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「沢村ですか。ええ、そりゃあ同じクラスだったし、よく覚えてますけど」
 生真面目そうに髪を撫で付けた男は、少し不審げな目を明凛に向けた。
「奴、市役所に入って真面目にやってるって話ですけど、何か問題でも起こしました?」
 明凛は少しためらった後、伏谷直弥という男に自分の立場を明らかにした。
 沢村の元上司で、そして今は――姿を消した彼の行方を探していると。
 アポをとって尋ねた元同級生の会社。小さな印刷会社の応接間は、インクと汗の匂いが染み付いていた。
 元上司だけでは説明できない理由を、男は敏感に感じ取ってくれたのかもしれない。まじまじと明凛を見ると首をかしげ、そしてお茶を飲み干した。
「残念ですが、もう何年も連絡をとっていないんで、行き先の心当たりはさっぱりです。ご承知でなかったらあれなんですが、沢村とは一年に満たないつきあいでしたし」
「退学のことも、その当時の事件のことも、一応は知っています」
「ああ、……まぁ、あれは本当に、気の毒な話だったんですけどね」
 苦く眉を寄せた伏谷は、少し不思議そうな目を明凛に向けた。
「あの、失礼ですけど」
「はい」
「もしかして、ですけど、昔吹奏楽部でご一緒したことがありませんでした? いや、僕は鯖高で、もちろんあなたと同じ部ではないんですけど、――その、時折」
 あ、と明凛は唇に手をあてていた。
「二、三度ですけど、合同練習でそちらの学校に赴いたことがあります」
「そう、そうですよ。あなた部長で――確か指揮者、やられてましたよね。いやぁ、どこかで見たと思ったんです。やっぱりそうだった。光栄です。僕ら一年は、みんなあなたのファンだったんですよ!」
「…………」
 明凛は唖然としつつ、興奮ぎみに差し出された男の手をとり、握手した。
 そうだった。
 そういう意味では私は――当時鯖浦高校に在籍していた沢村と、知らない間にすれ違っていたかもしれないのだ。
「そのあなたが、沢村の上司。いやぁ、世の中って……なんと申し上げていいか、わかりませんが……」
 そう続ける伏谷の表情がひどく困惑しているようだったので、明凛は眉を寄せていた。
 この男はもしかして、沢村が退学になった事件のことまで知っているのだろうか。その被害者が私の妹であることまで――まさか。
 明凛は落ち着かない気持になり、たちまちこの場を去りたくなった。
 思い知らされずにはいられない。紫凛が片時も逃げずに向き合ってきたことから、自分はずっと――目を逸らし続けてきたのだ。認めてしまうと、生きていくことさえできなくなりそうな気がしたから。
「お役に立てる情報がなくて申し訳ありません。でも沢村は、気まぐれで仕事に穴をあけるような奴じゃない。何か……人には言いがたい事情があったんだと思いますよ」
 話が逸れたことに安心しつつ、明凛も微笑して頷いた。
「私もそう思うんです。だから、今どうしているかが心配で」
「奴が退学した時と前後して、母親代わりだった姉さんが死んじゃいましたからね。元々が東京生まれで、他に身寄りもないって話ですし、……他の連中にも虱潰しに聞いてみますが、あまり期待しないでくださいね」
 後半の言葉は殆ど耳に入ってはいなかった。
 明凛は伏原を見据えていた。
「お姉さんが、亡くなられた?」
「え、ええ。聞いてないですか。僕らは病気だったって風の噂でききましたけど、まぁ、自殺だったんじゃないかって。なにしろあんな形で、沢村、学校辞めちゃいましたからね」
「あんな形とは……」
 次の言葉を平然と口にするには、相当の覚悟が必要だった。
「女子高生を、集団で暴行した事件が原因で、ということですか」
「そうです」
 諦めたように、伏谷は口を引き結んで頷いた。
「すみません。どうごまかしても、ここをぼかして話なんてできませんよね。実は僕らの間じゃ有名な話でした。……僕らの先輩が、……白嶺高校吹奏楽部の柏原さんを……」
「……………」
「一年くらいたって、それが実は人違いで、被害にあわれたのは双子の妹さんだったって話が伝わってきたんですけど……いずれにしても、ひどく気の毒な話だと……」
 胃の中で、何かがドロドロ荒れ狂っている。
 それがいきなりせり上がってきて、喉を塞ぎ呼吸を止める。
 しかし、嵐のような葛藤はその一瞬で潮のように引いていった。明凛は小さく、深呼吸した。
「どうぞ気にせずお話ください。その話は、妹からも沢村さんからも聞いています。こういっては理解しがたいと思いますが、二人の間にそういう意味でのわだかまりは、もうなくなっているようですので」
「そりゃ、ないですよ。あるわけがない」
 いきなり、驚いたように伏谷が立ち上がった。
 明凛もまた驚いたまま、思わぬ反応を見せる男を見上げている。
「だって沢村は――そういう意味じゃ間違いなく無関係なんです。あいつにそんな真似、できるはずがない。それは、みんなが言ってるし、知ってます。当時、吹奏楽部にいた連中なら、多分全員が違うって断言します」
「……吹奏楽?」
 様々な驚きが、伏谷の言葉には含まれていたが、明凛がまず聞いたのは思いもよらないその言葉だった。
 何かを訴えるように、伏谷は頷いた。
「本当に覚えてないですか」
 なにを、だろうか。
「沢村は、いつも僕らの合同演奏を体育館の隅で聞いてたんです。最初は、女子狙いだろうなんてみんなで馬鹿にして、警戒してました。でも、そうじゃないことは、それからほどなくして判りました。あいつは――守ってたんですよ」
「守って、いた?」
「あなたを。柏原さんを、ですよ」
「…………」
「僕も三年生から聞いて初めて知ったんですけど、妹さんを襲った連中は、その年の夏頃には、柏原さんを襲う計画をたてていたそうなんです。それを――沢村が、身体を張って助けたんだって聞きました。覚えてないなんて、そりゃ、残酷すぎますよ。だってあいつ、それで三年に目をつけられて、お姉さんのことで色々脅されて、結局秋には仲間に入らざるを得なくなったんですから」
「…………」
「そんな沢村が、ですよ。できるわけないでしょう。あなたの妹ですよ? 同じ顔してるんですよ? どうやったら、そんなひどい真似ができるんですか。僕は確信してるんです。沢村はただ巻き込まれただけだろうって。結局沢村一人が一番長く警察に勾留されてたのも腑に落ちない。真相は誰も言わないですけど――沢村は、絶対そんな奴じゃないんです」
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「何、弾いてるの」
 背後から声をかけられ、明凛は膝の上で動かしていた指を止めた。
「……リスト。久しぶりだから、忘れちゃった」
「そ」
 紫凛はそっけなく頷くと、明凛の隣に腰を下ろした。
 病院の屋上。鮮やかな夕陽が、長い影をコンクリの床に落としている。
 並んで座る二人の距離は、30センチと開いていない。でも二人の間にはそれよりもっと長い距離が――物心ついた頃から開いていた。
 明凛には、わがままで奔放な妹が理解できたことなどなかったし、紫凛もまた、それは同じだったに違いない。なまじ顔が同じなだけに、写し鏡の中に未知の――ひどくおぞましい生物を見るようなものだ。
 どう誤魔化しても、それが姉妹が互いに抱きあっていた真実なのだ。
「顔、どうするの」
 さばさばと明凛が訊くと、紫凛は少しだけ肩をすくめた。
「みんな言うのはそのことばかりね。私はせいせいしてるんだけど、気味悪いくらい同じだった顔が、ようやく別のものになるんだから」
「直斗は、なんて?」
「他人に今更、聞く話なんて、ないわ」
「…………」
 その他人と。
 どうして七年も夫婦でいられたの。
「で、何。何しにきたの。直斗ならもうここにはいないわよ」
「探してるのは、直斗じゃないのよ」
 明凛は呟き、もう一度指を動かした。
(聴きたいな)
(ほら、……リストの、結構有名な曲で……)
 どうしてすぐにそれと気づかなかったのだろう。
 それは明凛が、高校三年生の定期演奏会で――最後に人前で弾いた曲である。
「二度目に烈士に会ったのは、最初に再会した夜の一週間後よ」
 紫凛が、不意に口を開いた。
 明凛は指をとめ、夕陽に照らされた妹の顔を見る。
「その時には、もう私、何故彼が容疑者として捕まった挙句、長期に渡って拘束されていたのか、その理由を知っていたわ。正直、その意味が判った時は、申し訳なさで言葉も出て来なかった。あの夜――私を逃した後、烈士は現場に戻ったのよ。どうしてだと思う?」
「紫凛の、荷物を取りに戻ったんでしょう」
 冷静に明凛が言うと、紫凛の顔がかすかに歪んだ。
「そうよ。そして間の悪いことに、私のバックを抱えて階段を降りているところを、警察に取り押さえられたの。事後強盗よ。――そんなの、誰も教えてくれなかったし、想像もしてなかった。胸がかきむしられるようだったわ。私が警察で何も言わなかったせいで、彼は――退学になった挙句、たった一人のお姉さんまで失ったんだから」
 明凛は眉根に力をこめ、自分の胸を吹き荒れる嵐が収まるのをまった。
「……同時にそれが判った時から、烈士が私の、唯一の希望で、救いになったわ」
 淡々と紫凛は言った。
「わかるでしょ。小さい頃から異端児扱いされて、優秀な双子の姉と比べられてばかりの惨めな私に、烈士だけが手を差し伸べてくれたの。少なくとも彼にとって、私はお姉ちゃんの身代わりじゃない。彼は私を、映画の中の怪物みたいに命がけで助けてくれた。それがどれだけ嬉しかったか、幸せだったか、お姉ちゃんに判る? 想像できる?」
 顔を向けた紫凛の目が震えている。明凛は黙って、ただ唇を引き結んだ。
「……烈士と、二度目に会った夜」
 目尻を指で軽く払い、紫凛は続けた。
「その夜、……時々だけど、烈士が不思議そうに私を見るのがよく解った。知っているはずなのに思い出せない……そんな感じね。ひどくもどかしそうな目をしてた。結局その夜ホテルに行ったの。誘ったのは私だけど、多分彼も、私の正体が知りたかったんじゃないかしら」
「…………」
「その夜セックスして、……生まれて初めて男の身体に興奮したわ。私、この人が好きだと思った。直斗とお姉ちゃんが運命の人同士だったように、もしこの世に運命なんてものがあるなら、私の運命はこの人につながっているんだって本気で思った。この人が私の傍にいてくれたら、もう過去なんて忘れられるんじゃないかって」
「…………」
「でもその最中、烈士は、まるで別のことを考えていたのね。それが判ったのがシャワーを浴びて戻ってきた時。……烈士は着替えの最中で、私の顔を見もせずに言ったわ。あんたは昔、自分が好きだった女に少し感じが似てるんだって。少し感じが似てるってどういうことって私は笑って、自分の正体を明かそうとした。あの時は本当にありがとう。それからごめんなさいって」
「…………」
「でもその前に言われたの。でもそれは気のせいで、やっぱり全然違ったって。その人は清楚なお嬢様でピアノなんか弾いてる人で、あんたとは全然違うタイプだって。その時ふと予感がしたの。小さい時からそんなことばかりだったから、これはもう直感ね。それってもしかして、柏原明凛さん? 烈士のその時の顔、しばらく忘れられなかったわ」
「……紫凛……」
 ただそれだけしか言えない明凛を、紫凛は静かな目で見上げた。
 その目がみるみる水の底に沈み、ほとばしるように妹は泣いた。
「判らない? まだ判らない? 本当はとっくに判ってるんでしょ? 烈士はあの夜、私を助けたんじゃないの。バイト中だった彼はあの夜、私じゃなくてお姉ちゃんを助けるために現場に行ったの。私のことなんてね、そもそも存在さえ知らなかったのよ!」
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「……その後の私の願いはひとつだけよ。この人の存在に、お姉ちゃんが永遠に気づかなきゃいいのにって、それだけ」
 明凛は黙って、沈んでいく夕陽を見つめた。
「なのに、運命って本当に皮肉ね。その翌年、お姉ちゃんが急転直下で灰谷市に戻ってくることになった。それだけでも驚きなのに、配属先が烈士と同じフロアなんだから。もう笑うしかないじゃない。ここまで見事にお膳立てされちゃうと」
 自分の指をみつめ、本当に紫凛は少しだけ笑った。
「烈士は、自分なんてお姉ちゃんの視界にも入らないなんて言ってたけど、私はそうは思わなかった。これがただの偶然だなんて、どうしても思えなかった。予感というより不思議な確信があったの。お姉ちゃんは、いずれ必ず、烈士のことが好きになるって」
「…………」
「だから烈士に言ったのよ。私はお姉ちゃんを殺してやりたいほど恨んでいて、今もその気持は一向に収まってないんだって。どうしても十二年前の自分と同じ目に合わせないと、私の気が収まらないんだって」
「…………」
「不思議よね。そんなこと、それまで一度も思ったことなかったのに、言葉にした途端、本当にそうしなきゃ気がすまない感じになってきたの。烈士は、正直驚いたと思う。多分その時、初めて彼も気づいたのね。私をこうまで傷つけたのは十二年前の出来事じゃない。……烈士自身なんだって」
「…………」
「人を雇うといった私を制して、じゃあ、俺がやるよって烈士は言ったわ。もちろん、そう言わせるように仕向けたのは私。烈士にそんな真似、死んだってできやしないとわかってたから。そして私の共犯者になると決めた烈士が、本当の意味でお姉ちゃんと恋人になることなんて、絶対にないと思ったから」
「…………」
「そして、もうひとつ大きな楔を彼の胸に打ち込んだわ。それが直斗とお姉ちゃんの密会写真よ。もう知ってるんでしょ。あの時、私はお姉ちゃんの心も直斗の心もひどく残酷に傷つけたのだけど、一番傷つけたかったのはどちらでもないの。――烈士よ」
 明凛はただ、眉だけを寄せた。
 あの夜沢村はどこにいて、どこであの写真を撮ったのだろう。
 いや、写真を撮ったのは本当に沢村だったのだろうか。
「でも、何をしても結局は無駄だった。日増しに烈士は、お姉ちゃんに心を奪われていった。――無理もないわよね。それまで雲の上にいた人が、今は現実に、毎朝顔を合わせられる場所にいるんですもの。だから私もやけになって、その時つきあってた拓哉をお姉ちゃんにけしかけたの。今思えば、とんでもない馬鹿な真似をしたものよ」
「…………」
「その拓哉を烈士が半殺しにしたって聞いた時、私は天に向って吐いた唾が、自分に落ちてきたんだって判ったわ。蛇みたいに執念深い拓哉が、烈士をつきとめるのは時間の問題だと思ったし、そうなったら烈士がただで済むとは思えなかった。――烈士は、それが勘違いでも、12年前私を地獄から救い出してくれた。今度は私が、そうしなきゃいけないって思ったの」
「……沢村さんは」
 はじめて明凛の唇から、乾いた声が出た。
「いつ、紫凛の前から消えたの」
「ホテルで4人が鉢合わせになった……あの翌日よ」
 冷めた口調で、妹は答えた。
「あの夜私、お姉ちゃんを別の場所に行かせようとしたの、覚えてる? わかってたから、今夜私たちをつないでいたものの全てが切れて、烈士は二度と私の前に現れないだろうって。それが私にはわかってたから」
「…………」
「最後にお姉ちゃんのスタイルを真似たのは、烈士への細やかな――いえ、強烈な皮肉よ」
 紫凛は小さな息を吐いた。
「烈士は――絶対にそんなことできないと思ってたけど、見事に私のリクエストに答えてくれた。私が一番ぶつけたかった言葉を、そのままお姉ちゃんにぶつけてくれた。お姉ちゃんが最後に烈士の部屋にいった時、奥に隠れていたのは、……私よ」
 そこで言葉を切り、紫織は少しだけ、顔を歪めた。
「烈士みたいな人でも、泣くのね」
「…………」
「可哀想で哀れな怪物。お姉ちゃんみたいな冷血人間のために」
「…………」
 しばらく俯いていた紫凛は、やがて絞り出すような声で言った。
「なんでもくれたじゃない」
 明凛は黙って、自分もまた視線を下げた。
「お父さんもピアノも、将来の夢も、直斗も」
「……………」
「お姉ちゃん、私がほしいって言ったらなんでも譲ってくれたじゃない」
「……………」
「烈士をちょうだい。他には、もう何もいらないから」
「……できない」
 震える声で、明凛は答えた。
「なんで」
「あの人を……」
 目頭から一筋の涙が溢れ、鼻筋を伝って唇を濡らした。
「あの人を、……愛しているから」


 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。