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「じゃあ、今日はこれで失礼します」
腕時計を見て、明凛は急いで席を立った。
「気をつけて」
阿古屋を始め、管理課の部下が次々に「お疲れでした」と声をかけてくれる。
「今日も、沢村さん、休みでしたね」
「何があったんすかねぇ。ああ見えて、仕事は真面目にやる人なのに……」
宮田と中村の囁きに、思わず足が止まりそうになる。
とはいえ、今日は無断欠勤ではなく、阿古屋のところに休暇申請の電話が入ったという。
それが、救いといえば救いだった。
――沢村さん……いい風に考えが変わっていたらいいのだけど。
今朝早く、その沢村から、明凛の携帯にメールが入っていた。
昨日はすみませんでした。
話がしたいので、今夜、8時に、スカイプラザホテルのロビーで待っています。
総務への報告は、その後にしてください。
待ち合わせ場所が、ビジネスとはいえ、ホテルだということにまず明凛は驚いた。
真意を確かめたくて電話しても、相変わらず出てくれない。
正直言えば恐ろしい。もし、彼が一人ではなかったら。
また、自分を傷つけるための罠が仕掛けてあったなら――
「………」
乗り込んだタクシーに行き先をつげ、明凛はもう、何も考えないことにした。
まだ、可能性はある。
まだ諦めるには早すぎる。
彼が一人で何かを抱えているのなら、決して、私が見捨ててはならない。
それだけの関係を、二人はあの夜結んだのだと、まだ――まだ諦めずに、信じたい。
携帯が鳴ったのは、道路の混み具合が気になって腕時計を確認した時だった。
紫凛――
沢村の部屋に泊まった日から、紫凛とは連絡をとっていない。
あえて、考えないようにしていたというのもある。あの日は、本当に色んなことがあったから。
「お姉ちゃん? 今、どこ?」
「どうしたの」
明凛は落ち着いて、電話の声に答えた。
「どうしたのって、久しぶりじゃん」
紫凛の声は明るかった。
「結局忙しくて、なかなかご飯作りに行けないから。元気してるかな、と思って」
「元気よ。今はちょっと、仕事の方がたてこんでて」
「じゃあ、今はまだ、残業中?」
明凛は窓の外を見た。自分の顔に外の風景が被さっている。
「ううん。タクシー」
「帰ってる最中? だったら今から、ちょっと時間作れない?」
「何の用……?」
「実はね。今、直斗が帰ってきてるんだけど、私、昔の友達と会う約束をしちゃったの。お姉ちゃん、直斗とどっか、食事にでも行ってくれないかと思って」
「………」
一拍の間の後、明凛は言った。
「なんで、私が?」
「だって直斗、相変わらず重症の方向音痴で、美味しい店を教えてあげても、そこに自力で辿りつけないのよ。私も、一人にしちゃう負い目があるし。ねっ?」
「悪いけど、用事があるの」
淡々と明凛は答えた。
「直斗には、また、時間を作って会いに行くわ。その時は3人で会いましょう」
決して、その存在を忘れていたわけではなかった。
人生の岐路ともいえる瞬間に、電話をくれた初恋の人。
その夜を境に、完全に過去のものになった恋。
「なんで? いいじゃない、そんなに他人行儀にしなくても。前から思ってたけど、お姉ちゃん、直斗のこと避けすぎじゃない?」
なのに、いやにしつこく、紫凛は続けた。
「そりゃ、昔は恋人だったかもしれないけど、今はただの友達なんでしょう? だったらそんなに露骨に避けなくたって。――むしろ、意識されてるみたいで、その方が不安よ。私」
明凛は黙って、妹の声を聞いていた。
心の底で、決して出せないこんな言葉が渦巻いている。
とぼけなくても、もう知っているのよ。私。
二年前のことも、大明さんのことも、全て。
私と直斗を二人にさせて、今度は何を企んでいるの――と。
「別に意識はしてないけど、久しぶりすぎて話があわないような気がして」
なのに、やはり冷静に、明凛は言った。
「ごめんなさい。今夜は本当に疲れてるの。テンションが下がってるから、かえって直斗に失礼だわ。また、次の機会に必ず行くから」
「そんなこと言わずに――お願い」
手早く直斗の滞在しているホテルを告げられる。明凛は微かなため息をついた。
「……紫凛」
「行ったほうがいいわ。それがお姉ちゃんのためだと思う」
どういう意味?
「とにかく今夜だけは、私の言うとおりにして。直斗には、私が連絡しておくから」
意味が分からないまま、明凛は黙って携帯を切った。
なんだろう。本当にどういう意味だろう。
あれほど私が直斗と二人で会うのを警戒していた妹が。
罠にしては、いやに切迫していたような気がする。
でもそれ意外に、他の理由などあるだろうか。
2年前――明凛を呼び出し、紫凛と離婚すると明言した直斗。その翌日、妊娠したの、とはしゃいで電話してきた紫凛。盗撮されていた密会現場。
その一連の流れの底にひそむ悪意を考えるだけで、底なしの憂うつに飲み込まれてしまいそうだ。
いずれにしても、直斗と妹の仲が安泰とはいえないことだけは、確かなのかもしれない。
(紫凛は俺のことなんか好きじゃないよ。解ってるんだろう? あいつはただお前から、――お前から何かを、奪いたいだけなんだ)
2年前、直斗はそう言って明凛に迫った。
明凛はその話を、結局最後まできくことなく逃げてしまった。
判らない。直斗の言葉が本当なら、夫婦の関係が5年も続くものだろうか。
あれから2年、別居中の二人のことは、既に親戚中が事実上離婚とみなしている。なのにまだ、二人の戸籍はつながったままなのだ。
もしかすると、その偽りの期間もまた、紫凛の憎しみの深さの現れなのかもしれない。
結局いつになっても、私は紫凛に許されない――
その怨嗟に、直斗まで巻きこんでしまっているのだとしたら?
明凛は暗い目で窓の外を見て、そっと眉をひそめていた。
待ち合わせ場所に指定されたホテルは、ビジネスとはいえなかなかのランクだった。
広いロビーにはシンプルだがセンスのいいソファがいくつもあつらえてあって、泊り客や食事に来た客らが談笑している。外国人の顔も、ちらほらと見える。
案外雰囲気がいい場所だったことに、明凛はほっとして息をついた。が、すぐに憂うつに眉が曇りだす。
――直斗に……断りの電話を入れなきゃ。
それだけでなく、今夜の沢村との話し合いが、決していい形で終わらないことを、明凛は薄々察している。
一体どんな理由で、何故こうなったかは分からないが、彼は私との繋がりを完全に絶とうとしているのだ。今夜の話し合いが、もしかしたら二人で会う最後になるのかもしれない。
それでもいいと、明凛は覚悟を決めていた。
最低限、沢村さんが仕事に戻ってくれるなら。
もし彼がどうしても、というなら、訴訟の件は考えなおしてもいい。
ただし、もし大明が沢村を訴える手段に出れば、自分が証人台に立って全面的に庇うつもりでいる。あとはもう、どうにでもなれだ。
壁際に、誰も座っていない二人掛けのソファをみつけた明凛は、片側に荷物を置いて腰を下ろした。
ひとつ息を吐いて、バッグの中から携帯電話を取り出す。こちらから電話するのは相当憂鬱な作業だが、一度決めたことは、絶対にためらわない主義でもある。
履歴から直斗の番号を探し、明凛は指で通話のキーを押した。それと同時に、隣に人が近づく気配がした。
「すみません、隣、よろしいですか」
「ごめんなさい。ここで人と待ち合わせをしているので」
携帯を耳にあてたまま顔をあげた明凛は、そこで息を止めていた。
耳にあてた携帯からコール音が聞こえてくる。それと同時に、その男のポケットからも着信を告げる音がする。
「切れよ」
おどけたように肩をすくめ、直斗は言った。
グレーのスーツにタグのついたスーツケース。いかにも今、空港から駆けつけてきた風である。
着信の音を聞きながら、明凛はただ、固まっていた。
どうして――
どうして、ここに、直斗が来るの――?
その答えは、ひとつしか思いつかない。
でも理由は、どうしても判らなかった。
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