21
 
 


 ――12時……。
 明凛は腕時計を見下ろし、小さく息を吐いた。
 身体は芯から冷えきって、手袋をした指先までもかじかんでいる。
 狭い路地には、もう人通りは殆どない。頼りは路地の向かい側にむえるコンビニの灯だけだ。
 ――私……何をしてるかな。
 タクシーは、もう何台も明凛の前を通り過ぎている。
 どうしてここに来てしまったのか、これからどうしたらいいか分からないまま、時間だけがひどく静かに過ぎていく。
 何度も見上げた窓は相変わらず真っ暗で、12時を示す時計が、部屋の主が今夜は戻らないことを告げているような気がした。
 会って、どうしようというのだろう。
 それで、何になるというんだろう。
 今夜初めて、人生で、なんの役にもたたない道を選択した。判っているのはそれだけだ。
 一度は覚悟したことを、自分の手で放棄した。
 今夜の星ひとつない夜空のように、先のことなど、もう何も見えやしない。
 私は逃げたのだろうか。それとも……
 選んだのだろうか?
 ひとつ向こうの路地で、タクシーが止まったのはその時だった。一瞬緊張した明凛は、すぐにその緊張を解いた。いくらなんでも、場所が離れすぎている。
 降りてきた男は、酔っているのかひどく足元がおぼつかなかった。背をかがめ脇腹あたりを押さえている。対向車が、一瞬その男の顔を映し出し、明凛は顔色を変えていた。
「――沢村さん?」
 はっと男が顔を上げる。明凛は、声をあげそうになっていた。
 ひどい。
 目の周りには青あざができ、口元には血の塊がこびりついている。シャツのボタンは取れ、襟元に赤い染みが散っているようだ。
「どうしたの、それ」
「なんでここにいるんですか」
 駆け寄った二人の、第一声が重なった。
 沢村は呆然としている。その顔を間近で見た明凛は、言葉が出てこなくなっていた。
「……喧嘩?」
「――ちょっと、でも別に、大した怪我じゃないんで」
 ここまで駆けて来るのにさえ右足を引きずっていた。軽い怪我のはずがない。
 特に唇の傷がひどいようだ。それをよく見ようと顔を近づけた時、不意に腕を掴まれた。
「なんで、携帯切ってるんですか」
 え?
「何度かけても出なかった。どんだけ探したと思ってるんですか」
 携帯――
 明凛は、少し狼狽えながら、視線を自分のバックに移した。
 電源を切っていたのは、誰の言葉も耳にしたくなかったからだ。今夜だけは、自分一人の気持だけで、行先を決めたいと思ったから。
「ずっと、ここに?」
「ずっとじゃないわ」
「じゃあ、いつから?」
 明凛は答えず、視線を伏せた。
「なんで、私を探したの」
 今度は沢村が、答えずに黙る。おそるおそる見上げると、彼は苦悩するように眉を寄せた。
「すみません。今は俺の質問にだけ答えてください。今夜課長はどこにいて、いつ、ここに来たんですか」
「…………」
 それを言ったら。
 言ったらもう――もう、後には引けないじゃない。
「7時前に役所を出たわ」
「それで」
「歩いて、ここまで来たの」
「………」
「それだけよ」
「………」
「馬鹿みたいでしょ。でも他に、どうしていいか判らなかったから」
 額に手を当てた沢村が、長い息を吐くのが判った。
 それが呆れているのか安堵しているのか、明凛には判らない。
「もう、あんたって人は――とにかく中で――暖まってください。冗談でしょ、この寒さで、5時間も外に立ってたんですか!」
 
 
 
「沢村さん、怪我は本当に大丈夫なの」
 眉をひそめる明凛の前に熱いコーヒーを差し出しながら、沢村は微かに笑った。
「全然。かすり傷っていったら強がりですけど、大した怪我じゃないですから」
 それでも口元を歪ませながらコーヒーを飲んでいる。
 おそらく口の中を切っているのだろう。
「喧嘩したの?」
「心配しなくても、警察沙汰にはなってないんで」
 あまりその話には触れられたくないのか、沢村はあっさりと明凛の心配を切り上げた。
「それより、寒くないですか。手、氷みたいだったけど」
 今部屋には、ヒーターと電気ストーブの両方がついている。加えて沢村は毛布まで出してくれたが、身体の震えは一向におさまらなかった。
 今も、コーヒーカップも持つ指が微かにふるえている。
「……大丈夫、内側から温まれば、すぐに暖かくなると思うから」
「何も食ってないなら、なんか作りますけど」
「本当に、いい」
 明凛は顔があげられなかった。
 小さなコーヒーテーブルに向かい合って座る距離は、思いの外、近い。
「綺麗な、部屋ね」
 一DKの間取りで、家具やカーテンはオリーブと茶色で統一されていた。明凛が今いるのが六畳程度のダイニングルームで、引き戸の向こうが着替えなどをする部屋だろう。
 沢村は何も言わずに、室内に視線を巡らせる明凛を見ている。
 その視線の意味を考えるのが怖くて、明凛は無意味に立ち上がった。
「向こうの部屋を見てもいい」
「いいけど、寝室ですよ」
「ああ、うん」
 結局、視線だけを引き戸に向けたきり、明凛は再び座っていた。
 沢村が初めて、苦笑する気配がする。
「そんな緊張しなくても、身体が温まったら送りますよ」
「……そうね。ごめんなさい」
「いや、別に謝らなくても――」
 その時、背後のキッチンでケトルのお湯が沸騰する音がした。
「コーヒーばっかじゃ胃にきついんで、今、お茶でも淹れますから」
「ありがとう」
「俺、シャワー浴びたいんで、――ちょっと色々汚れて、タクシーでも嫌な顔されるんで。その間気にせず、休んでてください」
 明凛は頷き、背にかぶせた毛布を胸元に引き寄せた。
 室内の温度は徐々に上がり、暖かなお茶のせいか自然に身体も暖まってくる。
 扉に閉ざされた廊下の向こうから、シャワーの音が聞こえてきた。
 明凛は黙ったまま、立てた膝に自分の頭を乗せた。
 なんのことはない。ここまできても、結局は何も変わらない。
 私が変わらない限り、2人の関係は――いつまでたっても元のままなのだ。
 まだ、判らない。
 この夜の行方とその先にあるものが。
 でも今夜、沢山の選択肢の中で、自分はここに来ることを選んだのだ……。それには、一体、どんな意味があるのだろう。
 いや、意味など、最初からあるのだろうか。
「課長?」
 扉が開いて、沢村の声がした。
 明凛は顔が上げられなかった。
「寝ちゃったんですか。……部屋、大分暑くなったんで、エアコンの方消しますよ」
 彼の足と清潔な石鹸の香りが、自分の背後をすり抜けたのが判った。
「シャワーを、借りても?」
 そのままの姿勢で明凛は言った。
「あ、ああ、……いいっすけど、着替え、どうすんですか」
 斜め後ろから、少し戸惑った声が返される。
「――じゃあ俺、外に出てるんで、ついでにコンビニでシャツくらいなら買ってきましょうか。それ以外はちょっとパスですけど」
 明凛は目を閉じたまま、深く息を吸った。
 何も見えない――変わらない――でも私は、変わりたいのだ。
 変えたくて、多分その先にある何かが知りたくて、ここまで来た。
「沢村さん」
「はい」
「私のことが、好き?」
「……………」
 沈黙は、永遠のように長い気もしたし、ほんの一瞬だった気もした。
 背後で膝をつき、無言で抱きしめてくれる沢村を、明凛は初めて愛おしいと思っていた。本当に、――愛しいと思っていた。
 
 
 
 
 薄闇の中で何度もキスを交わしながら、明凛は温まったはずの自分の身体が、また細かく震え出すのを感じていた。
 二人の素肌からは、同じ香料の匂いがする。湿った髪が交じり合い、シャツから出ている互いの脚がこすれあう。
 精一杯開いた唇の中を、沢村の舌が抜き差ししている。そうしながら彼の手は明凛の腿を撫で、狂おしく腹部を這い上がる。
 その動きが、ふと止まる。
 自分の身体が震えているせいだと、明凛はすぐに気がついた。
「……ごめんなさい」
「すみません。……ちょっと俺が、興奮して」
 そうじゃない。
 沢村が自分を抑え、明凛の緊張を徐々にほぐそうとしているのは、よく判っている。
「ごめんなさい。怖い……」
 明凛は素直に訴え、沢村のシャツに顔を埋めた。
「笑わないで。……こういうことの、何もかもが、初めてなの」
 沈黙の後、そっと髪を撫でられる。そうして腕枕をしてくれた沢村の手は優しかった。
「このまま、朝までいましょうか」
「……沢村さん……」
 おそるおそる顔をあげると、額にぎこちないキスをされた。
「課長が嫌なら、俺……何もしないし、したくないです。俺には、このままで、十分すぎるほどだから」
「…………」
「本当です。……無理とかじゃなくて、本当に、そう思ってるから」
 暖かな胸に抱きしめられたまま、明凛はうつむき、黙って首を横に振った。
「――大丈夫……」
「でも」
 ためらう沢村を遮るように、明凛はそっと顔をあげると、彼の唇にキスをした。
「もう何も考えないで」
「…………」
「私たち、――先に進みましょう」
 そうしなければ、多分何も変わらない。
 互いの気持を探りあい、誤解しては、傷つけあう日々が続くだけだ。
 いってみよう。と再び目を閉じた明凛は思った。
 過去の何もかもを忘れて、沢村さんと。
 たとえこの夜の行き着く先に、何も待っていないとしても。――

 
 
 
 
   
 
 
 
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「マジでこれ、どうなるんですか!」
「いや……てか、お前、本当のとこどうなの?」
 成美と沢村のプチトークでした。次話は完結編。6月公開予定です。
Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。