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固まる明凛の手から携帯を取り上げ、直斗は無言で通話を終了させた。
「やっと、会えたな」
「…………」
明凛は視線だけを、膝に落とした。頭の中では、同じ疑問だけが渦を巻いている。どうして沢村さんが、直斗のことを知っているのだろう。どうして。
隣の直斗が、少しだけ苦笑する気配がする。
「そんな、露骨に嫌そうな顔するなよ。話が終わったらすぐ帰るから」
「なんの、話」
ようやく口から、ひどく乾いた声がでた。
「もしかして、本気で紫凛と別れるの? 解ってると思うけど――前も同じことを言ったけど――もう、無理よ。私たち」
「なんか飲む? 自販でなんか買ってこようか」
「いい。それより、話を早く終わらせて」
「…………」
直斗が軽く息を吐く。そうして彼は、くつろいだ風に明凛の隣に腰掛けた。
肩にも腿にも以前にはなかった厚みがある。日々限界まで肉体を鍛えている者の身体だ。
明凛は思わず身構えていた。この、一種異常な事態に、なお落ち着き払った直斗の態度が、妙に不安をかきたてる。
「知ってるんだろ」
「なにが」
「怒ってるふりしても、無駄だよ。もう明凛は知っているはずだ。もしかすると最初から気づいていたのかもしれない。明凛の性格を読みきれなかった、俺のミスだよ。あの時俺は、明凛を諦めるべきじゃなかったんだ」
「……なんの話なの」
「二年前のことさ」
たたみかけるように言われ、明凛は思わず視線を下げた。
二年前。
二人で最後に会った夜のことだ。
「あの時紫凛は、正真正銘自分から離婚したいと言い出し、俺達は二人で離婚届に署名したんだ。――紫凛が出さずにまだ手元に持ってるなんて、あの夜は全く知らなかった」
知っている。
直斗がそんなことで、嘘をつくはずがないことは、最初から分かっている。
「翌日、紫凛が妊娠したって言い出した時」
「やめて」
明凛は思わず遮っていた。「それ以上は、言わないで」
「俺には最初から、それが嘘か、俺じゃない誰かの子だと判ってたよ。でも、同時に判ったんだ。紫凛が俺の子だと言い張る以上、明凛はもう、絶対に俺を許さない。もう明凛に受け入れてもらうことは、永遠にないんだって」
明凛は眉を震わせながら顔を背けた。
そうよ。分かってた。
そんなの、最初から分かってた。あれは紫凛が、私を傷つけるために仕組んだことだって、全部。
でもその嘘に乗っかりでもしなければ――。
そうでもしなければ判らなかった。どうしたら、これほど好きな人を諦めることができるのか。
「俺たち、何もなければ結婚するはずだった。少なくとも俺は、そのつもりであの日、航空ショーの後、お前にそう告白した」
「…………」
お互い初めてで、歯と歯が思い切りぶつかったキス。
幼い日の思い出が、胸を裂くように蘇る。
「今思えば、お互い潔癖すぎたんだな」
苦笑して、直斗は続けた。
「俺にもお前にも夢があって、それを大事に育てていくのが一番だと思ってた。本当はもっとキスしたかったし、その夜も迷ったふりしてどこかに泊まろうかみたいな下心もあった。……そうしてりゃ、少しは違ってたのかな、俺達も」
「そんな直斗、想像できないよ」
過去への郷愁が、明凛の口調を少しだけ柔らかくする。
「できないか。でもそういうのも、俺なんだけどな」
直斗の苦笑は、少しだけ寂しそうに見えた。
「紫凛が、あんな目にあった日のことだけど」
知らず、膝の上に置いた手に力が入る。明凛は再び気持ちが強張るのを感じて、視線を逸らした。
「あの日は明凛の誕生日で、以前から二人で出かけようって約束してたんだよな。でも直前になって、他の用事があるから行けないって明凛が言い出した」
「……やめて、直斗」
「やめないよ。明凛は何も悪くないと思うから、やめない。あの時、俺、正直ちょっと面白くなくてさ……。だから、やけみたいに紫凛を誘って外に連れ出したんだ」
「ねぇ、それ、今話さないといけないこと?」
「聞けよ。逃げるな」
明凛の反論を、直斗は力強く遮った。
――逃げる……?
「そうさ。お前はこの12年、ずっとあの夜の出来事から逃げ続けてきた。忘れてるとは言わないさ。ただ、一度も直視しようとしなかった。あの夜、本当は何が起きたのか」
明凛は睫毛を震わせながら、直斗を見上げた。
そんなことは、絶対に、ない。
あの夜のことは、片時も忘れたことがない。
明凛から目を逸らさないままで、直斗は続けた。
「あの夜、紫凛と出かけた映画の帰りに、喧嘩別れになって、俺は1人で宿に帰った。喧嘩の原因、当時は何も話さなかったけど、言うよ。――紫凛と一緒にいるのが息苦しくなったんだ」
「…………」
「もっとはっきりいえば、俺、明凛とそっくりの紫凛に欲情したんだ。それが後ろめたくて、これ以上一緒にいるのが怖くなった。こんな気持ちを、もし明凛に知られたら」
「もういいから、やめて」
直斗の言いたいことを察し、明凛は強い口調で遮った。
「それでも直斗は悪くない。直斗にはなんの責任もない。その日直斗が紫凛と喧嘩別れしなくても、いつかは同じことになってたわ。だって紫凛は」
だって、紫凛は――
目頭の奥が焼かれたように熱くなる。それでも泣いたことのない瞳は、その激情さえやがて静かに飲み込んだ。
「紫凛は、私と間違えられて、暴行されたんだから」
その事実だけで、全ての言い訳はなんの意味ももたなくなる。
悪いのは暴行を加えた相手であって、もっと残酷なことを言えば、そういった連中に自分からついていった紫凛でもある。明凛でも直斗でもない。
それでも妹は、以前明凛に付きまとっていた男に、彼らの仲間の部屋に連れ込まれて輪姦されたのだ。
口をふさがれ、最後まで自分が別人であると言い訳することさえできずに。
「明凛、それからしばらくして、俺に言ったよな」
淡々とした口調で、直斗は続けた。
「紫凛の側にいてあげてって。……俺も、そうするしかないと思った。その時は紫凛もそれを望んでたし、――あんなことになったのは、俺の責任でもあるんだから」
うつむいたまま、明凛は苦しく首を横に振った。
それは違う。直斗にこそ、責任は何もなかったのだ。
「……悪かったと、思ってるわ」
「何が」
「直斗や紫凛の気持ちはともかく……私は多分、それを免罪符に紫凛に許されたいと思っていたから」
「……………」
「そのために、多分直斗を利用したの。……ひどいわね。本当に」
「……いいよ。俺もあれで、随分楽になったんだ」
直斗は軽く息を吐き、少しだけ笑って明凛を見た。
「そんなとこまで、俺たち似たもの同士だな」
「そうかもね」
「その一番の犠牲者が紫凛だよ。――義務感に縛られた男に抱かれ、馬鹿なことに結婚までした」
「そういう言い方はやめて」
少なくとも、結婚を決めた時点では、二人に恋愛感情はあったはずだ。明凛にはそう思えたし、そうであったと信じたい。
でないと、自分は本当に残酷な真似をしたことになる。
「もうこの話は終わりにしない? 直斗が何を言いたいのか、私にはちっともわからないし、聞いても何も変わらないわ」
「聞いてくれ。明凛。ここからが本題なんだ」
席を立った明凛を見上げ、辛抱強く直斗は続けた。
「座ってくれ。明凛、あと――あと10分で、何もかも判るから」
どういう意味……?
明凛は迷いながら、再びソファに座り直した。
「二人で責任を奪い合うのはやめよう。……俺はな、紫凛を襲った奴らを、正直今でも許してない。殆んどが社会でのうのうと暮らしているらしいが、会ったら……殺してしまうかもしれない」
「紫凛は、告訴しなかったわ」
苦い気持ちを振り絞りながら明凛は言った。
「だから誰も捕まらなかった。私はそう、聞いたけど」
「その通りだ。でも警察は、犯行グループ全員を一ヶ月後には特定してたんだ。全員未成年。しかも一人は政治家の息子だ。紫凛は告訴しなかったんじゃない。しないように、警察で誘導されたんだよ」
「……まさか」
「本当だよ。死んだ親父の同僚に教えてもらった。――絶対に言うなよ。犯人の顔も名前も、俺は全部知ってるんだ」
「…………」
「ただ、そいつらが今どこで、どうしているかまでは知らない。主犯格が強殺で刑務所に入っているのだけは知ってるけど、後はあえて調べなかった。知ったら、俺自身が殺しにいくかもしれないからな。今は、猛烈に後悔してるよ。せめて――仕事先くらい、押さえておけばよかったって」
「……どういう、こと?」
見上げた直斗の横顔に暗い影が射している。
「あの事件には、明凛の知らない後日談があるんだよ」
「…………」
「紫凛な、連中の一人に、偶然再会してるんだ。3年くらい前だ。お前が灰谷市に戻ってくる一年ほど前のことだよ」
「……それで?」
嫌な予感に胸が高鳴る。
「ストックホルム症候群って知ってるか」
「被害者が、犯人に同調したり好意を持ってしまうこと?」
明凛の答えに、直斗は小さく頷いた。
「偶然再会っていうのも、違うな。紫凛、ずっと探してたらしいんだ。そいつのこと」
「……なんで?」
胸がざわめく。なんだろう、この感じ。自分のまるで知らない世界の話なのに、すごく嫌な予感がする。
「さぁ。でも今は、そいつが紫凛の恋人だ。もう3年も前から、二人はずっとつきあってる。紫凛が妊娠してたのが本当なら、相手は多分、その男だよ」
「………誰?」
訊いても無意味なことを、何かに引きずられるように明凛は訊いた。
直斗が顔をあげる。落ち着き払った目は、入り口あたりの一点を見つめている。
「今、目の前にいるよ」
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まるで、無声映画を見ているようだと明凛は思った。
俳優が物語を演じているだけで、実在の人物はそこにいない。
それくらい、飛び込んできた光景には現実味がなかった。
目の前に、沢村がいる。
黒のジャケットにジーンズ。ラフなスタイルだが、不思議とホテルの雰囲気にマッチしている。
その沢村の隣に、自分がいる。
いや、自分ではない。――でも最初は、そうとしか思えなかった。
控え目な化粧をし、髪をひとつにまとめ、黒のパンツスーツにトレンチコートを羽織った女――それが紫凛だと気付くまで、明凛は夢でも見ているのではないかと思ったほどだ。
そして、判った。
これがもし映画なら、これほど残酷な演出があるだろうか。
紫凛は今、意図して明凛の真似をしているのだ……。
二人は腕を組み、少し笑いながら何かを語り合っている。
おそらくは、直斗と明凛がそこにいることに気づいている。
なのに堂々と――むしろ悠然と目の前を通り過ぎていく。
ふと、紫凛が、何かに気づいたように振り返った。
そして明凛を見下し、ゆっくりと微笑した。
勝利者の笑みではない。むしろ――憐れなものを見下すような優しい微笑みだ。
二人はフロントでチェックアウトを済ますと、そのままエレベーターホールに消えていった。
その間、沢村は一度も明凛の方を見なかった。
明凛も、微動だすらできなかった。
これは本当に現実だろうか――いや、現実なのだ。紛れもなく。
「明凛」
はっと、直斗の声で我に返る。
「大丈夫か」
膝に置いた自分の手が震えている。
その上に、そっと直斗の手が被さったので、明凛は急いで手を引いていた。
引いた手を握りしめ、自分の口元にあてる。
「大丈夫、ちょっと、……驚いてしまっただけで」
直斗の強い視線を感じる。その意味は、考えるまでもない。彼はもう、知っているのだ。明凛と沢村の関係を。
「沢村さんは、いつ直斗に連絡してきたの」
「先週の土曜、携帯に電話があった。遅い時間だったかな。はっきりとは憶えてないけど」
明凛は目を閉じていた。
二人で過ごしたあの日の夜だ。
明凛と別れてすぐに、沢村は直斗に電話したのだ。
「彼は、なんて」
「どうしてそれを聞きたい?」
子どもに言い聞かすような口調だった。
「今見たものが全てじゃないのか? 俺たち4人が今日ここに、偶然顔をあわせたとでも思っているのか?」
「彼はなんて? お願い、教えて」
明凛が顔をあげると、直斗は気圧されたように眉を寄せた。
「言いたくない」
「どうして?」
「言いたくないんだ。思いだしたくもない」
「直斗」
懇願する明凛を振り切るように、いきなり直斗は立ち上がった。
「俺にそれを言えっていうのか? 明凛を侮辱し、傷つけるだけの言葉を、俺にこの口で言えっていうのか?」
その言葉にすら後悔したのか、直斗は苦く顔を歪ませた。
「……いい加減紫凛と別れてくれないかって言われたよ。その交換条件に」
そこで言葉を切り、直斗は憤怒を口元に滲ませた。
「明凛の目を、覚まさせてやるってさ。言ってたよ。遊び心で手を出したら、本気になられて困ってるって」
「……………」
それで4人をこの場で会わせることにしたのだろうか。
偽りの関係を、全てご破算にするために。
しばらく眉を寄せていた明凛は、バックを持って立ち上がった。
「明凛」
「帰るわ。また改めて、沢村さんと話をするから」
「ちょっと待てよ」
腕を捕まれ、険しい目のまま明凛は直斗を見上げていた。
「話をするって、……お前、あいつが、紫凛に何したか、本気で判ってんのか?」
「…………」
「5人がかりでレイプして、気を失った紫凛に水をかけてはまた犯した。そんな、獣みたいな奴なんだぞ!」
信じない。
そんなの、私は信じない。
沢村さんはそんな人じゃない。絶対にない。
「確かめるわ」
「誰に、どうやって」
「沢村さんに、直接聞くから」
「――明凛!」
話にならない、とでも言うように、直斗は首を横に振った。
「じゃあ言うよ。お前は今回、12年前の紫凛とある意味同じ目にあわされたんだ」
「…………」
動揺が、多分目色にあらわれていた。直斗がたたみかける。
「紫凛とつきあってた沢村が、たまたま浮気心でお前に手を出したとでも思ってんのか? さっきの紫凛の顔みて、まだそれが分かんないのかよ。――紫凛はな、お前に復讐したんだよ」
復讐……。
「自分に夢中になっている、犬みたいな男を使って」
「……………」
「お前を弄ばせて、そして捨てさせたんじゃないか」
「……………」
「目を覚ませよ、明凛……。お前はそんな女じゃない。そんな馬鹿な女じゃなかったはずだろ!」
直斗に抱きしめられながら、明凛はただ、意思をなくした人みたいに立ち尽くしていた。
そして、自分に言い聞かせている。
それでもまだ、腑に落ちない点がある。
まだ――全てが終わったわけではないと。
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