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              「これからは、私が病院に着替えとか届けに行くから。仕事ならなんとかなるし、お母さんは安心しててね」 
               それだけ言って携帯電話を切った成美は、ちらっと父の病室を振り返った。 
               ――さっきの人、まだ、いるのかな…… 
               父の病室に入ろうとしたら、先客がいた。しかも、とんでもない美人だった。 
               なんとなく入りづらいものを感じ、廊下で母に電話して時間を潰していたのだが…… 
               と、いきなり扉が開いて、中から、その美しい女性が現れる。 
              「じゃあ、日高さん、私はこれで」 
「遠いところ、本当にわざわざ申し訳ありません」 
 これは父の、恐縮しきった声である。 
「よろしいんです。日高さんには主人も私も大変お世話になりましたから。主人も一両日中には見舞いに来たいといっておりますし」 
 美人というのは声まで美しいものなのか、まさに鈴を振るったような美声である。 
「国税は今が繁忙期ですから、無理はなさいませんように」 
 ますます恐縮したように、父。 
 どうやら相手は、父が元務めていた国税庁の部下の奥さん――のようである。 
「ほほ……日高さんも、税理士でいらっしゃいますから、今が大変な時期でございましょう。くれぐれも無理はなさいませんように」 
 ほほ……って自然に笑う人、この世にいたんだ。現実に。 
               丁寧にお辞儀して、その女性は廊下に立つ成美の方を振り返った。成美は、とっさに柱の影に身をかくている。 
               成美の傍らを通り過ぎざま、その女性は実に優雅に微笑んだ。 
 ――あれ。 
 と、成美は思った。 
               どこかで見た……ような微笑みだ。 
               とんでもなく美しいのに、どこかこう、身が縮むというか、胃のあたりが収縮するというか……日々いつも感じているこの感覚。なんだっけ。 
               病室からは、うほん、おほんという父親の咳払いだけが聞こえてくる。えらく緊張している時の父の癖だ。 
 成美は少しばかり眉を寄せていた。 
 ――こんな美人が見舞いに来てるって、お母さん知ってるのかしら。 
 これはちょっとした問題じゃないかしら。この場合、黙っているにこしたことはないけれど。 
 気を取り直して病室に入ろうとしたその時、「あ、ここ、ここ」華やいだ女の子の声がした。 
 見れば若い女性が数人、花束を抱えて病室の名札を指さしている。 
「日高管理官、大丈夫かな」 
「なんか久しぶりにお会いするから、緊張だよねー」 
 またしても、税務署時代の部下たちらしい。すぐに中から父の嬉しそうな声が聞こえてくる。 
 成美は時計を見て、少し時間を開けて出なおしてこようと、ため息をついた。 
                
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               またしても柏原課長と激似の女性に会ったのは、それから二時間後――喉が乾いたという父のために、自動販売機を探していた時だった。 
 人気のない面談室のソファで、一人でぼんやりと紙カップのコーヒーを飲んでいる。 
 どきりとして、成美は足を止めていた。 
 薄暗がりのせいだろうか。本当にそこに、柏原課長がいるようだ。 
 課長とは昨日の夜も会ったし、今朝もすれ違いざまに挨拶した。態度も声も普段どおりでむろん顔に怪我などしていない。 
 ――まさかね……。 
 双子の妹かもしれないという疑念はますます濃くはなったものの、ここで声をかけるような筋合いもない。 
 それに、なんだか課長に増して近寄りがたい。 
 それでも自動販売機は彼女の背後にしか無く、成美は小さく会釈してから、その女性の座るベンチの横を通り抜けた。 
 夜の病棟は怖いほど静かで、今も機械のたてる重低音しか聞こえない。 
 なんとなく背後を気にしつつ、財布から小銭を取り出した時だった。 
「もしかして、私の顔が誰かに似てる」 
 びくっと全身を震わせた成美は、手のひらから小銭の全部を零していた。 
「あら、ごめんなさい。驚かせた?」 
「い、いえ。すみません」 
 慌てて小銭を拾い集める。その視野に、そっと白い手が差し伸ばされた。その時、成美は確信した。爪の形が柏原課長にそっくりだ――この人は、多分。 
「ごめんね。さっきも一階で、私のことちょっと不思議そうに見てたでしょ。そういうの、昔はよくあったんだけど、最近じゃ久しぶりだったから」 
「……そうなんですか」 
 おそるおそる見上げると、女性は優しく微笑んで頷いた。 
「きっと、このすっぴんのせいね。不思議ね、昔はそういうのが嫌で仕方なかったのに、今はむしろ嬉しく感じるなんてね。もしかしてあなた、姉の知り合い?」 
「柏原課長のことですか」  
 成美が心得たように即答すると、女は少しばかり面食らった目になった。 
「あらやだ。じゃあもしかして、市役所の人?」 
「はい、元部下です。日高成美といいます」 
 緊張とテンションはその瞬間がマックスだった。 
 うそー、すごいすごい、私、今、偶然柏原課長の妹さんに会っちゃったよ。それってマジですごくない? きゃー。 
 しかしミーハーな喜びは、女性の顔に視線を向けた途端、はっと重く塞がれる。かなり、ひどい怪我のようだ。 
 課長と同じ顔をした人なら、さぞかし美しいだろうに。 
「そっかー。お姉ちゃんの部下ですか。お姉ちゃんの知り合いには時々呼び止められるけど、このパターンは初めてだな。うん、新鮮だ」 
 女は気さくにそう言って、自分の名をシオリ、と名乗った。 
「リは凛としての凛で、お姉ちゃんと一緒。紫の凛って書いて、紫凛。明るいの凛のお姉ちゃんとくらべて、どうよって感じじゃない? 最初からすでに明度で負けてるじゃん、みたいな?」 
 成美は面食らって瞬きした。 
 どうやら性格は、課長の名前と真反対のようだ。 
「でもお綺麗な名前ですよ」 
「そう? 昔は名前負けしてるってよく言われたけどね」 
「そうなんですか」 
「ん。名前はおしとやかだけど、中身は全然違ったから」 
 そう言いつつ、紫凛という人はパジャマのポケットから煙草のケースを取り出した。 
 え、ここって禁煙……。 
 成美はおびえつつ、禁煙とかかれた掲示板を見るが、女が意に介する様子はない。 
「ねぇ、会社でのお姉ちゃんってどんな感じ」 
「会社、ですか」 
「違った。市役所。ぶっちゃけどう、あなたから見て。好き? 嫌い?」 
「そりゃ、好きですよ。憧れてますし、目標です」 
 勢い込んで成美が頷くと、紫凛は意外そうに眉をあげた。 
「そう? なんか存在自体が完璧すぎで厭味じゃない? 私が知ってる限り、ぶっちゃけトークで、あの人のこと好きっていう同性は一人もいなかったけど」 
「それは課長が……誤解されやすいからだと思いますけど」 
 冷たいし、高飛車だし、切って捨てるような物言いをするからだろうけど、でも。 
「……私は、好きです。影で色々助けて下さるのに、それをおくびにも出されないところを、すごく尊敬しています。人が嫌がる役目を淡々とこなされるところも、すごいと思います。それに、あんなに美人なのに、恋愛には奥手で不器用で――そういうところも、ちょっと守ってあげたい的な」 
「は?」 
「あ、いえ、その……そんな風に、私が勝手に思ってるだけかもしれないですけど」 
 言い過ぎたことに気づき、成美は耳まで赤くなった。 
「ふぅん……」 
 紫凛はしばしだまり、煙草の煙を吐き出した。 
「そんなに親しいなら、じゃあ知ってる。道路管理課の沢村って男」 
「あ、知ってます。じゃあ、もしかして……ご存知です?」 
 何を、とはあえて言わずに、ニュアンスだけで成美が聞くと、少し眉を上げた紫凛は一拍してから頷いた。 
「もしかしなくても、姉の内緒の恋人でしょ」 
 あーっっ 
 と成美は、思わず両拳を握ってこくこくと頷きたくなっている。 
 二度目の興奮、マックスである。 
「いや、私は知らないんですよ。勝手にそう思ってるだけで、ほんとに何も知らないんですけど、やっぱり――本当に――本当にそうなんですか」 
「みたいね」 
 肩をすくめ、紫凛は煙草の煙を吐き出した。 
「役所じゃ、二人はラブラブなわけ」 
「いやいやいや、そんなそんなそんな、課長がそんなの、顔にも態度にも出すわけないじゃないですか!」 
 成美は片手を、腱鞘炎になるかと思うほど思い切り振った。 
「でも、沢村さんはすごいんです。なんていうんですか。大胆っていうか、図太いっていうか、しょっぱなからもう危険なオーラ全開って感じで」 
「危険なオーラ?」 
「なんていうのか、完全に課長を狙ってる、的な? 新人の私がすぐに気づいたくらいですから、役所の中じゃ、結構有名だったと思いますよ」 
              「待って、有名って?」 
 何が意外なのか、紫凛は噴き出すように口元に手を押さえた。 
「いや、だから沢村さんが……」 
 成美は意味もなく声をひそめた。 
「柏原補佐を好きだって話が、ですよ。だって本人、隠そうとすらしなかったし。柏原課長の部下である私にも、堂々と狙ってる的なことを宣言するくらいですから。課長は恋愛面では鈍い人ですけど、さすがに警戒だけはしていたように思いますよ」 
「…………へぇ」 
 さも意外そうに紫凛は呟き、そして数度瞬きをした。 
「へぇ、……そうだったんだ」 
 その不自然な間に、成美は初めて微かな違和感を覚えた。 
「ああ、ごめん。沢村さんのことは個人的に知ってるけど、そんなガツガツしたタイプには見えないから」 
「あ、そうなんですか」 
 超ガツガツしてますけど。 
 むしろ歩く肉食獣的な感じですけど。 
 とは、とても課長の妹には言えなかった。 
 煙草の灰をなんのためらいもなく床に落とし、ぎょっとする成美を一向に気にせず、紫凛は続けた。 
「なんていうか、昔から知ってるけど、女性に対してはクールっていうか。冷めてるっていうかさ。あまり熱くなったりしないじゃない。彼」 
「………………」 
 いや。 
 目茶苦茶熱くなってますけど。 
「なんかもう、うまくいえないけど、ダメダメですよ」 
「は? ダメダメ?」 
「課長のことになると、メロメロっていうかダメダメっていうか、デレデレっていうか。ちょっとしたことでも落ち込んで絡んでくるし。愚痴は長いし、自虐的だし、八つ当たりするしで、もう本当に最悪ですよ」 
「……………」 
 紫凛はただ、呆然としている。 
 あ、しまった。言い過ぎた。 
 成美はさーっと自分の血がひくのを感じた。 
「え、えと、……判ってると思いますけど、これは……柏原課長には……」 
「え、ああ。もちろん言わないけど」 
 戸惑ったように視線を逸らして紫凛は頷く。 
 あー、しまった。本気で少し言い過ぎた。 
 でも私はそういう見かけを裏切る沢村さんが、案外――かなり好きだったりするんだよね。 
 だから二人には、本当にうまくいって欲しいと思っているんだけど(雪村さん、ごめんなさいっ)。 
               でもその沢村は、先週いきなり、なんの挨拶もないままに退職してしまった。 
 まだその辺りの真相は、誰の口にも上がっていないが――柏原課長がここ数日、ひどく疲れた顔をしていることだけは知っている。 
「そう……」 
 殆ど朽ちかけた煙草を指に挟んだまま、ひどく遠い目で紫凛は呟いた。 
「そうって?」 
「……烈士は、本当にお姉ちゃんのことが好きだったんだなぁと思って」 
「…………」 
「市役所みたいなつまんなさそうな職場で、案外楽しくやってたんだなぁと思って。それが少し、おかしかっただけ」 
「…………」 
 眉を寄せた成美は、そこで初めて煙草を持つ女の指に結婚の証がないことに気がついた。 
 ――そういえば……。 
 遅ればせながら、すっかり忘れていた、嫌な噂が蘇る。 
 柏原課長には双子の妹がいて――課長はその妹の旦那さんのことを―― 
「あ、あの、そろそろ私」 
「昔、すごく好きだった映画があってね」 
 前を見たままで紫凛は言い、立ち上がろうとした成美は気圧されたように再びベンチに腰を下ろした。 
              「知らないかな。フランス映画で『屋根裏の怪物』ってやつ。田舎町に住む貴族の未亡人の元に、貧乏な男が執事見習いとしてやってくるんだけど、その男は、実は夜になると姿が変わる怪物だったって話」 
「……知らないですけど」 
              「美しくて才覚もある執事に惹かれ、未亡人はたちまち恋に落ちてしまうんだよね。男も未亡人の孤独と優しい人柄に惹かれ、二人は愛しあうようになる――ここまでは、すごく素敵なラブストーリーじゃない?」 
 はぁ、と成美は眉を寄せながら頷いた。 
 これ、一体なんの話だろう。 
              「でも、当然のことながら、身分違いの二人の恋は絶対の秘密。しかも、美しい上に夫の財産を受け継いだ未亡人には沢山の敵がいて、周囲には、ひどく危険な罠が張り巡らされていた。そんな未亡人を、男は命がけで守るのよ。夜な夜な、身の毛もよだつ恐ろしい怪物に姿を変えて」 
「…………」 
              「やがて小さな田舎町に人喰いの怪物が出るという噂がたつの。夜毎その身を刃で傷つけられながら、怪物は最後まで決して正体を明かすことなく、愛する人を守るために戦って、そして惨殺されるのよ」 
「…………」 
「――その朝、川に恐ろしい怪物の亡骸が流れ着いた時、馬車の中からそれを見た未亡人は嫌悪に顔をしかめてカーテンを閉めさせるの。彼女の膝には家で待つはずの男へのプレゼントが大切に抱かれている――それがラストよ」 
               それは――なんだか、すごく悲しい話なんですけど。 
「子供の頃、命がけで愛される未亡人が羨ましくて、何度も何度もその映画を見たわ。その度に思ったの。一体どうして、二人は幸福になれなかったんだろうって。男はあれだけ頑張ったのに、あれだけ未亡人のために尽くしたのに、どうしてこうなってしまうんだろうって。どうやったら、二人は幸福なラストを迎えられたんだろうって」 
 首をかしげ、紫凛は成美を見下ろした。 
「どう思う」 
「どう、と言いますと」 
「どうやったら、身分も属腫も違う二人が、幸せになれたと思う」 
「…………」 
 どうって、それは……。 
 いきなり見たこともない映画の顛末がどうかと言われても、咄嗟に何も浮かばない。 
「誰かが、怪物は本当はいい人だって、……未亡人さんに教えてあげるとか……、ですかね」 
 我ながらどうでもいい答え方だと思ったし、紫凛もそれは同じだったのか、微かに鼻先から笑いを漏らした。 
「そうね。誰かいい友人がいて、二人をとりもってくれたらよかったのかもしれないわね」 
 絶対馬鹿にされたと思ったが、紫凛は案外上機嫌で笑い続けた。 
「そうね、そうしてみると、答えは思いの外、簡単ね」 
「す、すみません。今度その映画、観てみます」 
 成美が恐縮して頭を下げると、紫凛はいいのよ、とでも言うように片手を振った。 
「実は最近の私はね、この結末は、すごく妥当だと思ってるの」 
「……どうして、ですか」 
「だって未亡人は、なんの努力もしないんですもの」 
「…………」 
「ただ愛されるばかりで、愛する男の本当の姿を知ろうともしない。それゆえの悲劇であり、当然の結末よ。そうは思わない」 
「…………」 
「映画でも現実でも、愛とは常に戦ってもがいて、そうして自らの手で勝ち取るものよ。怠惰な女は失ったものにすら気づかない。そんな女には、せいぜい悲劇がお似合いなのよ」 
  
                
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