でもあんたに夢中になってるふりすれば、紫凛も少しは慌てるかな、とは思いました。予想以上の効果でしたけど」
では紫凛はあの夜、覚悟を決めて私と直斗の前に姿を現したのだ――
直斗ではなく、ここにいる沢村を選ぶことに決めて。
その直前、紫凛が電話をしてきて、執拗に直斗のところに行けと言ったのを、明凛はようやく思い出していた。
実際直斗は、紫凛が言う場所にはいなかった。
あれは、これから起こることを私にだけは見せたくないと思った紫凛の、最後の思いやりだったのか。それとも他の意図があったのか。
いや、もう何も考えたくない。
「紫凛と、結婚する気なの」
「そりゃ、するでしょ。俺も色々身辺を綺麗にしなきゃいけないですけど」
沢村がちらっと背後の寝室に目を向けたので、明凛は視線をそらしていた。
「仕事は」
「辞めますよ。明日にも人事に、退職届け出すつもりです。今までお世話になりました」
「仕事をやめて、どうするの」
「東京に仕事のつてがあるんで――てか、なんでそんなの、いちいちあんたに言わなきゃいけねぇのかな」
苛立ちをあらわにした息を吐き、沢村は壁から身を起こして、明凛の方に歩み寄ってきた。
「もう、納得したでしょ。だったらさっさと、ここから出てってもらえませんか」
明凛は呼吸だけをしながら沢村を見上げた。
「最後に、教えて」
「なんですか」
「大明さんを、殴ったのは、何故」
「…………」
はじめて沢村の目色に、微かな動揺が走った。
何をどう整理しても、そこだけが、どうしても明凛の腑に落ちない。
「大明さんが紫凛とつながってたことくらい、最初から私、分かってた。だからあの人の誘いを受けたの。――それが、紫凛の望みだと思ったから」
「……………」
「なのに、どうして? あれだけは芝居でもふりでもない。なんであんなになるまで大明さんを殴ったの」
「あのさぁ」
いきなり沢村が大きな声を出した。
明凛は驚いて、足をすくませる。
「そんなの、いちいち理由なんてあるかよ。俺の性格、――ああ、そうだ。あいつが紫凛と寝たって聞いたから、一度ぶちのめしたいって思ってたのかな。なんにしても、あんたとは全く関係ねぇよ」
「…………」
「いい加減、空気読めよ。まだわかんねぇのか。俺にとって、あんたの魅力は、顔が紫凛に似てるってことだけなんだよ」
「…………」
「あんたは、紫凛の代用品だってことだよ。あんたの価値なんて、それしか、ねぇよ」
しばし呆然と立ちすくんだ明凛は、ゆっくりとその言葉の意味が、自分の胸深くに突き刺さるのを感じた。
ああ、そう………。
そう、そうなのね。
私はなんて、馬鹿だったんだろう。
ここまで傷つかなければ、判らないなんて。
目の前の男に、私は、弄ばれて捨てられたのだ。
もしかすると自分のプライドが、どうしてもそれを受け入れられなかったのかもしれない。
ふっと視野の端が灰色に曇る。
よろめいて、明凛は壁に手をついた。
「おい、どうしたんだよ」
「……大丈夫」
足に力が入らない。久しぶりに感じる貧血の兆候。まずい――と思った時には、視界はたちまち闇に包まれ、明凛は意識を失っていた。
/
/
/
/
|