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「直斗」
 背後から明凛が声をかけると、フェンスの前に立っていた人は、少し眩しそうに振り返った。
「待った?」
「いや。そうでもないよ」
 冬の午後。緩やかで優しい日差しが、並び立った二人の頭上に降り注いでいる。青い空には飛行機雲が幾筋も尾を引いて、今も、一機の戦闘機が轟音をたてて遥か天空を飛び去っていった。
「何年ぶりかな」
 フェンスに指を絡め、明凛は思わず懐かしさから呟いた。
 そのフェンスに背を預け、直斗が少し笑うのが判った。
「10年以上は前になるよ」
「そんなになるっけ」
 本当は、よく覚えている。
 最後にこの場所に来たのが高二の初夏。あの日のことは、最初から最後まで――いまもなお鮮やかに、胸の奥深くにやきついている。
「航空ショーって、いつやってるの」
「ここではもうやってないよ」
 目を輝かせた明凛の問いに、直斗は少しだけ寂しげな横顔で答えた。
「何年か前に事故があって、ずっと中止されたままなんだ。自衛隊も、今は色んな意味で余裕がないしな」
「そう……」
 唇から笑みを消して、明凛は視線を元に戻した。
 この空も景色も、昔と何ひとつ変わらないように見える。
 でも、時は確実に過ぎ去り、季節も人も移ろっていく。――変わらないものなど、この世界には何もないのだ。
「お前にしては、粋なはからいだよな」
 うつむいた直斗が微かに苦笑して言った。
「まさかこんな場所に呼び出されて、プロポーズの返事を聞かされるとは思ってもみなかったからさ」
「…………」
「聞くまでもないって気もするけどな」
「……ごめん」
 覚悟は決めていたはずなのに、不意に寂しさがこみあげて、明凛は眉根に力をいれたまま、少しだけ笑った。
 ふぅーっと直斗が長い息を吐いて天を仰ぐ。
「どうせ断るなら、電話とか、そういうのにしろよ。わざわざ思い出の場所に呼び出すなんて、むしろ残酷じゃね?」
「本当に、ごめん」
 微笑した目を空に向けて、明凛は言った。
「それでもここに、一回は戻らなきゃいけないような気がしたんだ」
「……なんで?」
 直斗が訝しく眉を寄せる。
「だって、戻らなきゃ」
 あの日の約束を果たさなきゃ。
「なんだか直斗が、いつまでも迷っているような気がして」
「…………」
「まるで迷子の子供みたいに、私のところに戻らきゃいけないって、いつまでも思い続けているような気がして」
「…………」
 今度は直斗が、眉に力を入れて、少しだけ顔を歪ませた。
「迷子って、俺、いくつだよ」
「そうね、おかしいこと言ってるよね」
「――本当にお前は……」
 呟いた直斗は長い息を吐き、フェンスに背を預けたままでしゃがみこんだ。
「俺のことなら、なんでもお見通しなんだな」
「そうなのかな」
「そうだよ」
 そしてしばらく無言になった直斗は軽く唇を噛んだまま、何事か沈思しているようだった。
「じゃあ、多分、驚かないな」
 立ち上がった直斗を、明凛は無言で見上げていた。
「高2の終わりくらいかな。紫凛と俺、一時だけどつきあってたんだ」
 まるで予想もしていなかったのに、やはり驚きはまるでなかった。
「つきあってたっていうより、実際はなし崩しにそういう関係になっただけかな。紫凛には別に彼氏がいたし、俺は――俺はなんだか、……どうでもよかったんだ。何もかも」
「…………」
 当時のことを思い出し、明凛はそっと眉をひそめた。
 その年の春、直斗の父が情報漏えいの罪で免職になり、同時に末期癌が発覚して病床についた。
 警察官僚の罪は新聞で大きく取りざたされ、結局直斗は甲子園出場を目前に野球部を辞めることになった。おそらくだが、大学進学を諦めたのもその頃だろう。
「あの頃の明凛は、直斗なら大丈夫だって、よく言ってくれたよな。俺もそう思ってたし、そうありたいと思ってた。でも――表向き大丈夫なふりはできても、胸の中は失望と怒りでドロドロだった。クソ親父、なんてことしてくれたんだ。これで俺の人生終わったじゃねぇかって、そんなことばっか考えてた」
「…………」
「そんな時、紫凛がちょいちょい山口まで遊びに来るようになって、――ずるずる一緒にいる内にそういう関係になった。今思えば後ろめたいわ、後味悪いわ、セックス以外は喧嘩ばかりだわで、最悪の関係だったけどな」
 あれほど過去を饒舌に喋った紫凛なのに、このことについては一切語ってくれなかった。
 何故だろう。もし私を傷つけたいのなら、これほど残酷な告白もなかったろうに。
「事件の夜は、久しぶりに紫凛に誘われたんだ。なんなく面倒なことになりそうな予感はしたけど、あの夜はやけに紫凛が荒れてて、ちょっとほっとけない感じだったからさ。――案の定、予想通りの展開になったよ。その辺りの顛末は、以前話したとおりだけど」
 そこで言葉を切り、直斗は肩をすくめて明凛を見上げた。
「やっぱり、驚いてないだろ」
「驚いたよ。でも」
「でも?」
「そういう予感は、あったのかもしれないなって」
「…………」
「時々ね。当時のことを夢に見ることがあるの。時系列なんておかまいなしに、途切れ途切れの場面の連続。でも共通点がひとつだけあって、どの夢の最後も、直斗を失う予感に不安になって目覚めるの。――多分だけど、わかってたんじゃないかな。あの頃から」
「なにが」
 答えず明凛は、天を仰いでうろおぼえのメロディーを口ずさんだ。
 訝しげに眉を寄せた直斗が、しばらくしてから呟いた。
「Tears in heaven……」
「判るの遅すぎ。そんなに下手だった」
「はっきり言う気はないけどな。――なんで?」
 明凛は微笑んで、自分も直斗の隣にしゃがみこんだ。
「エリック・クラプトン。前に直斗に聴かせてもらった時は、タイトルも歌ってる人の名前も知らなかった。後で聞こうとか思ってる内に忘れちゃってた。その曲を、何年かしてから偶然聞いたの。もう紫凛と結婚してた頃よ。――台所で、紫凛がなにげに口ずさんでたから」
「……………」
 明凛は再び、そのメロディを口ずさんだ。
 Would you hold my hand if I saw you in heaven?
 Would you help me stand if I saw you in heaven?
「……なんの曲って私が聞いたら、紫凛はすごく意外そうな顔して、直斗が高校の頃に聞いてた曲だって教えてくれた。亡くなったお父さんの遺品の中にiPodがあって、それにこの一曲だけ入ってたんだって。歌詞の意味が判った時、私にもようやく判った気がした。あの時の直斗の気持ちが」
「…………」
「私には見えてなかった直斗が、紫凛には見えてたんだなって、そう思った」
「…………」
 Tears in heavenは、イギリスのミュージシャン、エリック・クラプトンの作った楽曲で、亡くなった息子への想いを綴ったとされている。
 自分が天国にいけるような人間ではないと嘆く父が、もう二度と会えない息子への想いと後悔、それでもなお前を向いて生きていこうとする決意が込められた曲だ。
 父の死後、その曲を見つけた直斗は、――ずっと憎み、恨んでいた父の気持ちに初めて触れたのかもしれない。
 そして後悔したのかもしれない。理解し合えないまま別れてしまったことに。辛かったのかもしれない――いや、辛かったのだろう。そんな素振りは顔にも態度にも出さなかったけれど。
 その葛藤に、多分、紫凛だけは気づいていた。
 山口にまで直斗を追いかけていったことを言わなかったのは、それが紫凛の嫌がらせでも気まぐれでもなく、――きっと、恥ずかしくなるほど真摯で真面目な気持ちだったから……。
 明凛は想像するのをやめて、唇をそっと噛んだ。
「……紫凛が見えていたものが、私には見えていなかった。でも、それは全部私のせいだと思う。私が本当の直斗を見ようともしなかったし、知ろうともしなかった。……今思えばそういう後悔が、あんな夢ばかり見せていたのかもしれない」
「…………」
 明凛は少し笑って直斗を見上げた。
「過去から、私は何を学ぶべきだと思う?」
「そんなの、とっくにお前には判ってるんだろ」
 直斗は苦笑して立ち上がった。
「忠告するまでもなかったな」
「どういう意味」
「俺は迷ったけど、お前は迷わなかった。――そうだろ」
 今度はお前が迷うなよ。
 先日別れた夜に、直斗が残した最後の言葉。
 一瞬言葉が出てこなくなった明凛は、笑って空を見上げた。泣いてしまいそうだった。
「よかったよ」
「…………」
「俺はよかったと思ってる。それでいいよ。いいんだよ、明凛」
「…………」
 ――直斗……。
 溢れそうな思いを飲み込み、明凛は小さく頷いた。
「……ありがとう、直斗」
 ありがとう。
 そして、本当にさよなら。――



 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。