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「もしかして娘さんですか」
 病室に入った途端に、父の傍らに腰を下ろしていたスーツ姿の男が言ったので、成美は慌てて頭を下げた。
「父がお世話になっております。娘の成美です」
 型通りの挨拶をしただけなのに、何故か男は目をキラキラと輝かせた。
 キラキラ――その表現は、決して大袈裟なものではない。
 男は――父とさほど年が違わないように見えるその男は、ちょっと見とれるほどのイケメンだったのである。
 目元は黒々と涼しげで、灰色の髪は見事なまでのロマンスグレー。やや小柄で、どちらかといえば華奢な体格で、これであと二十年も若かったら――ん?
「雪村さんだ」
 成美がまさかと思うより早く、病床の父がその人を紹介した。
「えっ……」
 偶然ですね。同じ名前のよく似た人を、私、知ってるんですよ。
 そんな現実逃避的なことを言う前に、その人が「脩二の父です。息子がお世話になっております」と丁寧に頭を下げた。
 ええええええっっっ。
 を、成美が心の中で三回繰り返した後、父がやや気まずげに切り出した。
「お前に散々からかわれた、初日に見舞いにきていた綺麗な女性だが、この雪村君の奥さんだよ。雪村君は私の五期下の税務職員で奥さんはその同期だ。二人には在職中、それはよくしてもらったんだ」
「それは、私のセリフですよ。日高さん」
 穏やかに笑んで、雪村父はその美しい眼差しを成美に向けた。
「私が家内と結婚できたのも、全て日高さんのおかげなんです。私は奥手で、意中の女性の前では木偶の坊のようになってしまうのですが、当時上司だった日高さんが、色々と骨を折ってくださって」
「今思い出しても、面倒な男だったよ。だいたい木偶の坊どころの騒ぎじゃない。シズカさんが朝出勤してくる度に、何枚大事な資料が駄目になったか」
「ははは。つい、彼女に見蕩れて、コーヒーをこぼしてしまうんですなぁ。あれで何枚もシャツを駄目にしましたよ」
 同じじゃん!
 もしかしてこの父親も、息子と同じ超恋愛体質……?
 その時、不意にどこかで聞いたメロディーが流れだした。
 Mr.Childrenの「365日」である。
「おっと、失礼、家内からです」
 成美は噴き出しかけていた。
 確か雪村主査の着メロがソナーポケットの「365日のラブストーリー」だったから、時代は違えど、365日がとにかく好きな父子のようだ。
 もう一年中、恋しちゃってくださいって感じである。
 雪村父が退室したので、室内には成美と父が取り残された。
「それにしても奇遇だね。まさか雪村主査のお父さんが、お父さんの職場の人だったなんて」
 成美は気を取り直して病室の花を取り替えようとした。
「そうかな。向こうは随分前から、お前のことを知っていたようだぞ」
「そうなんだ」
 それはそれは――あの雪村主査のことだから、どんだけボロクソな言葉で紹介されているんだろう。
「ああみえて、雪村君は大企業の御曹司でな。その立場を嫌って公務員になったものだから一時期は勘当同然だったらしい。そういう家だから、今でも何かと、諸事に口を出してくるようなんだ」
「へぇ……」
 成美は納得しつつ、花瓶を持ち上げた。
 それで雪村主査が、高級レストランで場慣れしていた理由も納得だ。その割にはケチだけど、なんだかんだ言って、払いも割り勘で済ませてくれている。
 しかし父の話は、それで終わりではないようだった。
「特に一人息子の脩二君の結婚について、それは煩く言ってくるようなんだ。見合い話が星の数ほどあるらしい。どうやら親族に男は脩二君一人で、いずれは会社の経営者に――などという目論見もあるんだろうが」
 それには成美は、さすがに本気で驚いていた。
 あの雪村さんが、そんな難しい事情を抱えていたなんて。そんなこと、態度にも口にも出したことがなかったのに。
「しかし脩二君は見合いなど受けはしない――それは、父親を知っている私にも判る。雪村君もその面に置いては頑固というか一途というか、とにかく恋愛至上主義のような男だったから」
 成美は大きく頷いていた。
 生真面目な父をしてそこまで言わせるとは、雪村父も相当面倒な男だったに違いない。
「それで、……向こうの親族が、だが、勝手に成美のことを調べたらしい」
「……………」
 え?
「今日、雪村君は、それを謝罪しに来られたのだ。そしてこう仰られた。親族筋が反対する事情があるのは承知の上で、息子の嫁になってくれないかと」
「…………………」
 え?
 唖然というより愕然とする成美を、父は少しこわい目で睨んだ。
「顎が落ちそうなのは私の方だ。正月には確か、紀里谷という男がお前と結婚するとかなんとか言いに来たな? で? 私は一体、誰に許可を出せばいいんだ?」
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「いや、だから口から出まかせだよ。もう、どうしようもなくなって、お前の名前を出しただけだから」
「ほんっと、マジ、迷惑なんですけど」
 その五分後、花瓶を持って流し場に逃げた成美は、即行雪村に電話をいれた。
 雪村はまだ仕事中のようで、腹の底からそう言った成美に、少しカチンときたようだった。
「お前にかけられた迷惑に比べたら些細なことだろ。お前のせいで、ホモには追っかけられるわ。柏原さんにはふられるわ。マジでろくなことがねぇんだよ、こっちは!」
「後半は私ですか? 私のせいですか? 全然関係ないですよね?」
「うるせぇな。とにかくお前のせいで、俺の人生狂いっぱなしなんだ。ちょっと親に責められたくらいでガタガタ言うな」
 もう………。
 成美は悔しさを歯噛みしてやりすごした。
「わかりました。もう怒らないから、今からでもお父さんに電話して否定してください」
「やだね」
「ちょっと、やだねって」
「あのな。誰か好きな奴がいるとでも言わないと、俺は即行見合いさせられるんだよ。そんなのしたら、絶対相手に気に入られるに決まってんだろうが」
 なにその自信。
「絶対に嫌われますから、自信を持って挑んでください」
「……お前、俺が、どれだけ女にもてるか知らないだろ」
「いつもの雪村さんを出せば絶対に大丈夫です。とにかく早く否定してください!」
 紀里谷の嘘だけでも頭が痛かったのに、このままでは実家に顔向けできなくなる。
 成美の訴えに、雪村が微かにため息を吐くのが判った。
「なぁ」
「なんですか。妥協案なら一切聞きませんよ」
「本当に俺と、つきあわない?」
「……………」
 はい?
「正直、今ほど貞操の危機感じることってないんだわ、俺。面倒くさい男に追いかけられるわ、親戚に呼ばれてうかうか出かけりゃホテルに女と閉じ込められるわ。本気でやばいわけ。今の俺」
「……………」
 いや、だからって、でも。
 えええ、もしかしてそれだけの理由ですか?
 好きとかそういうんじゃなくて?
「親戚が勝手にやったこととはいえ、お前の素性、あれこれ調べて悪かったよ。そういう責任もちょっと感じてるし。まぁ、考えといて」
「いや、責任とか言われても」
「なんか、上手くやってけるような気もするし」
「……………」
「俺にとって女って、息もできないくらい好きか、存在価値さえない、のどちらかでしかないんだけど、お前はその中間っていうかさ」
 がっくりと成美は肩から力を抜いていた。
「なんですか、それ。そんなこと言われても、普通うんとは言えないですよ。失礼な」
「いや、だからそれなりに特別なんだよ」
「それは雪村さんの感覚であって、普通はその程度でつきあおうとか言いませんって。すみません、話が堂々巡りになりそうなんで、元に戻していいですか」
「俺が俺の感覚でものを言って何が悪い」
 いや、だから。
「好きかもしれないし、気になるかもしれないし、一緒にいると楽しいかもしれないだろ」
 やけのように雪村は一気にまくしたてた。
「だからつきあおうって言ったんだ。おい、これ以上俺に言わせるなよ。少しはそのない頭で考えてみろ、鳥頭!」
 電話が切れ、いきなり落ちた沈黙の中、成美は一人で取り残された。
 ああ、そういう選択肢も、あったんだ。
 しばらくして、ようやく思考が驚きについてくる。
 確かに雪村さんとなら、上手くやっていけるかもしれない。
 好きかもしれないし、気になるかもしれないし、一緒にいて楽しいかもしれない。
 それも全部――その通りじゃない。
 なんのことはない。雪村さんは、かなり的確に今の二人の関係を言い当てているだけなんだ。
 病室に戻ると、もう雪村父は帰ってしまったのか、父は一人でくつろいでいる風だった。
「花、替えたね。今りんごでも剥くから」
「なぁ、成美」
 背後の父が振り返られずに、成美は聞こえない振りをした。
「まだ若いんだ。いくらでも迷って、色んな男を好きになればいい」
「……………」
「お前はしっかりしているから、もう心配しないことにしたよ。ただ、中途半端な気持ちで付き合っている男なら、もうお父さんの前には連れてくるな」
「……………」
「最後の最後に、これと決めた相手だけをお父さんの前に連れて来なさい。それがどんな男でも、お父さんは頷くよ。――多分な」
「……………」
 ――お父さん。
 お父さん……ごめんなさい。
 不意に目の奥が熱くなる。振り返らないままで頷いて、成美は急いで病室を出た。
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 お父さん。
 私が、お父さんに会って欲しい人はね。
 30過ぎて、バツ一で、顔はいいけど性格は悪くて、嫉妬深くて執念深くて。
 おまけに人間離れした聴力を持つ、デビルマンみたいな人なんだけど。
 私の、身も心もあますところなく奪っておいて、それなのに平気で前の奥さんのところに戻っていってしまうような。そんな冷たい男なんだけど。
 本当は寂しがり屋で、誰より優しくて繊細で。
 傷ついた心を、自分で癒すこともできないくらい不器用で。
 冷たい手は、私が温めてあげないと、いつか彼の心ごと凍りつかせてしまいそうで――
「…………」
 立ち止まって泣く成美を、行き交う人がそっと振り返っていく。
 ――氷室さん……。
(僕のことが、好きですか)
 そんなの、当たり前じゃないですか。 
 こんなに好きにさせておいて、どうして今さら、そんな当たり前のことを聞くんですか。
 もう私の心の半分には氷室さんが住んでいて、それはどうやったって、何をしたって消えやしないのに。
 あなたの心に、もう私はいないんですか。
 あなたは今、辛くないですか。寂しくはないですか。
 私はもう――息をするのも、辛いです。
 あなたが消えてしまったこの世界で、生きていくことすらできそうもないんです。
 全てを、最初からなかったことにしてしまわなければ。――
 談話室の前で、成美はふと足を止めていた。
 そこで以前、明凛の妹の姿を見たことを思い出したからだ。
 当然のことながら、そこに紫凛の姿はなく、子供が数人、寄り集まってテレビを見ているようだった。
 ――あ……。
 成美は吸い寄せられるように、彼らの背後に足を進めていた。
 キーホルダーのキャラクターしか知らなかった成美が、実際に放映されているアニメーションを見たのは初めてである。
 北風と太陽。
 液晶画面の中では、真っ赤な太陽ちゃんが涙をこぼして泣いている。
 とても悲しそうに、辛そうに泣いている。
「太陽ちゃん、どうしたの……」
 成美はつられるように、一番近くに座っている子供に聞いていた。
「北風くんが、消えたんだよ」
 まだ幼児の面影が残る女の子が、たどたどしく言って振り返った。
 偶然とはいえその残酷な符号に、成美は表情を強ばらせている。
「北風くんは、太陽ちゃんが好きなんだけど、北風くんが近くにいると太陽ちゃんはお仕事ができないんだよ。だから北風くんは、遠くにいってしまうことにしたんだよ」
「そこは、太陽ちゃんが何をしたって行けない場所だよ。日のささない氷の世界で、太陽ちゃんがそこに行ったら、死んでしまうんだよ」
 別の子が、怒ったように説明してくれる。
「死ぬんじゃないよ。冬将軍のレイカ様に殺されるんだよ」
「同じじゃん。死ぬって殺されるってことなんだから」
 子供たちが言い合いを始める。
「それは、悲しいお話だね」
 微笑んでそう言ったつもりなのに、気づけば成美は、しゃがみこんで泣いていた。
「お姉ちゃん、これ、アニメだよ」
「嘘の話で、本当のことじゃないんだよ!」
 驚いた子供たちが、次々に駆け寄って慰めてくれる。成美は泣き笑いを浮かべながら、首を横に振った。
「ごめん……そんなんじゃないから」
「そんなんじゃないの?」
「うん。ちょっと悲しいことを思い出しただけだから」
 二人で交換した北風と太陽のキーホルダー。
 現実でも架空でも、結局私たちは、別れるさだめだったのだろうか。――
「太陽ちゃんは、北風くんを探しに行くよ」
 誰かが、不意に力をこめて言った。
 成美は顔をあげていた。
「僕この話の、原作を知ってるもん。太陽ちゃんはこれから、北風くんを探しに旅にでるんたよ。そして氷の世界でレイカ様と対決するんだよ」
「どうなるの」
「ハッピーエンドなの?」
「氷の世界のレイカ様は無敵だよ? 太陽ちゃんは死んじゃうの?」
 たちまち、男の子のトーンが下がる。
「それは、……よくおぼえてないけど」
 なんだよ。だったら言うなよ、というブーイングが飛び交う。男の子は顔を赤くした。
「結末なんて、どうでもいいんだよ。ようは、太陽ちゃんが北風くんを探しにいくことが大事なんだから!」
「どうでもいいことないよ」
「結末が一番大事じゃん」
「それでも、ここで太陽ちゃんが諦めちゃったら、お話はこれで終わっちゃうだろ!」
 成美は目を見開いていた。
 私が諦めたら。
 そこで、私たちの何もかもが終わる。
 でも、私が諦めなかったら――?
(ただ愛されるばかりで、愛する男の本当の姿を知ろうともしない。それゆえの悲劇であり、当然の結末よ。そうは思わない)
 本当は、判っていた。
(映画でも現実でも、愛とは常に戦ってもがいて、そうして自らの手で勝ち取るものよ。怠惰な女は失ったものにすら気づかない。そんな女には、せいぜい悲劇がお似合いなのよ)
 本当は、あの時から判っていた。
 この数ヶ月、自分が戦うことを畏れて、ただ逃げ続けていたことに。
(沢村さんは、きっと私を待っていてくれると思っているのよ)
(今も一人で、私が見つけてくれるを待っているような気がするのよ。今まで私は、彼のことを何ひとつ知ろうとしなかった。だから今度は、私が彼を見つけてあげたいの)
 その戦いに、多分だけど敵はいない。
 いるとしたら、それは――傷つくことを怖れる自分自身の、心だ。
 柏原課長にしても、絶対の自信があって、あんなことを言ったんじゃない。
 課長だって、怖いし不安に違いない。それでも逃げずに、愛する人の心を探し出そうとしているのだ。
(もし僕が、自分を隠してしまったら、あなたは僕を探してくれますか)
「……………」
 探して欲しいんですか。
 いいえ、あなたの意地悪な性格なら、私はよく知ってます。
 探して欲しいから言ったんですよね。
 あの時にはもう、あなたは自分を隠してしまうことを、決めていたんですよね。
 本当にずるい。そんなの――そんなの無理に決まってるって、あの時も私、言ったじゃないですか。氷室さん………。
 私もそこまで馬鹿じゃない。
 ちょっとくらいなら、あなたが消えた意味も理解しているんです。
 だってあなたは最初から――いつか、私と別れるつもりでいたでしょう?
 自分の中に、絶対に私を入れてはくれなかったでしょう?
 あの日、あなたは、私との距離感を今までのように保てないと気がついたんじゃないですか。
 あなたの中で、何かがそれを、決意させたんじゃないですか。
 その何かが怖くて、ずっと目を逸らし続けてきたけれど―――
 気づけばあれほど頬を濡らしていた涙は乾き、成美はぼんやりと窓越しの夜空を見上げた。
「彼にしか、判らない場所……」
 彼を知れば、きっとたどり着ける場所。
 氷室さん。
 あなたという人を、本当の意味で知ることができたなら。
 私もそこに、たどり着くことができますか。
 あなたはそこで――今も私を、待っていてくれるんですか。
 凍えた手を抱いて、一人きりで、孤独に耐えているんですか。
 長くて暗い、終わりのない夜の世界で。
 だったらもう……。
「……もう、私が助けに行くしかないじゃないですか」
 立ち上がった成美は、目の端にたまった涙を払い、小さく深呼吸してから歩き出した。
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                                     終




 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。