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「また来てるぞ。例の女」
――冗談だろ……マジで……。
背後から聞こえる声に、沢村烈士は思わず目を閉じてため息を吐いた。
「新顔だけど、どこのセレブかな。一昨日と昨日で二百万だぜ」
「今夜も一人なら、俺がヘルプにつきたいんだけど」
「いや、俺が行く。見ろよ、あの足首の白くて細いこと。ふるいつきたいくらい――」
そう言った脚フェチ先輩ホストの前に、沢村は拳を突き出した。
それは音をたてて男の顔の横――化粧合板の壁にめりこみ、蒼白になった男が、少し下から沢村を振り仰ぐ。
「……悪いけど、指名されてんのは俺ですから」
殺すぞ、マジで。
そんな汚い目と言葉で、あの人を汚したら。
「な、な、なんだよ。てめぇ、し、新人のくせに、せ、先輩の俺に暴力を」
「すみません。壁にゴキブリ這ってたんで、つい」
そう言って壁から拳を引き抜くと、背後で他の先輩ホストたちが色めき立った。
「指名されたくせに、完全無視して他のテーブルの客についたの、どこの誰だよ」
「店長の知り合いだからって、いい気になってんじゃねぇぞ」
「うるせぇ!」
声を荒げて怒鳴っただけで、所詮喧嘩慣れない顔だけホスト連中は一斉に縮み上がる。
沢村は、肩をいからすようにしてスタッフルームを出た。
こっちは今、それどころじゃねぇんだよ。
二日で二百万って、安月給の公務員のくせに、マジで頭いかれてんのかよ。あの人は。
なんでまだ懲りないし、判らないんだ。
もう――終ったんだよ、何もかも。
「烈、昨日の上客、また来てんだってな」
フロアに出る直前で、行き交う男に声をかけられた。
ナンバーワンホストの楓(かえで)である。ダントツのナンバーワンだけあって、外見はモデル並みの美形だが、性格は相当姑息でいじましい。ナンバーワンの売上を保持するためなら、同僚ホストの客を寝とる程度のことは平然とやる男だ。
「すげぇ金回りがいいようだけど一体どこのお嬢だよ。お前の元カノ? 逃げるほど嫌ってんなら、いっそのこと俺に」
「すみません、客、待たせてるんで」
沢村は、むっとする楓を押しのけるようにして、安っぽい照明が乱舞するフロアに入った。
時刻は日付が変わる少し前。金曜の夜とあって全てのボックス席が満席だ。
正直、怒りで息もできないくらいだった。なのに、一番奥のテーブルにぼつんと座るその人の姿を見た瞬間、心の奥底に閉じ込めた別の感情が溢れ出しそうになっている。
「…………」
うつむいてその感情をやりすごし、小さく深呼吸してから、沢村はテーブルに向かった。
「お待たせしました」
ソファに座るその人が、綺麗に整った顔を上げる。あえて目を合さないように少し距離を開けて隣に座り、沢村はポケットから煙草を取り出した。
「……馬鹿じゃねぇの、あんた」
脚を組んで、くわえた煙草に火を点ける。
その人は何も言わず、静かに佇んで沢村を見上げている。
「昨日あんだけ言ったのに、まだわかんねぇのかよ。てか判るだろ。マジで俺、迷惑してんだけど」
口から離した煙草の煙がその人の方に流れていく。
沢村は微かに笑って、肩をすくめた。
「こんなとこまで追いかけてこられると、むしろキモいっつーか、怖いっつーか? 処女って面倒くせーな。悪いけどさ、もうあんたの顔を見るのもウンザリなんだよ」
「コートを脱ぎたいんだけど、いい」
しかしまるで意に介さず、明凛はいきなりそう言って立ち上がった。
はぁ? と沢村は、思わず呆れた声をあげる。
――聞いてなかったのか? もしかして。
一昨日も昨日もそうだったが、こっちが真剣になるだけ無駄な気がするのは何故だろう。何を言っても、どんな言葉で侮辱しても、いまひとつ相手の胸に響いていないような気がするのは。
「みっともねぇな。そんなもの、入る時に店の奴に預けとけよ」
みれば確かに明凛は、黒のトレンチコートを着たままだ。もう春も終わろうとしている時期に、少し季節外れな装いである。
「そうは思ったけど、他の人に触れられるのも嫌だったから」
「……は?」
触られるのが嫌?
握りしめた自分の拳が、わなわなと震えるのが沢村には判った。
だったら最初から、怪しげなホストクラブになんか来るなよ!
一昨日、昨日と、ここの連中があんたを値踏みし、目で犯し、手で触れる度に、こっちがどんな思いをしたのか、マジで判ってんのか。
ここは、いってみれば女を糧にのし上がろうとするピラニアどもの巣窟だ。ちょっとでも隙を見せればあっと言う間に骨までしゃぶり尽くされる。
「脱がせてくれる」
「え?」
「コート」
「…………」
わざとかよ。マジで……。
「いいですよ。それが仕事ですから」
かろうじて冷めた目を取り繕って立ち上がった沢村は、明凛の着ていたトレンチコートを背後から脱がせようとした。――と、次の瞬間、ぎょっとしてコートごと明凛の肩を抱き包む。
真っ白な肩と、胸元の大きく開いたキャミソールみたいな白い服がいきなり飛び込んできたからだ。
「ちょっ、ちょちょ、なんなんすか、これ」
「何って、イブニングドレスだけど」
沢村の手を押しのけて、明凛は自分でコートを脱ごうとする。
沢村はますます慌てて、その手を上から掴んで止めた。
「まっ……、脱がないでっ。このままで、この店、冷房ききすぎですから」
「……暑いくらいだけど」
「寒いんです。今に、凍えるくらい寒くなります」
いやもう、本当に――
勘弁してくれ。頼むから。
ようやく明凛を座らせた沢村は、頭を抱えたくなっていた。
一体なんの悪夢なのか。灰谷市できっぱり別れたはずの柏原明凛がいきなりこの店――歌舞伎町のホストクラブ「雅美MIYABI」にやってきたのは、今から三日前のことだった。
バイトを転々とした後、昔の友人のつてでこの店で働きだして一ヶ月が経つ。
カリスマホストや有名店がひしめく歌舞伎町にあって、全く無名の、客といえば仕事帰りのホステスくらいしか寄り付かないような場末のクラブに、今や霞ヶ関の官僚となった明凛が偶然来るはずがない。
――マジで謎だよ。一体どうして、この場所が判ったんだよ。
再会したその瞬間の感情は、今でもよく思い出せない。
驚きとも感動とも違う。むろん嬉しさとは程遠い。強いて言えば――辛い、だろうか。
また、あの時と同じ真似をしなければならない。
二度と会いたくないと思わせるまで、この人を傷つけないといけない――
しかし、事は、沢村が思うほど簡単には進まなかった。
最初の夜も、これでもかというほど侮辱した挙句、沢村は別の女性客のアフターについた。
もちろんそんな気分でもなかったから、結果として指名客一人を怒らせてしまったが、それ以上に柏原明凛を怒らせ、失望させることができたはずだった。
――が。
「すげぇぜ、あの客!」
「烈士が帰った後、一人でドンペリ、しかもピンクを五本オーダー。一晩で結局、百万は落としていったんじゃねぇの」
「おい、どこであんな上客見つけたよ」
まるで悪夢のようだった。
再び明凛が店を訪れた翌日の夜、沢村はホストを辞めようと思ったが、あたかもその覚悟を読みきったように、明凛は極めて冷淡に言い放ったのである。
「沢村さん、仮にあなたがここを辞めても、貯金が底をつくまで、私は通い続けるつもりよ」
それが嘘でも脅しでもない証拠に、その夜も沢村はアフターと称して店を出たが、明凛はその後――再びドンペリ五本をオーダーしたのだ。
そして今日だ。
絶対に脅しだと判っていても、このチキンレースを降りる勇気が、沢村にはない。
こんな裏黒い世界に脚を踏み入れてしまった明凛のことが、正直、心配でならないのだ。なんとしても、今夜中に説得して、二度と来ないと思わせるようにしなければ――
「柏原様、ようこそいらっしゃいました!」
いきなり響いた上機嫌な声が、沢村の思考を遮った。
この店のオーナーで、現役ホストでもある雅美(みやび)である。雅美はむろん源氏名で、本名は山下辰郎。沢村の中学時代の知り合いで、元は池袋あたりで名の売れたチーマーだった。
ただし今は、そんな凶暴さは欠片もない。苦労して一人で起業しただけあって、ただの強欲商売人である。
今も板についたホスト座りでおしぼりを差し出す雅美の目には、一晩で百万落とす上客は、人ではなく札束に見えているに違いなかった。
「3日連続のご来店、まっことにありがとうございます。今夜のオーダーは、いかがいたしましょうか」
「昨日と同じものを、皆さんのテーブルに」
「ま……っ」
ぎょっとした沢村が遮るより早く、雅美が大声を張り上げた。
「はいーっ、ドンペリ八本、入りましたぁっっ」
それを合図に、ホスト全員が立ち上がってのドンペリコール。手拍子とタンバリンとミラーボールの鮮やかなライトが、狭いホールに充満する。
「ちょっと待って下さい。辰郎さん」
喧騒の中、ホールを出て行く雅美の腕を、沢村はスタッフルームの手前で捕まえた。
客の前とは別の顔になっている雅美は、不機嫌そうに売上票を取り上げる。
「その呼び方やめろ。嫌でも長髪のオヤジ面連想すっから」
「いや、だから雅美さん。――今のオーダー、取り消してください」
「無理。馬鹿かお前。客から金取らずに何取れっつ―んだよ」
「あの人は」
言いかけた沢村は、そこで言葉を飲み込んだ。
ここで、彼女の素性を明かすわけにはいかない。
こんな店で、もし弱みのひとつでも握られたら、あの人の将来に大きな傷を残すことになる。
「あの人は、普通の会社員で、金持ちでもなんでもないんです。俺、説得して、二度と店にこないように言いますから、今のオーダー、なかったことにしてください。――お願いします!」
「知るかよ、そんなの」
雅美は冷淡に肩をすくめた。
「相手が貧乏だろうが金持ちだろうが、キャッシュ持ってる限り、上客のお客さまだよ。何ぬるいこと言ってんだ。やっぱりお前、ツラはよくても向いてねぇよ。この仕事」
そう言って雅美は、冷めた目で沢村を見上げた。
「だいたい、お前にあの女が説得できんのかよ。前も似たようなことがあったけど、ああいう女は一度腹括ったら手強いぞ。最後はお前の首に鉄鎖でも巻きつけて、力ずくで引っ張ってくんじゃねぇか?」
「ふざけないでくださいよ。俺、マジで」
雅美はうるさげに顎をしゃくった。
「いいから、行け。リッチな極上美女に指名されたいガキはいくらでもいるんだ。ぼやぼやしてると、上客、持っていかれるぞ」
しまった。――と思った時にはもう遅かった。
フロアに駆け戻ると、明凛が座るテーブルの周囲に、男たちが黒蟻みたいにたかっている。
明凛はその中心に立っていて、よってたかって伸ばされた腕に、黒いコートを脱がされているようだった。
「ちょっ……」
ちょっと待て!
その時、黒い渦の中から、一羽の優雅な白蝶がふわりと舞い上がったように見えた。
――え……?
頭まで登った血が一気に引いた。
白い蝶――純白のイブニングドレスを着た明凛が、ゆっくりとフロアの中央に進み出る。
エスコートしているのは、いつの間にその輪に加わったのか、ナンバーワンホストの楓だ。
ホールの中央にあるのはグランドピアノ。
その昔、楓のために一番の上客がプレゼントしたという、雑居ビルの地下には全く場違いな代物である。
自称元音大生の楓は、時々その客のために、たいして上手いともいえないピアノ演奏をプレゼントするのだ。だからそのピアノの蓋は、他のどの客が頼んでも決して開かれることはない。
ピアノの蓋を開けた楓は、しかし椅子には座らなかった。代わりに明凛を振り返り、胸に腕をあてて恭しくお辞儀をする。そして「どうぞ」と明凛を促した。
「え? どういう趣向?」
「まさかと思うけど、新顔の客にピアノを弾かせるの? 嘘でしょ」
ありえない事態に、客席がどよめいている。
――嘘だろ……。
沢村は、息もできなかった。
ピアノに向き合う明凛が身につけているのは、真っ白なマーメイドラインのドレスだ。
それは、決して、沢村への嫌がらせのために着たわけではなかったのだ。
ピアノの前に座った明凛は、楓に軽く頭を下げてから、静かな面持ちで両手を鍵盤の上に落とした。
もう音楽もざわめきも止んで、店にいる全員が、この異常事態に注目している。
緩やかで優しい旋律が、静かに店内に流れ始めた。
忙しげな指さばきとは裏腹に、メロディはあくまで、スローで、そして優しい。
リストのため息。
多分、そんなに上手くはない。時々音が外れるし、指も何度か引っかかっている。
それでも額に薄く汗を滲ませ、明凛は戦うように指を動かし続けている。
――馬鹿じゃねぇの。
沢村は壁に背を預け、そして目を閉じた。
本当に馬鹿だ。
いまさら俺とあんたが、上手くやっていけるはずがない。
そんな真似をしても、なんの意味もないというのに――
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