3

 
 雨があがるのを待っている内に夜になり、二人で台所にあるもので簡単な夕食を作った。
 パスタと、ありあわせの野菜で作ったサラダ。
 沢村の手際のよさに、明凛は内心驚いていた。それに比べたら自分は――その時だけ、上司部下の関係が逆転してしまったみたいだ。
「料理、好きなの」
「好きじゃないけど、一人暮らしが長いから」
 片付けを一緒にして、その後は、ソファに寄り添って座って何をすることもなく雨の音を聞いていた。
「なかなか、やまないですね」
「そうね」
 指を絡めてキスをする。触れるだけのキスには、今は優しさと深い愛情しか感じられない。
「傷……」
「ん?」
 沢村の唇の端を、明凛はそっと指でなぞった。
「昨日よりひどくなったみたい。本当に痛くない?」
「大丈夫です」
「平気ならいいけど、もう喧嘩はやめてね」
 まるで世界から遮断されているような雨音が、こんなにも心地いいといったら、この人はどう思うだろう。
 ずっと、このまま、二人でいたい。
 この雨がやまず、今の時間がずっと続けばいいのに……。
 でも、どんな時間もいつかは終わる。
 ここを出たら、私はどの世界に戻ればいいのだろう。
「課長?」
「………」
 そうだ。現実はもう――この夜の帳のすぐ向こうで待っているのだ。
「課長はやめない?」
 明凛は沢村をそっと押しのけ、その肩に頭を預けて天井を見上げた。
「……話しておかなきゃいけないことがあるの」
「なんですか」
 その声が緊張している。明凛は彼の大きな手に自分の手を重ねた。安心して――あなたは私が、絶対に守るから。
「……大明さんのこと」
「………」
「沢村さんも最初から言ってたけど、彼、もう沢村さんの存在に気づいているみたいなの」
 黙る沢村の横顔に、さほどの驚きの色はなかった。
「で?」
「不本意かもしれないけど、大明さんの出方次第では法廷で争おうと思ってるの。こんなことで沢村さんが懲戒処分を受ける理由がないもの。万が一のことを考えて、以前からその準備はしてあるし」
「争うって、俺がっすか」
 沢村が失笑するのが判った。
「無理でしょ。何をどう争うんですか。だいたい俺に言い分なんてないし」
「私がよ。私があの人を訴えるから」
 明凛を見る沢村の目が険しくなる。
「……冗談でしょ」
「私、悪いけど冗談は言わない性質よ」
 明凛はきっぱりと言いきった。
「沢村さんは私の恋人だもの。あんな現場を目の当たりにして大明さんに手が出たのも仕方ないでしょう。もう決めたの。沢村さんがなんと言おうと、そういう筋書きで行くことにしたから」
 ああいう卑劣な男の脅しをまともに取り合えば、ますます泥沼に陥るだけだ。
 ここは、一見ダメージを負うように見えても、正攻法でいくのが一番なのだ。
 それが長期的に見た時の、危機管理のベストな対応である。
 しかし沢村の顔は険しいままだった。
「そんな真似したら、あんた――もう市役所にいられなくなりますよ。どんな噂になるか判らないし、レイプなんて、どうしたって女の方が分が悪いみたいな言われ方になるでしょ」
 そのことは、言われるまでもなく考えた。
「平気よ」
「平気って」
 理由までは言うつもりはないが、それを負い目や引け目に感じることだけは、自分には絶対にできない。いや、許されないのだ。
「ちょっと待って下さい。そんな――そんなことなら、あんたを部屋に上げるんじゃなかった」
 沢村は困惑したように立ち上がった。
「お願いだから冷静になってください。あの日のことだけじゃない。訴訟になれば、あんたの過去の何もかも、洗いざらいさらされる可能性だってあるんですよ」
「よく、知ってるのね」
 逆に明凛は目を丸くしていた。
「俺だって、そのくらいの知識はありますよ」
 明凛がまるで動じていないのに苛立ったのか、沢村は眉をしかめて首を振った。
「だいたい俺なんかが恋人って、周りからみたらおかしいですよ。あり得ない。それだけでも、あんたを見る周りの目が、まるで違うものになるじゃないですか」
「そうかな。そうは思わないし、だとしても平気だけど」
「平気って……俺が、平気じゃないんです」
 明凛の前で膝をつき、沢村は苦悩に耐えるように唇を噛み締めた。
「……どうすんですか。あんたいずれ、国に帰る人でしょう。大明みたいな権力者と騒ぎを起こしちゃ、それも、難しくなるんじゃないですか」
「別に、それももう、どうでもいいかなって」
「――課長」
「課長はやめてと言わなかった? あんたって呼ばれ方もどうかと思うけど」
「…………」
「悪いけど、私が決めたことに口出し無用よ。きっと切り出し方が悪かったのね。沢村さんに責任はない。こんなことになったのも、私が大明さんの誘いを安易に受けたのが原因なんだから」
 本当はもっと深い――高校3年の秋にまで、その要因は遡る。
 その意味では、たとえこの先どうなったとしても因果応報――今まで自分がやってきたことの帰結なのだ。
「……夕べは、大明と会うつもりだったんじゃないですか」
 沢村の問いに、はじめて明凛は、表情を硬くしていた。
「なんで?」
 どうして沢村さんが、昨夜のことを知っているの?
 うつむいて、眉根を寄せたまま沢村は続けた。
「あんたのこと心配してる人が、影であんたの動向を調べてたんです。俺の口からは言いたくないんで、詳しくは日高に聞いてください」
 ――日高さん……。
「もしかして、雪村さん?」
 そう言って見あげた沢村の目は、肯定も否定もしていなかった。
 以前、雪村には、大明とデートする際に思わぬ心配をかけたことがある。日高成美のおせっかいに付き合わされた形だったそうだが、日高成美が絡んでいるというなら、その裏には雪村がいるのかもしれない。
「法規の飲みを断った時は、大明のところに行こうとしてたんじゃないですか」
「………」
「大明と、何かの取引をするつもりだって、……そんな風に聞きましたけど」
「………」
 なんで、そんなことまで――と思ったが、詮索するのはやめた。
 そうか。
 それが判っていたから、昨夜沢村は、あれほど血相を変えて駆けてきたのだ。
「もし、俺のことで脅されたんなら」
 明凛は苦笑して首を横に振った。
「確かに、大明さんにはいろんなことで脅迫されたけど、正直、そのどれもが私にはどうでもいいことだった。沢村さんのことは最初から訴訟に持ち込む腹を決めていたし、もうひとつは」
「…………」
 一瞬、言うべきではない、と思ったものの、次の瞬間、明凛は口を開いていた。
「――驚かないで。……私、一度だけ、結婚している人と過ちを犯したの。まさか2年も前の、しかも当人しか知らないはずのことを持ちだされたから、あの時は本当に驚いたけど」
 沢村は黙っている。その顔を見られないまま、明凛は続けた。
「どんな写真をばらまかれても、私は大丈夫だし、彼も大丈夫だと思う。彼は私の性格をよく知ってるし、私も彼の性格をよく知っているから」
 逆に大道みたいな男の脅しに乗ったなんて言ったら叱られてしまうだろう。
「まっすぐな人なの。父親が警察官だったから、きっとその影響ね。もちろん今は立場があるから、全く平気かといえばそうじゃないと思う。でもだからって、脅しなんかに屈するような人じゃない。戦うことを、選ぶと思うわ」
 私と一緒で。
 ありがたいことに、その反応だけは、写し鏡を見るように、判る。
「……それで?」
「それで、とは?」
「だったらなんで、昨日は大明のところに行こうとしていたんですか」
「………」
 沢村に促され、明凛はその時の自分の気持を反芻した。
 あの時自分は、ひどく混乱しながら考えた。どうしてこんな写真があるんだろう。それをどうして、大明拓哉が手に入れたんだろうと。
 答えは、ひとつだけだった。
 いまでも、そうでなければいいと、心のどこかで願ってはいるが。
「……私、ひどい女なの」
「知ってます」
「もう」
 拳をやんわりと絡め取られ、そのまま胸に抱き寄せられる。
 明凛は目を閉じ、しばらく沢村の鼓動の音を聞いていた。――何故だろう。すごく素直に気持になる。
「……昔、私のせいで、………取り返しの付かない事件に巻き込まれた人がいるの」
 沢村は黙っている。肩に置かれた手の温もりを感じたまま、明凛は続けた。
「その人は、いまでもすごく――想像もつかないほど深く――私のことを憎んでいるんだって、その時ようやく解ったの。どこかで許されたと思ってた。私だって苦しんだから。でもそんなの、甘かったんだなって」
「………」
「だから、私も同じ目にあえば、許してもらえるのかなって思った……わかりにくいよね。ごめんなさい」
「いえ……」
 判るはずもないのに、頷いてくれる沢村が不意に愛しくなり、明凛はその腰に腕を回していた。
「前、話したよね。新しい恋愛を始めようとすると、決まって昔のことが頭に浮かぶって」
「…………」
「それは、昔好きだった人のことが忘れられないんじゃなくて――多分、その時犯してしまった罪のことが忘れられないんじゃないかと思うの。怖くて――自分が、過去の何もかもを忘れて先に進むのが、……怖くて」
「………」
「ある意味、自分を不幸な状況に追い込むことで、自己満足を覚えていたのかもしれない。私はこんなに可哀想なの。だからもういいでしょうって感じ?――大明さんの誘いも、そんなやけっぱちな気持で受けたの。結果、どうなっても私自身で撒いた種よ」
 沢村は、しばらく何も言わずに明凛を見つめていた。
 その瞳の影が気になった。どうして今、彼はこんなに寂しそうな顔をするんだろう。
 もしかして、私の告白に引いたのだろうか。
 でも世界中で、今、この人だけは判ってくれるはずだ。ほんの数時間前まで、私が潔白だったことを。
「その人のこと、もういいんですか」
「……その人って?」
 横顔だけで微かに笑んで、沢村は明凛の隣に座り直した。
「課長の、好きだった人ですよ」
「………」
「よく判らないけど、いつか事情が変わって、その人ともう一度、やり直せるかもしれないじゃないですか」
「………」
「人生なんて、どう転ぶか判らない。俺だって昨日まで、こんなことになるとは夢にも思ってなかったし」
 明凛は眉をひそめていた。
「それ、私にどう答えてほしくて訊いてるの」
「どうって」
「悪いけど、私そんなに器用じゃない。沢村さんとこんなことになって、それでもまだ他の人って、とても、考えられないわ」
「………」
「……本当はまだ、――昨日の夜までは、だけど。少しだけ未練みたいなものがあったのかもしれない。そういう意味じゃ、私は沢村さんを利用したのかもしれない。自分の中の、過去への妄執みたいなものを断ち切りたくて」
「…………」
「それが、許せないと思うなら」
「そんなんじゃないです」
 今度は沢村が、遮るように言った。
「そんなんじゃない。でも……でもそいつは、いいっていうかもしれないですよ」
「いいって?」
「今の課長がどうなってても、それでもいいっていうかもしれない」
「無理よ」
 どうして沢村がそこに拘泥するのか判らず、明凛は困惑して顔をあげた。
「どうにもならないわ。たとえ事情がどれだけ変わろうと、絶対に無理。少なくとも私には」
 過去はもう塗り替えられない。
 たとえ直斗がどう思っていようと、紫凛をこれ以上傷つけたくない。裏切りたくない。
「これ以上説明する気はないけど、彼にはもう奥さんがいるの。彼女は、私にとっても大切な人よ。仮に二人が別れたとしても、私が彼と一緒になることだけはあり得ない。だって――わかるでしょう? 嘘になるじゃない。今までの、何もかもが」
「その奥さんが、別の男を好きでもですか」
「…………」
 どういう意味?
 沢村は自分の言った言葉をごまかすように苦笑した。 
「なんだか、わからなくなってきた」
「なにが」
「結局、行かなかったのは何故ですか。昨日の夜、あんたは過去を忘れる方法として、一度は大明のところに行くことを選んだんじゃないですか」
 自分のわかりにくい説明を、こうも見事に一言でまとめた沢村に、明凛は少し驚いていた。
「だってそれは」
「それは?」
「だって、それは……沢村さんが私のこと、本当に好きかもしれないって気づいたから」
「――は?」
 沢村が唖然と口をあける。
「それを最初に確かめないと、いけないような気がしたから」
「………え、え?」
「大道さんのところに行く前に、沢村さんに、どうしても会わなきゃって思ったから」
「…………」
「私のこと、好き?」
 まだどこか混乱している沢村を見上げて、明凛は訊いた。
 その答えなら、昨日も聞いた。もう、言葉がなくても信じている。それでも、聞きたい。
「……好きです」
「どれくらい?」
「……っ、本気で聞いてます? それ」
 明凛は笑って首を横に振り、赤くなった沢村の背中に両腕を回した。
「もう無理よ。二度とあんな馬鹿な決心はできない」
「……大明のところに、行くことですか」
 明凛は小さく頷いた。
「あの時の私は、セックスを一種の拷問みたいなものだと思ってた。だから、大明さんにそれを要求されても、正直なんとも思わなかったの。嫌悪感を耐えればいい――それで自分が傷つけてしまった人に許されるなら、くらいにしか」
「…………」
「でも、今はいや……沢村さん以外の人と、あんなこと、できない」
「…………」
「別人ね。昨日の私と今日の私。そんな風に変わる自分が怖かった。でも、もういいの。もうその境界を、超えてしまったんだもの」
 
 
 
「あのバスですか?」
「うん」
 ひとつしかない傘を、沢村は明凛の方に差し出した。
「持って帰ってください」
「平気よ。もう小降りだもの」
「また、降るかもしれないし」
 そんな問答をしている間に、バスはみるみる近くなる。
 バス停でバスを待つ間、沢村はずっと明凛の手を握っていてくれた。
 その手が離れて、明凛の肩をそっと押す。
「じゃあ」
「うん、……また月曜に」
 部屋を出る時、未練のように何度も何度もキスをした。その時の沢村の執拗さが、明凛には少しだけ気になった。
 毎日は無理だけど、またいつでも会えるのに。
 まるでこれが最後みたいに――そんなに苦しいキスをしないで。
 でも、恋とはそんなものかもしれない。今も離れた手に寂しさを覚え、隣の彼に抱きついて唇を合わせたいくらいの衝動は、明凛にもある。
 その程度には明凛も、初めて出来た恋人に酔いしれているのだ。
 とはいえ、これから向かっていく日常は、恋愛ばかりでは立ち行かない。
「今日はありがとう。じゃあ、またね」
 普段通りの微笑を浮かべてそう言い、明凛はバスのステップを上がった。
 まだ沢村は、その場に立ちすくんだままだ。明凛は眉をひそめて振り返った。
「もう、戻って。沢村さんが」
 雨に――
 言葉の途中で、音をたてて扉が閉まった。
 曇ったガラスの向こう、沢村の姿がみるみる夜の闇に飲まれていく。
 窓を叩く雨の音が激しくなる。
 不思議な不安を感じたまま、明凛はいつまでも、暗い窓の外を見続けていた。
 
 
 
 
 
 また、少し雨脚が強くなった。
 ぼんやりと足元を見ていた沢村は、額に落ちた雨粒を指で払った。一度はやんだ雨が、また夜を銀色に染めている。
 行く当てもなく歩いた先で見つけた公園。集会所らしき軒下のベンチに座り、無為に空を見上げて雨をしのいだ。
 まだ、部屋には戻りたくない。
 胸がいっぱいになりそうだ。今も、苦しくて、息もできない。
 ポケットから煙草をとり出して、口に挟む。
 何度かライターを擦って、ようやく湿った煙草に火がついた。
 それも束の間で、すぐに落ちてきた雨が、その火を吸い込むようにかき消していく。
 沢村はしばらく萎れた煙草を唇に挟んだまま、身動ぎもしなかった。
 冬の雨は容赦なく体温を奪い、手も足も、すっかり冷えてしまっている。
 いっそこのまま、死んでしまえばいいのにと思った。
 そうすれば、これ以上苦しむこともないのに。
「……………」
 携帯を取り上げる。覚悟は決めていたはずなのに、かじかんだ指は自然に別の番号を押していた。
 予想通り、無機質な留守番電話のメッセージが流れだす。
「……あー、俺です。元気にしてます?」
 遮るように、沢村は言った。
「あんたさ。逮捕されたとか行方不明だとか噂されてるけど、実はこの留守電、全部録音して残してるんじゃないっすか。いるでしょ、俺みたいに何度も電話してくる未練たらしいやつ」
 ピーッという電子音が耳を焼く。
「……あんたが消えた時、そりゃ、人に言えない理由があったんだろうけど、正直、馬鹿だと思いました。日高、とっとと新しい男捕まえてますよ。知りませんでした? あいつ、結構もてるんです。いつまでもあんたのこと待ってると思ったら、大間違い……」
 そこで言葉を切り、沢村は大きく息を吐いた。
「……ふっきれてんですか。今、どんな気持でいるんですか」
 どんな気持で――灰谷市を後にしたんですか。
 好きな人との別れを決める時、それはどんな気持ちだったんですか。
「俺……今まで、誰かを、好きになったことなんてなかったから」
 女なんてやれればいいくらいにしか思ったことがないし、そうなれば付きまとわれるのが面倒で、振り返りもせずに逃げていた。
 こんなに苦しいものだなんて、想像してもいなかった。
「わかりましたよ。……これから自分が、どうしたらいいのか。やっと、俺にも判りました」
 唇が震え、沢村は歯を噛み締めた。
「あんたみたいに、綺麗にできるかどうか判んないけど、やってみます」
 それがどんな痛みを伴おうと。
 もう、自分にできることは、それしかない。
「……あの人を、愛してるから……」
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。