「おかえり」
 明凛が声をかけると、鍵を開けて入ってきた人は、心底戸惑ったような顔をした。
「遅かったのね」
「……コンビニやめて、ちょっと離れたベーカリーに行ったんで」
「そう」
 明凛は立ち上がって、小さな食器棚の前に立った。
「コーヒー、勝手に淹れたんだけど、飲むでしょう?」
 沢村は答えない。明凛は不揃いのコーヒーカップを二つだし、テーブルの上に置いた。
 ステンレス製のポットからコーヒーを注ぐ間、背後に立ったままの沢村は無言だった。明凛は振り返った。
「パンは?」
「あ、これ」
 手渡された紙袋には、焼きたてベーカリーとロゴが印字されている。
 住所はごく近くなのに、袋も中身もすっかり冷えきっているようだった。
 出て行ってから、一時間。どこをどれだけ歩き回っていたのかと思うと、逆に少しおかしくなる。
「あっためようか。その方が美味しそう」
 袋を開いて惣菜パンをひとつ取り上げると、沢村がようやく苦笑するのが判った。
「なに?」
「いや、案外図々しい人なんだな、と思って」
「そう? あんなことのあった翌日だから、当然の権利だと思ったけど――いつもそうなの?」
 テーブルについた沢村が顔をあげる。
「そうとは?」
 明凛もテーブルにつき、自分用に用意したコーヒーカップを取り上げた。
「女の人を家に泊めたら、いつも冷えきったパンを買って帰るのかな、と思って」
 正直この状況で、自分のどこにこんな皮肉を言える自信があるのか不思議だった。
 でも、なんとなく――判っている。
 彼が今、自分の心と裏腹の行動をとっていることが。
 理由は判らないけど、なんとなく、判る。
 沢村は黙ってコーヒーを一口飲んだ。
「泊めたのは、課長だけです」
「嘘ばっかり」
「本当です。……俺、自分のテリトリーに他人が入ってくるの、基本的に苦手なんで」
「………」
「勝手に上がり込まれたことは、何度かあるけど……泊めたのは、昨日が初めてです」
 胸のどこかがドキンとした。
 本当だろうか? ちょっとそれは信じられない。
 でも彼の中で何かが変わった。コーヒーを一口飲む間に、何かがふっきれてしまったようにも見える。
「じゃあ、今も、もしかして困ってる?」
「困ってます」
 素直に頷く沢村に、明凛は少し落胆を覚えた。
「もうちょっと、このまま……課長にいてほしいって思う自分に、困ってます」
「…………」
 しまった、と思うまもなく、自分の顔がみるみる熱くなっている。
 今の今まで主導権を握っていたはずなのに、その一言でひっくり返ってしまったみたいだ。こんなことがあっていいのだろうか。
「そ、そういうことを、さらっと言うのは、どうなのかしらね」
 目を逸らしながら、明凛は言った。
「さらっとでもないけど……」
「いいえ。ごく自然に言ってたわ。自分のテリトリーに人を入れたくないとか言うけど、結局そういうことを言うから、みんな、沢村さんに夢中になるんじゃない」
「いや、夢中って」
 沢村が当惑したように口を挟む。
「なんか、誤解されてるみたいだけど、あんま俺、もてないっすよ。まともに恋愛したい女は俺なんて相手にしないし、せいぜい、後腐れなく遊びたい奴が寄ってくるくらいで」
「それは、沢村さんの勝手な言い分なんじゃないの?」
「…………」
 明凛が譲らないのに閉口したのか、沢村が少し皮肉な目になった。
「そんな言い方すると、まるで課長が俺に夢中みたいに聞こえますけど」
「――は?」
 唖然とする明凛を尻目に、涼しげにコーヒーを飲む。
 明凛はむっとして、自分のコーヒーカップを脇に押しやった。
「それこそ、誤解よ」
「そうは聞こえなかったけどな」
「言っとくけど、私が、あなたに気持を見透かされるほど単純だと思ったら大間違い――」
 テーブルの上で手が重なる。
 それだけで、魔法にかかったみたいに、言葉が何も出なくなる。
 キス――唇は、温めてあげたくなるほど冷えていた。
 そのまま深く抱きしめられる。明凛は彼に体重を委ね、その背に腕を回していた。
「……他の誰かと、一緒にしないで」
「してない……できるわけがない。……俺……」
 唇をあわせ、何度も繰り返し、もの苦おしいキスを交わす。
 不思議だった。どれだけキスをしても、これで終わりだという気がしない。もっともっと、この人と深くつながっていたくなる。
 髪が解けた時、明凛は床に仰向けに倒されていた。キスを続ける沢村の息が荒い。昨夜より余裕をなくしているのが怖いくらい判る。
 逆に、明凛には昨日より今日の方が余裕がある。だから判る。彼は今、私に欲情しているのだ。
 このまま、また昨夜のようになるのだろうか。そう思うとこの性急な展開が少しだけ不安になる。
「もう一度、お風呂に入るのは、いや……」
「判ってます。何もしない。……これ以上は、何も……」
 なのに、彼の苦しそうな目がこんなにも愛おしいのは何故だろう。
 自分のために苦痛に耐える男が、こうも魅惑的に見える理由はなんだろう。
 やがて明凛は、その理由に気がついた。
 私も彼に欲情している。
 それも、強く、狂おしいほどに。
 
 
 
「……人の顔、見るのが趣味?」
「そうじゃないけど、これからは趣味になりそうです」
 今、何時だろう。と明凛は思った。
 まだ外は昼間の明るさなのに、こうして二人で、夜を過ごすべき場所で寄り添っている。
 二人とも、肌には何も身に着けていない。まるで飢えた獣みたいに愛し合い、眠って、また愛し合った。
 今も、沢村の指が、熱っぽく、明凛の唇をなぞっている。
 不意に、その指に噛みつきたい衝動に明凛は駆られた。
 指だけではない。彼の綺麗な喉にも、逞しい肩にも、歯を当ててみたいと思う。苦痛と歓喜に呻くこの人の顔が見たいと思う。
 こんな凶暴な思いに駆られる私は、案外はしたない――というか肉食系だったのだろうか。
 その沢村が、不意に言った。
「……すみません」
「何が?」
「結局、こんなことになったから」
 今、勝手な想像であなたを汚していたのは私なんだけど。
「いいの。……でも、そろそろ本気で起きなきゃね。家族にも連絡を入れないと」
 指を絡めて軽いキスを交わしながら、ここは、この世とは別の場所だろうか、とふと思った。
 だとしたら、どんな夢でも見ていられる。どんな罪でも許される。
 起きなきゃね、と言いながらも、明凛は沢村の腕に自分の頭をのせ、そっと彼の顔を仰ぎ見た。
 まだこの場所で、彼のことをもっと知りたい。
「……沢村さんは、家族は?」
「俺?」
 頷くと、その目が少し笑いを帯びる。
「少なくとも、連絡する必要はないっすね」
 そういう意味じゃないけど……。
 やはり彼の幕は、こういう場面でも降ろされたままなのだろうか。
 微かに笑った沢村は、明凛を腕に抱いたまま、視線だけを天井に向けた。
「俺の家族なんて、どうでもいいでしょ」
「どうでもよくはないと思うけど」
「知ったら幻滅するだけだから、別の時に話します。どうしても聞きたいっていうならですけど」
 性急なようだけど、今、聞きたい。
 でも、どう頼んでも、それは叶えられないような気がした。
「じゃあ、沢村さんの思い出を聞かせて」
「思い出?」
「うん……たとえば、今まで一番楽しかったこととか」
「そう言われたら、今っすけど」
「そういうことじゃなくて、子供の頃の思い出とか」
「…………」
「一番好きな風景とか」
「…………」
 沢村は、首筋を掻いて、空を見る。
 困ったような横顔は、言いたくない言い訳を探しているようにも見えた。
 彼の履歴に、親族の名前は一人もない。抹消された記録もないから、19歳、入庁当時から一人だったのかもしれない。他人には話したくない事情も――あるのかもしれない。
 が、もういいと、明凛が言いかける前に、沢村がぽつり、と口を開いた。
「目黒川って知ってます?」
「……東京の?」
 小さく、沢村が顎を引く。
「昔だけど、その近くに住んでたのかな。……春になると桜がすごくて、名所だっていうから有名な場所だったんだろうけど」
「それで?」
 そっと促すと、沢村の唇があるかなきかの微笑を浮かべるのが判った。
「満開の桜の下に、川があって。その暗い水面いっぱいに薄桃色の花びらが浮いて、ゆっくり流れていくんです。花びらで埋め尽くされた水が流れていくのが、すっげ綺麗で、……夢みたいで、……春になると、ランドセル置いて、すぐに川の方に走って行ってたかな」
「…………」
 不意に相好を崩し、沢村は視線を横に向けた。
「つまんないでしょ、俺。語彙があんまないし」
「そんなことない」
「自分で言ってて、恥ずかしくなりました。まぁ、そんなこともあったな、程度の思い出ですけど」
 明凛は首を振って、彼の手に自分の手を重ねた。
 嬉しかった。話してくれて。
 温かいような切ないようなこの気持は、どう口にしていいか判らないし、言っても判ってもらえないかもしれないけど。
 そっと抱きしめられて、髪を大きな手で撫でられる。そうしながら沢村が言った。
「今度は、課長のこと、聞かせてください」
「私?」
「ね、困るでしょ。いきなり振られても」
「…………」
 軽く眉をあげ、明凛は彼のいたずらっぽく微笑する唇に指をあてた。
「うち、離婚してるんだ。両親」
「……そうなんですか」
 短く頷き、明凛は沢村の腕に自分の頭を預けた。
「私が小学校……4年の頃かな。ショックだったよ。お父さんに置いていかれたって判った時は。お父さん、ピアニストで……ていっても、ちっちゃな楽団に所属してる貧乏音楽家なんだけど、私、ずっとお父さんにピアノ教えてもらってたから」
 毎日毎日、何時間でも練習した。
 お父さんにほめられたくて、喜んでくれる顔が見たくて。
 お父さんが、本当に大好きだったから。
「なのに、ピアノなんて見向きもしなかった妹がお父さんに連れて行かれて、私一人が残された。その後はもう意地。意地になって練習した。きっと自分を捨てたお父さんに、振り向いて欲しかったんだろうね」
「部活は、吹奏楽とかやってたんですか」
「そう。……よく判ったね」
 単純な発想かもしれないが、言い当てられたことに、明凛は少し驚いていた。
「お父さんみたいに、いずれは楽団に入りたいって思ってたのかな。笑わないで、当時は音大目指してたの。今の私からは想像もできないでしょ」
「全然、できますけど」
 嘘ばっかり、と思ったが、自分を見下ろす沢村の目は優しかった。
「部活では、本当はピアノがやりたかったんだけど、顧問が産休か何かで休んでて、指揮者ばかりやらされてた。だからかな。3年の秋に引退したんだけど、最後の定期演奏会で、ソロで一曲だけ弾かせてもらったの。あれは――後輩たちのサプライズで、本当にすごく、嬉しかった」
「……………」
 何故か、沢村は黙っている。
 不思議に思って顔をあげると、彼は少しだけ笑んで、眉をあげた。
「ピアノは、今でも?」
 明凛は苦く笑って、首を横に振った。
 ピアノは、高校3年の秋――あの時にやめてしまった。
 それ以来、父とはもう会っていない。
 そういう意味では、ずっと心の底に閉じ込めていた思い出を、初めて他人に語ったのだ。
「聴きたいな」
「何が」
「ピアノ」
「よしてよ。もう何年も弾いてないのに」
「でも聴きたい。ほら、……リストの、結構有名な曲で……」
 沢村がぎこちなくメロディーを口ずさんだので、明凛は本気で驚いていた。
「もしかして、ため息?」
「そう、それです」
 子供みたいに嬉しそうに頷く沢村を、明凛は意外さに驚きながらまじまじと見つめた。
 リストはもう貸したっけ。
 というより、本当にちゃんと聴いてたんだ。この人。
 リストのため息――一瞬、記憶の何かが喚起された気がしたが、それはすぐに儚く消えた。
「昔よく弾いてたけど、もう無理よ」
「そこをなんとか」
「考えとく」
「本気で言ってんですけど。俺」
「だから、考えとく。つまり前向きに検討します」
「……それ、役所の言い方で、要するに何もしないってことでしょ」
「判った?」
 笑いながら抱き合って、もう一度キスをした。
「ごめんね。本当にもうピアノは無理なんだ」
「……いいです。俺も、言ってみただけだから」
 この可愛い人の頼みを、何でも聞いてあげたいけど、ピアノにだけはもう二度と触れたくない。
 キスが、次第に深くなる。
 外でかすかな雨音が響き始めた。

 
 
 
 
 
 
 
 >next >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。