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「沢村さん、ちょっと」
 明凛が事務的にそう言うと、末席の男は視線だけをこちらに向けて立ち上がった。
「……何か」
「少し、時間いい?」
 沢村は物憂そうだったし、明凛にしても決して愉快な用件ではなかった。
 ――どうしたの。沢村さん。
 内心そう問いかけたいのを堪え、明凛は視線で、局長室横の応接室を指し示した。
 来客用の応接室だが、業者の庁舎立ち入りが厳しく制限されるようになった昨今、その部屋はもっぱら職員が会議や面談に使っている。
 応接室に向かう沢村と明凛を、管理課の職員ならず、総務の職員も気まずそうにチラ見している。皆、用件を薄々察しているからだ。
 週が開けた木曜日。月曜に休んだ沢村は、火曜日、水曜日と中途で役所から姿を消した。そのいずれも、一切連絡をしてこなかった。
 阿古屋補佐が気を回して休暇申請を行い、無断欠勤という事態は避けているが、当然、沢村の異変は職員の中では噂になっている。
 無断欠勤は、5日続けば懲戒免職の対象になる。
 沢村の有給は、繰越を含めれば30日以上は残っていて、彼が無断で欠勤しなくてはいけない理由はどこにもないのだ。
(申し上げにくいのですが、あの顔の傷の理由も、確認してみてもらえませんか。仮にその原因が喧嘩なら、相手も無傷ではないように思いますし。後々、警察沙汰にでもなれば、大変なことになりますから)
 今朝の道路局課長会では、総務課長にそう苦言を呈された。
 私が聞いてみましょうか、と阿古屋は言ったが、明凛は自分で沢村を呼び、事情を聞いてみることにした。
 公私混同ではなく、その方がいいと思ったからだ。
 阿古屋では、沢村は決して本心を語ったりしないだろう。月曜以来、目をあわせないどころか携帯に電話しても出てくれない。なんとなく沢村の異変の原因が自分にあるような予感もするからだ。
「皆、心配しているわよ」
 沢村を応接テーブルの対面に座らせ、明凛は自分も椅子に腰を下ろした。
「月曜から、どうしたの。何か心配ごとでもあるの」
「別に」
 視線を下げたまま、ぶっきらぼうに沢村は言った。
「阿古屋さんにも言いましたけど、休暇申請、出したつもりで忘れてただけですから」
 とりつくしまもない言い方だ。明凛は微かに息を吐いた。
「だったらいいけど」
「話、それだけなら、もう戻っていいですか」
「――沢村さん」
 立ち上がろうとした沢村を、明凛は少し声を荒げて止めていた。
 扉はきちんと閉めてある。内の音が外にもれないことも、判っている。
「待ちなさい。それで済むとは思ってないんでしょう?」
 明らかに、おかしい。
「何を考えているか言ってくれる」
「別に、なにも」
「だって、……どうしたの。一体」
 あれだけ深くひとつになって、名残を惜しむように互いの手を離したのは、つい数日前のことなのだ。
 まだ明凛には、ここ数日の沢村の変化が判らないし、理解できない。
「もし、私が訴訟を起こすのが気に入らないのなら、もう一度話しあいましょう。沢村さんにも思うところがあるだろうし」
 思いつくことはそれしかなかったが、それにも沢村は無反応だった。
 気だるげに首のあたりに手をやると、沢村は面倒そうに口を開いた。
「てか……口出し無用って、それ、あんたが言ったんじゃないっすか」
「…………」
「俺にはどうでもいいっていうか。その前に、まず大明さんが俺のこと訴えるんでしょ。その時点で、なんか俺的にはもう終わったって感じだし」
「…………」
「あんたと違って小心なんです。金もないし、頭も悪いし。おかしな噂立てられて、役所でやっていく自信もない。新しい仕事探してるんですよ、今。だからちょいちょい休んでるだけです」
「なんで休暇届を出さないの」
「だから、忘れてるだけですって」
「そう……」
 明凛は苛立ちを唇を噛んでやり過ごした。
 本当に、判らない。
 それともこの二面性が、沢村という男の本性だったのだろうか。
 躁鬱が激しく、いい時と悪い時の差が大きい者はよくいるが、それにしても極端すぎる。
「これも仕事だから聞くけど、その怪我は、どうして出来たか聞かせてくれる」
「今更ですか。喧嘩だって言いませんでしたっけ」
「聞いたけど、相手は、誰?」
「知りませんよ。飲み屋でいきなり絡まれたんです。顔も名前も覚えてない――もういいですか。時間の無駄なんで」
 さすがに耐えかね、明凛は立ち上がっていた。
 なんなの、一体、その態度。
 しかしここで、感情的になることはできない。ここは役所で、私たちは上司と部下なのだ。
「……どうぞ。話はもう終わりよ」
 感情を冷静に抑えて明凛は言った。
 何があったか判らないが、今は、多分、何を話しても無駄だろう。また時間をあけて、改めて場所を設けよう。
 しかし沢村は席を立たない。明凛は自分が先に出ようとした。その腕を後ろから乱暴に掴まれる。
「なんの真似」
「またまた、とぼけちゃってさ」
「沢村さ――」
「やりたくなったんでしょ。俺と」
 ――は?
 言葉の意味を反芻する間もなく、明凛は壁に押し付けられていた。口を手で押えられる。獰猛な力に、声も出ない。
 素早く身体を押し付けてきた沢村が、明凛のベルトに手をかけた。
「週末まで待てなくなった? だったらさ、もっといい場所用意しろよ」
 どういうこと?
 自由になる目だけで、明凛は懸命に沢村の真意を探る。
「声出すなよ。あんただけ、手っ取り早くいかせてやるから」
 簡単にベルトが外され、沢村の手がパンツの内側に入りこもうとする。明凛は驚愕して首をふろうとしたが、口ごと壁に押し付けられて、身動きがとれない。
「……めて」
 顔すら上げられない視野に映るのは、沢村の顎と首だけだ。
 無理に開かされた脚の間に、男の脚が割り込んでくる。
「聞こえねぇのかよ。声、出すなって」
 息苦しさに明凛は呻き、初めてこんな真似をする沢村に怒りを覚えた。
 ――冗談じゃない。ここをどこだと思っているの。
 熱を帯びた指がショーツの縁を割って入る。明凛は思いっきり口を覆う指に噛み付いていた。
「――っ」
 呻いて身体を離した沢村から、逃げるように数歩離れ、明凛は大きく息をした。
 よろめいた沢村が椅子を倒し、思いもよらないけたたましい音が鳴り響く。
「出て行きなさい。話は終わりよ。沢村さん」
 バタンと、外から扉が開いた。
「だ、大丈夫かね。柏原さん」
 血相を変えた総務課長である。その時には明凛は、素早く身なりを整えていた。
 とはいえ、椅子は倒れ、沢村はだらしなく机によりかかっている。
 何か異変があったのは、総務課長も察したらしい。
「大丈夫です。ただ少し、厳しいことを言ってしまったので」
「……だったらいいが……」
 刺すような視線の中、沢村は無言で机から離れると、ものも言わずに出て行った。
 ふぅ、と総務課長がため息をついて、倒れた椅子を持ち上げる。
「柏原さん。課長としての心意気は判るが、男女が二人きりになる時は、扉を少しでも開けておくように」
「申し訳ありませんでした」
「沢村君のことが手にあまるなら、阿古屋さんに任せなさい。男女というのはどうしても、心を割って話し難いものがあるからね」
「…………」
 明凛は苦いものを抱いたまま、黙って頭だけを下げた。
   
   
   
 ――出ない……。
 明凛はため息をついて、携帯をバックに滑らせた。
 何度かけても応答がない。なのに、見上げた部屋の灯はついている。
 明凛は再度、小さく息を吐いた。
 今日――会議室で悶着があったその後、結局、沢村は外に出たきり、役所に戻っては来なかった。
 総務課も周知のことだったので、阿古屋も仕方なく、それを無断欠勤だと報告した。
 これで取り返しの付かないペナルティが、沢村の経歴についたことになる。
 もう人事評価で高評価が望めないのはもちろん、次の異動先にも影響は及ぶだろう。
 いずれにしても、このまま何もせずに見過ごすわけにはいかない。
 沢村の変貌の理由は、どう考えてもひとつしか思いつかなかった。
 ――大明さんの、ことだ。
 私が、彼を訴えると言ったから。
 だから沢村さんは、そんな必要はないという態度を示しているのかもしれない。いや、それどころか――
「…………」
 役所を辞める気でいるのかもしれない。
 明凛は、眉根に力をこめ、階段を上がり始めた。拒否されるのは判っている。それでも話をしなければならない。
 個人的な感情を差し引いても、これは、彼の人生に係る問題なのだ。
 表札のない玄関の前に立ち、明凛は深呼吸してからチャイムを押した。
 一度。二度。
 カーテン越しの灯。室外機の音。間違いなく、中に人のいる気配がする。
 なのに玄関で靴がこすれる音を聞いた時、初めて明凛は想像もしていなかったことに思い至った。
 もしかして中にいるのは、沢村さん一人ではないのかもしれない――
「誰?」
 一瞬、その覚悟が遅れたら、ポーカーフェイスを保てていたかどうかは判らない。
 明凛は黙って、下着にパーカーをひっかけただけの女に目礼した。
「はぁ? 誰、あんた。もしかしてこれって修羅場?」
 つけまつげのついた目を訝しく瞬かせて、女は部屋の中を振り返った。
 まだ若い。20代そこそこくらいだ。盛り上がった白いバストにオレンジのフリルがついた下着が可愛らしい。
 明凛は、目を逸らしていた。
「ちょっと烈士、女来てるよ」
「追い返せよ」
 奥から、沢村の物憂げな声がした。
 瞬きをした女が、「なんでアタシが?」とぼやきながら再び明凛に向き直る。
「聞こえた? そんなわけで悪いんだけどさ」
「沢村さん」
 明凛は構わず、呼びかけた。
「話があるの。少しでいいから、出て来られない」
「はぁ? なに、ウザ、この女帰る気ないみたいだよ」
「沢村さん」
「ちょっと、図々しいよ」
 どんっと乱暴に肩をつかれた。
 かなり目下から、マスカラで真っ黒の目が嫌悪をこめて見上げている。
「いい年したオバサンが、空気も読めないの。もしかしてあんた、烈士のストーカー?」
「…………」
 人生ではじめてオバサンと呼ばれた。
 知らなかった。この状況では、かなり、――くる。
 その時、奥から人が出てくる気配がした。
「いいよ。部屋行ってて」
「いいのぉ? この人なんだか、しつこそうだよ?」
 沢村だ。素肌に、黒のスウェットのようなものを無造作に羽織っている。
 髪は乱れて、唇には煙草。同じ黒のスウェットのズボンは、腰の半ばまでだらしなくずれていた。
 まるで別人のような冷めた目で、沢村は明凛を見下ろした。
「見ての通り、取り込み中なんすけど」
 こみ上げた感情を、明凛は自制心の全てを奮い起こして飲み込んだ。
「沢村さんが役所を辞めて、それで私が安心すると思ったら大きな間違いよ」
「――は?」
 片眉だけをあげて、男は皮肉に唇を歪めた。
「すみません。なんの話っすか」
「辞める気なんでしょう? だから、こんな目茶苦茶な真似をしてるんでしょう?」
「マジで、言われてる意味がわからないんですけど」
 口元だけで笑った沢村は、吸い込んだ煙草の煙を物憂げに吐き出した。
 明凛は眉をしかめて、そんな沢村の横顔を見上げる。
「だってそうだわ。今日の昼だって、沢村さん、故意に椅子を倒して大きな音を立てたでしょう。外で聞き耳を立てている総務課長に、わざと聴かせるつもりだったんじゃないの」
「考えすぎでしょ」
「でも、そうとしか思えない。新しい仕事を探すなら探すで、どうしてきちんと有給を申請しないの。無断欠勤が高じて免職にでもなれば、退職金だって出ない可能性があるのよ?」
 いきなり沢村が、手にした煙草を投げ捨てた。それが明凛の足元近くだったので、さすがに驚いて足を引いている。
「つーか、目茶苦茶ウザいんですけど」
 冷ややかな声で、沢村はいった。
「まだ、判んないですか。何もかもが面倒になったんです。あんたにさえ関わらなきゃ、大明みたいな面倒な男に目をつけられることもなかった。結局、あんたは俺の疫病神だったんですよ」
 ――沢村さん……。
「どんな味なのか、身体の方に興味あったけど、まぁ、そこそこ止まりっていうか。ぶっちゃけ、危険冒してまで執着するような女でもなかったし。今となっちゃ、後悔ばかりですよ」
 おかしい。
 彼がこうも辛辣に、私を傷つける意味が判らない。
「正直言えば、一晩抱いて飽きたんです。最初に言ったでしょ。一回やりたいだけだったって」
 この人は、今、嘘を言っている。
 どうしてだろう。それが私には、すごくよく判る。
「ひとつ忠告すれば、あんた、初めての男に簡単にヤラせすぎです。ちょっとはもったいぶらなきゃ、今回みたいに、すぐに飽きられて終わりっすよ。――じゃあ」
「どうしたの?」
 背を向けた沢村に、明凛は咄嗟に言っていた。
「どう、とは?」
 だって。
「私をスマートに遠ざける方法なら、いくらでもあるはずなのに、どうしてこんなに性急に、何もかも壊そうとしているの?」
「…………」
「なにか、あった?」
「…………」
 一瞬停まった背中は、明凛の声を振り切るように扉の内側に消えてしまった。 目の前で閉まった扉を、明凛は拳で力いっぱい叩いた。
「沢村さん、聞いて」
「ちょっと、マジで警察呼ぶよ?」
 女の声が返される。
「面倒事をおそれる気持は判るけど、下手に隠したり逃げたりすれば、事態はますます悪化するわ。相手に弱みを握られて、にっちもさっちもいかなくなる。私はそうやって役所を辞めていった人を、何人も知っているのよ」
 女がまだ何かわめていている。構わずに明凛は続けた。
「明日、これまでのいきさつを、私から総務課長に説明します。もう、こそこそするのはやめましょう。何度も言うけど、責任は私にあるの。沢村さんが自棄になる必要は何もないのよ」

 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。