12
/
/
/

「十二年前の、誕生日のこと、覚えてる……」
 明凛は林檎を剥く手をとめて、仰臥したままの紫凛を見下ろした。
 あれから数時間眠り続けていた妹は、深夜すぎに目を覚ました。今になって打撲が痛み出したらしく、口をきくのも億劫そうな、ひどく辛そうな顔をしている。
「覚えてるよ」
 誤魔化そうと思ったが、覚悟を決めて明凛も答えた。
「大変な夜だったものね」
「あの夜さ。……お姉ちゃんの代わりに、私が直斗とデートしたじゃない?」
 明凛は眉に微かな緊張をにじませ、頷いた。
 今、紫凛は何を語ろうとしているのか。
「その帰り、直斗をホテルに誘ったんだ。私」
「………」
「直斗がさ。ずっとお姉ちゃんとやりたがってたの、私前から知ってたからさ。映画館の裏で抱きついて、お姉ちゃんの代わりに私とどうって、誘ったわけ」
「…………」
「直斗、マジでびびったみたいでさ。無理とか言って逃げちゃった。見かけ裏切ってヘタレだよね。それがあの夜、直斗とはぐれちゃった真相」
「直斗のこと、好きだったの」
「全然」
 驚くほどあっさりと妹は即答した。
「あんな真面目なだけが取り柄のスポーツ馬鹿。マンガに出てきそうな出来すぎの幼馴染。死んだって好きになんかならないわ。生まれた時からド真面目なお姉ちゃんとお似合いよ。運命の人ってやつじゃない。もしかして」
「……だったら」
「だってお姉ちゃん、あの夜、お父さんの演奏会に行ったんでしょ」
「…………」
「海外に行っちゃったお父さんの、日本で最後の独奏会。双子の姉妹の誕生日に、お姉ちゃん一人に招待券を送りつけたお父さんもお父さんよね。ま、もうどうでもいいけど、あの夜はそれなりに、私もやさぐれてたわけ」
 明凛は声もでなかった。
 やはり双子だ。自分が紫凛の秘密を知っていたように、紫凛もまた、姉の秘密を知っていたのだ。
「お姉ちゃんそのこと、最後まで私に言わなかったよね。だから私もあえて知らないふりをしてたわけ。だってその方が精神的にきついじゃない? お姉ちゃんには、死ぬまで私を裏切ったあの夜のことを後悔して欲しかったから」
 黙って明凛は項垂れる。
 全ては、紫凛の言うとおりだった。
 あの夜のささやかな秘密と嘘が、明凛から将来の夢を奪い、父を奪った。
 あんな嘘さえつかなければ――妹に隠れて父を独占したいとさえ思わなければ――その後悔が、どれだけ明凛を苦しめ続けてきたか判らない。
「……そんな感じだったからさ。直斗と別れて一人になった後、正直、声かけてきた相手がどうでも深く考えなかったんだよね。だって誕生日の夜くらい誰かと楽しく過ごしたいじゃない。ヤバイって思ったのは連れてかれたアパートの前に男が何人もたむろしてるのが見えた時。話違うって逃げようとしたけど、もう遅くてさ。無理矢理二階の部屋に連れ込まれて暴れたら殴られて口塞がれて、電気もない部屋で次から次。マジ怖くて最後は殺されちゃうんじゃないかと思ってさ。病気も怖かったし、妊娠も怖かったし。なんかもう、私の人生終わったなって感じでさ」
 笑う妹の唇が、それでもかすかに震えている。
 明凛がその手を握ろうとしたら、紫凛は気丈に首を横に振った。
「そんな目茶苦茶な感じだったから、その時は全然気づかなかったんだよね。自分が、まさかお姉ちゃんに間違えられてるなんて」
 立ち上がって逃げ出したい衝動に、明凛は必死で耐えていた。
 この12年間、一度も聞こうとしなかったあの夜の出来事が、はじめて妹の口から語られようとしているのだ。
「誰かが、こいつ、違うんじゃないかって言い出して。猿轡外されて電気つけられて、バックの中身ぶちまけられてさ。学生証かなんか見て、ああ、名前も学校も違うじゃんって。そしたらさ、空気が一変にしぼむのが判ったわけ。なんだよ、みたいなさ。人違いかよ、みたいなさ」
「……紫凛」
 たまりかねて、明凛は遮ろうとしたが、それでも紫凛は口を止めなかった。
「でも、いいじゃん、顔似てるからって誰かが言ってさ」
「紫凛、もういい」
「そしたら他の奴が、でも行ってる学校馬鹿だし、頭軽そうだし、顔似てるくらいしか価値ないよなって」
 ――紫凛……。
「あたしその時、初めて死んじゃいたいと思ったんだ。……ずっと色んなこと我慢してきたし、出来違うのも愛され度が違うのも仕方ないって諦めてたんだけどさ。あの夜初めて、死んじゃいたいと思ったんだよね。マジで」
「…………」
「……後はもう、私半分死んでたからね。もう何されたのかもよく覚えてない。死んだと思ったら目がさめて、倒れたままの私の傍で、誰かがどっかに電話してて。ああ、また別の奴がきて輪姦されるんだって思ったらまた意識が遠のいて。次に気づいたのは揺り起こされた時。薄く目をあけたら、男が二人いて、私の顔のぞきこんでてさ。勝手にすればって思ったらいきなり肩に担ぎ上げられて――その時はじめて様子が変だなって気がついた。もしかしてこの人、私を助けようとしてくれてんのかなって」
 再び話が、明凛の知らなかった核心部分に入っていく。
 明凛は緊張したが、ひどく淡々と紫凛は続けた。
「やばいよ、まずいよ、警察行かれたらどうすんだよってもう一人の男が懸命に止めてたんだけど、私を担いだ男がそいつ蹴り倒して、私、ようやく外に連れ出してもらえたわけ。もう判ったでしょ。その男が、烈士だよ」
 ――沢村さんが……
 紫凛を、助けた。
 ますます判らない。それは、どういうことだろう。
「最も当時は、誰だかさっぱりわかんなかったし、顔もおぼろにしか見えてなかったし、私と散々やった奴がちょっと仏心でも出したんだろうくらいにしか思ってなかったんだけどね。国道まで一緒に逃げて、千円札何枚か渡されて、車拾って逃げろって言われた。結局、ぼんやり立ってるところを見回りの警官に見つかって、そのまま保護されちゃったんだけど」
 そのあたりの顛末は、明凛もよく知っている。
「病院いって、産婦人科つれていかれて、色々検査される内に、ようやく自分がされたことに実感が湧いてきてさ。警察がきて、色々聞かれて、それも結構屈辱的で。なんかもう面倒になって黙ったら、あなたが黙ってるとお姉さんが危険な目にあうかもしれないのよって、したり顔でオバハン警官があたしに説教するわけよ――なんかもう惨めさ通り越してどうでもよくなってきてさ。なんなの、これ、こんな状況でもみんなお姉ちゃん心配してるわけ。私なんかもうどうでもいいわけって感じになってさ」
「……………」
「あと、最後のとどめがこれだったかな。私が寝てる枕元にお父さんとお母さんが来て、なんか色々言い争ってるわけ。あなたがしっかり監督しないから、とか、最初から俺は、明凛を引き取りたいといったんだ、とか。挙句、締めくくりがこれよ。こうなったのが紫凛で不幸中の幸いだったみたいなさ……」
 さすがに明凛は目をそむけていた。 
 両親が不仲で、そのとばっちりが紫凛にいっていることは薄々気づいていたが、そんな話まで――枕元で交わしていたなんて。
「その時に、あたし決めたんだ。お姉ちゃんが存在してる限り、私に未来は絶対にないんだって。だったらせめて、お姉ちゃんが大事にしているもの全部、あたしが壊してやろうかなって」
「…………」
「だから直斗を好きなふりをした。お姉ちゃんも直斗も、あっさりそれ、受け入れてくれたよね。多分直斗だけは、私の本心に気づいてたと思うんだけど、それでもお姉ちゃんのために、私のおもりを引き受けてくれたんだ。それくらい、もうお姉ちゃんも気づいてるんでしょ」
「…………」
「あの頃のお姉ちゃん、面白いくらい私の言いなりだったよね。お父さんに二度と会わないでっていったらそうしてくれたし、ピアノも二度とひかないでって言ったら、そのとおりにしてくれた。音大も諦めて私の言うとおり東京の大学にいって東京で就職した。私がどれだけ嬉しかったか判る? ようやく私の前から長年の邪魔者が消えてくれたんだから」
「…………」
「でも、へんだよね。なんだかそれきり、毎日がちっとも楽しくなくなってさ。……何しても満たされないし、虚しいし、直斗の顔見れば苛々するばかりでさ。藤崎のお母さんも私のこと持て余してるみたいだし、もうそろそろ別れてあげようかなって思った時、……再会したんだよね。烈士と」
 ――沢村さん……。
「……3年前、偶然、街で声かけてきた男があの時の連中の一人でね。その人は烈士とは違うんだけど、ぶっちゃけ最初、まさか私を輪姦した奴の一人だってわかんないまま飲みに行ったわけ。だって最初から最後まで真っ暗だったから、わかんないじゃん、普通はさ。でも酒入って昔のこと自慢気に語り出されて、判ったわけ。ああ、こいつが、みたいなさ。その時の気持……お姉ちゃんに判る」
 明凛は眉を険しくさせたまま首を横に振った。
「多分、永遠に分からないよ。ものすごい優越感。そいつは私を知らないけど、私はそいつの過去を知ってるわけ。いつでも復讐できる立場に立ってるわけ」
「……どうしたの」
「どうしたと思う?」
 初めて、紫凛は妖艶に笑った。
「そいつの仕事も家族も全部調べあげてから、あたしの前で裸で土下座させたの。ゲイバーで男数人に突っ込ませて、動画を撮った。その時、私、十年ぶりに生きてるって実感したのよ」
 さすがに明凛は息を引いていた。
 その残忍さは、しかし同時に、紫凛の負った心の傷の深さでもある。
「……その人は、今」
「知るもんですか。一生怯えて生きてきゃいいのよ」
 吐き捨てるように紫凛は言った。
「で、そいつに、仲間のことを全部ゲロさせたの。烈士の名前を聞いたのもその時が初めてかな。勤務先が区役所だって聞いて、次はこいつだな、と思ったわけ。だって公務員なんて誰より脅しに弱い人種じゃない。だから最初の男同様、正体を隠して近づいたの。濃いメイクをしてサングラスをかけてれば、昔の私だって気づく人の方が少なかったから」
「……それで」
「……案の定向こうは全然。一人で飲んでる時に何気に相席させてもらったんだけど、本当のことを言えば、後ろ姿を見た時から予感があったかな。あ、この人もしかして、私を助けてくれた人じゃないかって」
「………」
「最後に助けてくれたにしても、その前にどうせ散々やっちゃってんでしょ、とは思ったけど、その夜は少しだけ話して別れて、もう一度、最初の男を呼び出したの。なんだか違和感があって――烈士のこと詳しく聞きたくなったから。そしたら不思議なことを言うじゃない。烈士は確かに連中の仲間で、当時現場で逮捕された一人だけど、あの夜はバイトで現場には呼ばれなかったはずだって」
 ――え?
「待って。じゃあ、どうして彼は容疑者の一人になったの」
「……それを知って、どうするの?」
 紫凛は冷ややかに明凛を見上げた。
「私はもう知ってるけど、お姉ちゃんに言う気はない。知りたきゃ自分で調べることね。私にできたことが、私より何倍も優秀なあなたにできないはずがないでしょう?」
「……………」
「過去を知る勇気もないくせに、烈士を探すだなんて笑わせてくれるわよね。いまさら念を押すまでもないけど、今回彼を救ったのは、私よ。大明に首根っこを握られている以上、烈士は役所を辞めるしかないし、二度と灰谷市には戻れないはずだった。それを私が――命をかけて救ったのよ」
/
/
/

「家までお送りしましょうか」
 病院を出た明凛を、待ち構えていたのは宮原だった。
 月光が周辺を照らしている。人気のない駐車場で、宮原は明凛が出てくるのを待ってていたようだった。
 明凛は首を横に振り、一礼した。
「お世話になりました。……今夜はもう失礼します。あと少しで母が着くと思いますので」
「失礼ですが、配偶者の藤崎直斗さんは」
 ふと明凛は視線を止めた。 
 それは、警察がまだ離婚の事実まで知らないからだろうか。それとも直斗が、まだ離婚届を出していないからだろうか。
「私から連絡しています。一両日中には、こちらに着く予定です」
 再度一礼して去ろうとする明凛を、男は背後から呼び止めた。
「紫凛さんが、整形手術を拒否された話はお聞きですか」
「どういうことでしょう」
「……右頬の裂傷は、……警察が突入する際、大道の雇ったチンピラと揉み合いになってやられたものですが、かなりの確率で痕が残るそうです。もしかするとひきつれになって顔の右半分に歪みが出てしまうかもしれない」
「…………」
「ただ今は、美容の方でいい手術の方法がいろいろあって――すぐにでも転院して手術を受けた方がいいと担当医師に勧められています。ですが、本人がこのままで構わないと」
 明凛は静かに眉をひそめた。
 咄嗟に何もいうことはできなかった。このままで構わないと言った紫凛の気持が、痛いほどよく判ったからだ。
「わかりました。……手術を受けるよう、母と義弟から説得させます」
 それだけ言って歩き出そうとした明凛は、苦渋に眉を寄せながら足をとめた。
「宮原さん」
「はい」
「……最後にひとつ。今日、紫凛は本当に、私を呼んでほしいと言ったんですね」
「はい。確かに」
「わかりました。ありがとうございます」
 最後に宮原の気遣うような声が聞こえたが、もう振り返らずに歩き出す。
 そして考えていた。
 沢村が消えてしまった理由を。そして今日、自分が、紫凛の元へ呼ばれた理由を――
/
/
/

             13
/
/
/

 あれ、と成美は足を止めた。
 まさかね。と思いつつ、ついその人を目で追っている。
 病棟の隅にある面会用の談話室で、足を組んだ女性が煙草を深々と吸っている。顔半分が包帯で覆われているが、残り半分が成美の元上司、柏原明凛に瓜二つだったからだ。
「日高さん?」
 と、その時、ナースセンターから看護師が顔を出した。
「おまたせしました。日高様なら、五◯三号室です」
「ありがとうございます」
 父が、出張先の会社の階段で足を踏み外して骨折した――そんな知らせが仕事中の成美の元に入ったのが、今日の昼のことだった。
 しかも入院したのは3日も前だという。
(だって成美、今仕事が繁忙期だって言ってたから。お母さんも2日に一度はそっちにいくし。昔お仕事で一緒だった方の奥さんが面倒みてくれるというし。お父さん、成美には絶対に言うなって)
 そりゃ、心配されたくないのは判る。成美の所属する行政管理課は今がスーパー繁忙期で、家が遠方の大地などカプセルホテルに泊まり続けているほどだ。だけど――だけど、である。
 灰谷市役所の眼と鼻の先に父が入院してて、この仕打ちはないじゃない。
 急いで見舞い用に買った花と果物の袋を持ち直し、成美はエレベーターの方に向かった。乗り込んで扉を締めようとした時、同じ方向から先ほど煙草を吸っていた女性が近づいてくるのが見えた。
 咄嗟に開ボタンを押して待っていると、軽く一礼して、その女が乗り込んでくる。
 緊張しつつ、成美はエレベーターの隅に身を寄せた。
 ――すご……。顔も似てるけど、もしかして背格好も同じくらいじゃない?
 というより、包帯のない側からみると、見れば見るほど柏原課長にそっくりだ。
 まさか双子の……いやいや、まさかね。そんな偶然、そうそうあるはずもないし。
 だいたい柏原課長の妹が足を組んで煙草をスパスパとか、いくらなんでもあり得ないでしょ。
 女性はあっさりと次の階で降り、成美もそれきりその女性のことは忘れてしまった。
/
/
/
/

 >next >back  >top
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。