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「そういえば、肝心なこと聞いてないけど」
 ようやくそのことに思い至ったのは、コーヒーショップを出た直後だった。
「なんすか」
 答える沢村の顔は、道路に向けられたまま振り返らない。多分、明凛のために、タクシーを探してくれているのだ。道路を走る車はまばらで、背後の商店街の電気も大半が消えている。
 時刻はすでに12時を超えていた。時間を忘れて、あれこれ話を振ったのは、むしろ明凛の方である。
 せきを切ったように、管理課の職員の性格について、沢村に質問した。
「俺の知ってることなんて、あまりないっすけど」
 そう言いながら、ほとんど冗談まじりで、沢村は色々なことを話してくれた。
 宮田の母親が、昨年癌で他界したこと。
 三ツ浦が持ち歩いている手帳には、氷室課長の隠し撮り写真がびっしり貼られていること(それには本気で引いた)。
 中村の妻は元臨時職員で、無理矢理押しかけられた挙句のデキ婚だったこと。
 正直、かなりどうでもいいことまで聞かされた気がする。
 その間、沢村は二度コーヒーをおかわりし、明凛はノンカフェインの紅茶を追加で頼んだ。
 大半が仕事の話だったとはいえ、こんなにも長く異性と二人で飲食店にいたのは、初めての経験だ。
 ――沢村さんには、迷惑だったかもしれないな。
 明日はまだ平日で、今日、どんなに疲れても8時半には役所にいなければならないのだから。
 それでも、明凛は続けていた。
「綾森課長のこと。そもそも、その話をするのが本来の目的じゃなかったの」
「はは、なんかすっかり、忘れてるようだったから」
 笑い声が、少しだけ掠れて聞こえた。
 しゃべり疲れたからだろうが、その笑い方が不思議に魅力的で、明凛は少し戸惑っている。
「で? あれはどういうからくりだったわけ」
「タクシー、来ましたけど」
「後のにするから、教えて」
 ようやく沢村が振り返った。その背後をスピードを緩めたタクシーがのろのろと過ぎ去って行く。
「参ったな。どうしても言わなきゃダメっすか」
 沢村は視線を逸らしたままで、襟足のあたりに手をあてた。
 そんなリアクションをされると、なんだかますます聞きたくなる。というより、ますます疑わしくなる。
 最初から、それは少し疑っていたけれど。
 明凛は眉をひそめて、沢村を見上げた。
「もしかして、綾森課長と個人的な何かが……」
「――っ、な、ないっすよ。そんなの疑ってたんすか。あるわけないじゃないっすか」
 眉をあげて大慌てで否定する沢村を、明凛は目を細めてじっと見つめた。まぁ、嘘ではないようだ。
「じゃあ、教えて」
 そのまま睨むと、うっと沢村は顎を引いた。
「……あの、ですね」
「なに」
 ますますその目をのぞきこむようにして見上げると、沢村は困惑したように視線を逸らした。
「ちょ……あんま、見ないで下さい」
「は?」
「見られると、……上手く、喋れなくなるんで」
「…………」
 いや、ちょっと。
 そこでそんな可愛い反応されても、すごく困るんだけど。
 困るというか――今、胸の下のあたりが、きゅっと締め付けられたのはなんだったんだろう。
 それから、耳のあたりが結構熱くなってるのは。
 咳払いをし、あえて平然と明凛は言った。
「さっきの店で、私たち、向い合って喋ってなかった?」
「ま、それはそうなんすけど」
「目だって、結構あってたけど」
「まぁ、確かにそうなんすけど」
 だったら、なんでよ。
 黙りこむ沢村を訝しく見上げると、沢村は片手を振るようにして背を向けた。
「あー、本題、本題いきます。あのですね。事前に聞いて知ってたんですよ。綾森さんの弱点というか弱みというか、そういうの」
 その返答に対する疑問は多々あったが、とりあえず「誰に」と明凛は問った。
 誰に、そんなことを聞いたんだろう。
「総務のバイトの……課長も知ってると思いますけど」
 総務のバイト。
 もしかして、美魔女の小原麻里子さん?
「あの子、うちに来る前は観光課にいたんです。綾森課長んとこ。そこで不倫騒動かなんかおこしてクビにされたって。本人、否定してましたけど」
「……それで?」
 何故だかひどく不快なことを聞いた気がして、明凛はそっけなく続きを促した。
「まぁ、言い方はあれっすけど、彼女、綾森さんのことあまりよく思ってないらしくて。もしかして近親憎悪っすかね。二人とも、男の注目を集めてないと気が済まないキャラみたいだから」
「………」
 その鋭い観察眼は称賛に値するが、自分の本質もそんな風に皮肉に見ぬかれていると思うと、少し嫌だ。
「だからベラベラと、綾森さんの個人情報を沢村さんに流したわけ」
「……聞いたんです。俺から。何度かメシ連れてって、それで」
「………」
 明凛が無言で眉を寄せると、沢村は観念したように、息を吐いた。
「……課長は知らないと思うけど、綾森課長は氷室さんとちょっと因縁があって、――水森博の騒動以来、何かとうちの課に因縁をつけてくるんです。しかも女性管理職は全員自分のシンパにしないと気がすまないようなところのある人だから――柏原課長にも何か仕掛けてくるような気がして」
「…………」
「氷室さんのやり方じゃないけど、だったら先に相手の弱みを掴んどこうと思いました。……汚い真似して、すみません」
「…………」
「墨田局長には、俺から説明しておきます。小原さんとは、何度か昼飯食いにいったくらいで、別に、やましい関係でもなんでもないんで」
 そうだったんだ。
 そうか。それで篠原さんと二人で、給湯室で親密な会話をしていたのか。
 正直、何かが複雑なままだったが、理由が判ったことで胸の奥につかえていたものが、すーっと降りた気分だった。
 よかった。と明凛は思い、すぐにその感覚を疑問に思った。
 わからないな。そこで私が、なんで安心してるわけ?
 ああ、そうか。これで墨田局長に余計な心配をかけなくて済むから。そういうことか。
「で――? 一体小原さんに何を聞いたの。二人の会話は全く意味不明だったんだけど」
 綺麗な髪ですね。
 あの言葉のどこに、綾森のような強かな女を動揺させるほどの破壊力があったのだろう。
「正直、俺も、意味がわかんないまま、言いました」
「どういうこと?」
「小原さんも案外ずるいっていうか強かで、なかなか全部話してくんないんですよ。情報をちょいちょい小出しにするっていうか。あと何回かは、俺にメシ奢らせる気じゃなかったのかな」
 目的は食事ではないような気はしたが、それは、とぼけたことをいう沢村も理解していたに違いない。
「理由は言わずに、方法だけを先に聞かされたんです。まず、綾森さんの額のあたりを、三十秒、身じろぎもせずに見つめろって」
「……は?」
「それから一言。綺麗な髪ですね。それだけで、あの女何も言えなくなっちゃうからって」
「………」
 意味が、さっぱり判らない。
「ごめん。もう一度説明して」
「だから俺も、マジで意味が判んないまま実行したんです。ただ、店を出た後に……判ったんですけどね。ああ、そういうことなんだって」
「どういうこと?」
「……んー」
 唸るように喉を鳴らしてから、沢村はぐしゃっと頭をかいた。
「綾森さんの髪、綺麗でしょ。あの年でちょっと綺麗すぎだと思わないですか」
「…………」
「俺には、それが何も言えなくなるほどの弱みになるとは思えないけど、女性ってそういうものなんすかね。男のヅラは滑稽だけど、女の人はおしゃれっぽくていいじゃないっすか」
 そういうことか。
 綾森さんがウィッグだというのは、薄々察していたが――。
「本人が気にされているなら、他言はしない方がいいと思う」
 静かにそう言うと、沢村の横顔が皮肉な笑いを浮かべるのが判った。
「そうっすね。……正直、課長はそう言うと思ってました。でもいいんですか。あの人、俺のことで課長を脅しにかかってるのに」
「問題ない。それは私の裁量で片をつける」
 明凛はきっぱりと言い切った。
「もうそのことは忘れて。それから二度と、綾森課長の個人情報を聞き出そうとは思わないように」
 言っては悪いが、彼女は沢村の手におえるような女ではない。
 人を操る術においては、女版氷室といったら言い過ぎか。しかし不倫関係にあった森田課長を本庁から追い出し、自分はのうのうと本庁課長職に収まっている。見事な危機回避能力だとしか言いようがない。
「……やっぱり、余計なお世話だったかな」
 苦笑した沢村が低く呟いた。
「そんなことは、ないけど……」
「いいっすよ。俺なんかに気を使わなくても」
「………」
 そうじゃない。
 どう言い訳しようと、今夜の自分は、正常な判断力を失っていた。それを、沢村さんが助けてくれた。
 今夜のことだけではない。管理課に配属されて以来、色んな意味で自分を見失っていたことに、気づかせてもくれた。
 あんなことがあっただけに、ある意味、一番ものが言いにくい立場だったろうに。――
「タクシー、なかなか来ませんね」
 その沢村は、明凛の隣で、道路を行き来する車を目で追っている。
「あ、来た」
 そう言ってあげようとした沢村の袖を、明凛は反射的に掴んでいた。
「――え?」
 しまった。
 というより、これは一体、なんの真似?
 明凛は呆然と、沢村の袖をしっかりと掴んでいる自分の手を見る。
「……なんすか」
「別に……」
 個人タクシーはいやだから。そう言い訳しようとしたが、通り過ぎたタクシーには、灰谷市で最も大きなタクシー会社のロゴが入っている。
「…………」
「…………」
 どうしよう。
 言い訳というか、この行為の理由を説明しないと。
 とはいえ、自分でも理解できない異常行動の理由を、どう説明したらいいのか。
「もしかして、酔ってますか」
「……そうかも」
 沈黙。
 気まずさで息も詰まるようなのに、ずっとこのままでもいいような不思議な高揚感がある。
 もしかすると本当に、今頃になって酔いが回ってきたのかもしれない。
「どっか、行きますか」
 男の、思いつめたような声に、心臓が強く脈打った。
 自分の反応に動揺した明凛は、急いで首を横に振る。
「ごめんなさい、そういう意味じゃない」
「いや、へんな意味には、とってないっすから」
「……酔ってるの」
「そうみたいですね」
 なに、その優しい声。
 そして私は、何をいじいじと、まるで高校生みたいに、この人の袖を掴んだままでいるんだろう。
「……俺の方こそ、へんなこと言って、すみません」
「……うん」
「………」
「………」
 気がつけば広い胸に明凛は抱き寄せられていた。
 もしかすると、自分からもたれかかったのかもしれない。
 一方的ではないことだけは確かで――自分も、それを望んでいることは確かで――
 かがみこんだ沢村の唇が、そっと唇に押し当てられる。
 胸がいっぱいになりながら、明凛は目を閉じ、彼の腕に手を添えていた。
 優しいキスはすぐに離れ、頭を抱かれて引き寄せられる。
「……すげぇ、可愛いから」
「………」
「………調子、狂う……。すみません……そんなつもりじゃなかったのに」
 首を小さく横に振ってから、明凛は沢村の肩に頬を預けた。
 どうしよう。嬉しい。
 どうしよう。――すごく、嬉しい……。

 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。