「来たッ」
「マジで?」
 そんな声で目が覚めた。
 夕陽が眩しい。やべー、寝過ぎた。目をこすって半身を起こすと、自分を隠す茂みの向こうに、ふたつの人影が見える。
「一人?」
「今、一人になった。俺、シゲさん呼んでくる。お前らここで見張ってろよ」
 何が起きているのか知らないが、妙に空気が慌ただしい。
 直感で面倒事の匂いを感じた沢村は、音を立てずに立ち上がった。
 少し前の木立を駆けていったのは、ソフトモヒカンのてっぺんを金色に染めた特徴的な髪型だ。
 三年の赤城。
 名前まで記憶しているのは、彼が校内でも有名なワルで、都会あたりではとうに廃れたチーマー気取りの連中の一員だからだ。
 そういった輩に昔から目をつけられることの多かった沢村は、極力面倒事には関わり合いにならないようにして、この半年無難な高校生活を送ってきた。
 中学の頃、そういった連中の中心にいて、何度も警察に補導された経験が言っている。――ここは早めに退散しろ、と。
 去り際にふと振り返ると、「見張ってろよ」と命じられた二人が、こちらに背を向けて立っている。
 二人とも二年。一人は顔しか知らないが、もう一人は柔道部の安武だ。赤城に劣らず獰猛なワルで、一度クラスメイトが恐喝されている現場を見かけたことがある。
 ふと、つられるように、沢村は、その安武の視線を追った。
 木立に囲まれた体育館裏の倉庫。山間にある高校だけに、周囲は昼でも薄暗い木立だらけである。男子校だからいいものの、これで男女共学だったらかなり危険な場所が多いといっていい。
 その薄暗い倉庫前に、ほっそりとした人影が立っていた。
 沢村は思わず眉をあげていた。
 ――女子……?
 白いシャツにオリーブ色のタイ。白嶺女子校の制服だ。県内でも有名な進学校で、偏差値の高さでもトップクラスを誇っている。
 なんでそんな学校の女生徒が、こんな粗悪な男子校に紛れ込んでいるのか。
 理由は判らないが、これだけは判った。安武は今、彼女を見張っているのである。そして赤城が呼びにいったのが彼らのリーダー、シゲこと元三年の重信だ。
 重信憲剛。
 暴行に恐喝、多分表になっていないところではもっとひどいことをやっている。 名実共に、鯖浦高校一のワル。
 何をやらかしたのか、昨年の夏についに鑑別所に入ったそうだが、戻ってくるなり鯖浦高校の影の首領の座についた。とっくに退学しているはずなのに、学校の敷地すれすれをうろうろして、不良どもを束ねている。噂では、ヤクザと繋がりもあるらしい。
 周囲では、蝉が煩く鳴いている。女生徒が額の汗を手の甲で拭う。見えている肌が全部白い。遠目からみても相当な美少女だ。制服に包まれた腰が、折れてしまいそうなほど、細い。
 少女から目を逸らし、沢村は軽く肩をすくめた。
 ――気の毒に。
 いいとこのお嬢様みたいだけど、今から連中に姦られちまうわけか。
 まぁ、目をつけられたのが不運だったってことで。
 いずれにしても関わる気はさらさらない。せっかく入った高校を、こんなくだらないことで退学になるわけにはいかない。
「なぁ、シゲさん、あの子どうするつもりなのかな」
「そりゃ輪姦す気なんじゃね? シゲさん、あの女にマジ惚れしてたんだけど、女の身内が警察関係だとかで、警察に通報されて、それで別荘送りになったらしい」
「マジで?」
「そんなだから、シゲさんの怒り、マジ半端ねぇよ。可哀想だけど、孕むまでやられちまうんじゃねぇの」
 思わず、足が止まっていた。その途端靴が砂利を踏みしだき、見張りに立っていた男二人が同時に振り返る。
「――んだよ、てめぇ」
 あ、しまった。
「こいつ、……一年の沢村じゃね? 東京の中学から来たとかいう」
「なんか目つきが偉そうでさ。田舎モン馬鹿にしてるっつーか、前から気に食わなかったんだよ」
 実際、馬鹿だろ。
 俺も相当な馬鹿だけど。
 腹を括った沢村が顔をあげると、空気が一気に険悪になった。
 
 
「ちっ……」
 口中に溜まった血を吐き出して、沢村は殴られた頬をこすった。
 とはいえ、こちらのダメージはそれだけで、目の前には顔しか知らない二年が腹を抱えてうずくまり、赤城は応援を呼びに逃げてしまった。
 いずれにしても、ここに残っていれば袋叩きの目にあうのは確実だ。絶対に勝てる自信があるのは三人まで。それ以上になると、かなり危ない。
 ――てか、これで平穏な高校生活もパァかよ。
 半ばうんざりした気持で、それでも倉庫の方を振り返ったのは、この騒ぎでさすがの女子高生も逃げただろうと思ったからだ。
 が、目の前には思いもよらない光景があった。
 女子高生が――膝から崩れ落ちたように、立っていた場所にうずくまっている。いや、倒れている。
「――えっ……」
 本気で動揺しながら、沢村は斜面を駆け下りた。
 目を離した間に何があった?
 もしかして、他の仲間が近くにいて、何かされたのか?
「おい、あんた、しっかりしろよ」
 駆け寄った沢村は、倒れている少女を抱え起こした。
 顔色が紙みたいだ。薄く開いた唇から、白い歯がのぞいている。息は――している。
 安堵と共にふっと肩から力が抜ける。
 その時、どこからともなく風が吹いて、少女の前髪を微かに揺らした。
 自分の中の時が、音もなく静止する。
「…………」
 まつげが長い。――すごく、綺麗だ。
 こんな綺麗な人を、俺は、今まで、見たことがない。
 この人が目を開けたら、一体どんな顔になるんだろう。
 その目が、一度でも、自分を見てくれることなどあるのだろうか。
 この世の人ではないようなこの女性が、一度でも――いや、一瞬でも、虫けら以下の存在に気づいてくれることなど、あるだろうか。
 もう一度風が吹き、はっと沢村は我に返った。
 ――いや、待て待て、自分。
 目なんて、見た瞬間に逸らされるのがオチじゃねぇか。
 てか、何考えてたんだ。俺は。
 苦笑した沢村は、そこで初めて落ちているビニールファイルに気がついた。
 取り上げてみると、中には用紙の束が挟み込まれている。
 楽譜……。
 譜面のようだが、文字は全て英語で書かれ、なんの曲だかさっぱり理解できない。
 ただ、音楽をやっている人だということだけは理解できた。
 ファイルの端には綺麗な文字で、3−A柏原明凛と書かれている。
 嘘だろ。三年? じゃあ二歳も年上だ。
 それから、名前。
「メイ、リン……?」
 読めねぇぞ。これ。――もしかして外国人か?
 眉をしかめながら頭を掻く。その時だった。背後の木立に人の気配がした。我に返った沢村は、咄嗟に少女を抱えて立ち上がっていた。
 
 
 
 
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 眩しい朝の光が、閉じた目にも染みてくる。
 明凛は、数度瞬きしてから目を開けた。眩しさですぐにその目をしかめ、再び閉じる。
 今、何時だろう。
 いつもより寝過ぎてしまったのは確実だ。低血圧はこんな重大な日にも十分威力を発揮して、目は覚めていても、身体は泥のように動かない。
 もちろん自分の隣では、昨夜、一晩一緒にいた人が眠っている。
 暖かな布団の中で、双方の脚が重なっているのが分かるし、横を向いた自分の前に暖かな体温があるのも、判る。
 多分、互いに向き合っている。
 目を開ければ、そこには昨夜結ばれた人の寝顔があるはずだった。
「…………」
 ………まいったな。目が、開けられない。
 どういう顔をしていいのか、まず判らない。みじろぎもしない男が寝ているのは確実だろうが、その顔を見るのも――見るのもなんだか……。
 恥ずかしい。
 目を閉じたまま、明凛は耳のあたりを熱くした。
 知らなかった。沢村さんって、――結構、大胆というか、いやらしいというか。
 セックスって、もっとこう、神聖な儀式的なものだと思ってたけど。
 そんなものじゃない。どちらかといえば限りなく原始に近い、動物的な行為だ。そして官能の在処を求めあう行為。
 そんなことは望んでも期待してもいなかったのに、昨夜、明凛は初めてオーガズムを経験した。
 極度の緊張からの開放――言葉では綺麗に表現できるが、実際はそんなものではない。
 思考まで熱に浮かされたように熱くなり、息は乱れて掠れ、最後は明凛自身がその在処を求め、小さな喘ぎ声をあげた。
 これほど、恥ずかしいことが果たしてこの世にあるだろうか。
 しかもマスターベーションと違い(もちろん未経験だが)、その行為を共有している相手がいるのだから最悪だ。
 墓の下まで持っていくしかない秘密を、ついに握られてしまった気分である。
 そこまでの秘密を共有しうる相手は、つまるところ人生を共にする運命に人に違いない。けれど、そうでない場合だって、当然ある。
 ――その時は、いっそ沢村さんを殺して私も死のうかしら。
 そこまで真剣に考えて、明凛は目を開けることにした。
 いつまでもこうしていては、昨夜の恥の上塗りだ。
 まず目標としては、気づかれないように先に起きて、身支度をして、――職場と同じ態度で朝の挨拶をするのだ。まるで、何事もなかったように。
 その時だった。
「起きました?」
「…………」
「なんか眉間に皺寄ってますけど、難しいことでも考えてました?」
 なによ、そのすっきりした声は……。
 恐ろしく嫌な予感がして、明凛はおそるおそる目を開けた。
 隣で横臥している沢村が、寝起きとは思えないほどいつもどおりの目で見下ろしている。
「……もしかして、起きてたの」
「明け方に、目が覚めたんで」
「……なんで、まだここにいるの」
「ああ、……寝顔見てたら、つい」
「……………」
 見られてた!
 また、墓場にもってく秘密を握られた!
 あ、悪夢なの。これ。
 こっちはなんにも握ってないのに。私だけ――
「課長?」
 落ち着け。落ち着け、自分。
 すーはーすーはー、深呼吸する。
「起こしたほうがよかったですか」
「そんなことないけど、今何時?」
 うつむいたまま、懸命に自分を立てなおす。
「8時です。シャワー、使いますか」
「……沢村さんは」
「俺なら、夜中に一回浴びたんで」
「…………」
「その時、ちょっと起こしたんですけど、……すごくよく寝てたから」
 明凛は、取り繕うことを諦めた。いろんな意味で、もう白旗をあげるしかない。
 顔をあげると、最初のままの姿勢で沢村が見下ろしている。
 少し眩しそうな目をしている。日差しは沢村の背の方に差し込んでいるのに、それが少し不思議だった。
 指が伸びてきて、明凛の前髪をそっとわける。今度眩しい目をしたのは明凛だった。
 髪型が普段より野暮ったいせいだろうか、沢村さんの顔が、いつもより……優しく見える。
「外泊しても、よかったんですか」
「よくはないけど、昨夜は家に、誰もいなかったから……」
 本当は、妹の紫凛がいたかもしれない。ずっと電源を切っている携帯に、誰がどんな電話をかけてきたのか、明凛は知らない。
 何か言いかけた沢村が、そのまま言葉を飲むのが判った。
「じゃあ、ばれない内に早く帰らないと」
 視線を逸らした沢村が、少し笑って身を起こした。唐突に温もりが離れたのもそうだったが、その横顔に浮かぶ微笑がどこか寂しげなのが胸に残った。
「すみません。このまま一緒にいると、また、おかしな気になりそうなんで」
 なにそれ。
 続いて身を起こした明凛は、再び耳が熱くなるのを感じたが、立ち上がった沢村が着ていたスウェットを脱ぎはじめたので、慌てて視線をそむけていた。
「――ちょっと、外に出てきます」
「どこに行くの?」
「食うもん、何もないんで、コンビニで何か買ってきます。鍵、玄関に置いておくんで」
 手早く着替えた沢村は、明凛から目を逸らしたまま、寝室を出た。
「帰るなら、鍵は一階のポストに入れといてください。風呂もタオルも、自由に使って構わないんで」
「……ありがとう」
 ドアが開き、そして閉まる音がした。外から施錠、そして慌ただしく足音が遠ざかっていく。
「…………」
 一夜を過ごした人が、逃げるように去っていった理由を、明凛はしばらくみじろぎもせずに考えていた。
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。