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「………これ」
 差し出されたカップを見た明凛は、眉を寄せて席につく沢村を見上げた。
「もしかして、カフェラテ?」
「いえ、ただのミルクです」
 10時過ぎにも関わらず、繁華街の外れにある大手コーヒーチェーン店は賑わっていた。
 とりあえず二階に向かい合わせのテーブル席を取り、沢村一人が注文するために階下に降りた。その時明凛は「ブレンドのショート、ブラックで」と頼んだはずなのだが。
「もしかして、まだ判ってないっすか」
 訝しむ明凛をむしろ楽しそうに見つめ、沢村は自分のコーヒーに口をつけた。
「あー、うめ」
 なにそれ。私が飲みたいのもそっちなんですけど。
 ちょっとわざとらしく堪能の表情を作った後、沢村は目元に笑いを滲ませて明凛を見た。
「課長が酒席で倒れた理由」
「飲み過ぎだと聞かなかった?」
 沢村は眉をあげる。
「そうだとしても、原因は薬ですよ」
「薬?」
「あんなにきつい鎮痛剤飲んで、間をあけずに酒はないっすよ。胃もやられてるんじゃないですか」
「…………」
 そういえば、そうだった。前の晩から何錠も鎮痛剤を飲んだ挙句の飲酒。
 薬とアルコールの飲み合わせがよくないことくらいは知っていたのに――。
 明凛は額に指をあてて、溜息を吐いた。
「もしかして、役所を出る前に引き止めてくれたのは、それ?」
「まぁ、それもありますけど」
 言葉を濁し、沢村はもう一口コーヒーを飲んだ。
「課長も噂くらい聞いたことがあると思ってました。女性課長会って、知る人ぞ知る市の暗部というかなんというか。なんつーのかな。若い男性職員からしてみれば、拷問みたいな場所なんすよ」
「それは……知らなかった」
 綾森課長の含んだ口調と彼女の性癖から考えて、女性管理職からの逆セクハラの場になっているのかもしれない。
 その現場に立ち会わなかったのは、幸運だったのかもしれないが――
「知らないじゃないっすよ。課長、もしかしなくても、そんな会の幹事に祭り上げられてたのかもしれないんですよ」
 沢村の声が、初めて少しだけ怒って聞こえた。
「宮田や中村が、課長会に出るって話を聞いて眉をしかめたのは、そんな事情もあるからなんです。中村なんて、……2年前ですけど、裸踊りさせられたって話ですから」
「は?」
「俺は行ったことないですけどね。まぁ、そこそこ可愛くて素直そうな奴ばかり選ばれてるみたいなんで」
 ――それは……確かに。
「問題ね」
 明凛は再度溜息をついて、沢村を見据えた。
「そんな会の存在もそうだけど、どうしてそれを、事前に私に言ってくれなかったの」
「問題ってそっちっすか」
 微かに唇を歪めて、沢村は笑った。
「それが問題なら、原因は課長にあるんじゃないですか。だってあんた、誰の話もまともに聞かないじゃないですか」
 明凛は眉をひそめていた。
「どういう、意味」
「決断は全部一人。他人の話は途中で遮ってぶち切り。思考レベルの差を考えれば当然の成り行きかもしれないっすけど、少なくとも氷室さんは、そんな態度はおくびにも出していませんでしたよ」
 自分の表情が、一瞬だが険しくなるのを明凛は感じた。
「部下を信じてるふり。仕事を任せてるふり。やってることは同じでも、氷室さんはとにかく演技と演出が上手かった。あの人はある意味、柏原課長よりドライで冷たい人なのかもしれないですね。切れる人だから出来ることなんでしょうけど、何もかも自分でやって、部下を育てる気すらない。だから三ツ浦なんて、てんで使えないままですよ」
「…………」
「それ、柏原課長も、内心じゃ思ってるんでしょ」
 明凛は表情を顔から消して、沢村を見上げた。
 人に内心を、やすやすと読まれるつもりはない。とはいえ今、沢村という男の洞察力に舌を巻いていたのは確かだった。
 それは、明凛が曖昧にイメージしていた氷室という男の印象とぴったりリンクしていたからだ。
「俺は、氷室さんみたいなやり方は好きじゃないし、馬鹿を馬鹿にすんなって反発もしてました。けど、気づけば、意識の高い奴は、自然と氷室さんの仕事のやり方を真似るようになってんですよね。……いってみれば、天才肌の職人みたいなものなのかな。仕事を覚えたければ盗め的な」
「私に、氷室さんの仕事のやり方を真似しろと?」
 努めて冷淡に明凛は言った。
「ありがたい忠告だけど、あなたの立場で言うことではないでしょう」
「氷室さんが、どうしてそういう仕事のやり方をしたのか、それを考えろって言ってるんです」
 動じずに沢村は言い切った。
「たとえば、氷室さんが、元あんたがいた行政管理課の課長だったら、そんな真似はしなかったと思うんです。行政管理課は市役所屈指のエリート揃いで、基本、意識もスキルも高い連中ばかり揃ってる。有名大学出で上級試験合格者、評価によっては将来局長級までいけるかもしれない。まぁ、日高みたいにその意識が欠落した奴もいますけど」
「………」
「でもうちは、――道路管理課は違うんです。大半が区役所の管理課出身で、一部を除いて中級上がり。区役所管理課に至っては、50すぎの、出世も頭打ちの輩が大半ですからね。いってみれば、世間で非難されるところの典型的な公務員揃いなんですよ。いくら頑張ったところで出世も給料も上がらないのがわかってるから、そもそも必要以上に仕事をしようっていう感覚がない」
 明凛は少しだけ苛立った。
 その程度のことは、いちいち言われなくても判っている。
 出世意欲のない職員の個人事情を斟酌して、それでどうしろと言いたいのか。
「では私に、彼らのレベルに合わせて仕事をしろと? 子供をなだめすかす幼稚園の先生のように?」
「もうひとつ、大きな違いがあります」
 構わずに沢村は続けた。
「行政管理課で最も大きな武器は、法律と判例の知識です。それが強い人間に、自然、信頼と権限が集まるようになっている」
「………」
「柏原課長が、どれだけマイペースの愛想なしで、若くて実務経験に乏しくても、文句を言える奴は誰もいなかったと思います。あの課では、ある意味、あんたが一番強かったから」
 口まで浮かんだ反論を飲み込み、明凛は黙って眉を寄せた。
 確かに、沢村の言うとおりだ。
「でも管理課では、頭の良さや知識は単なる添え物にすぎないんです。8区に区役所管理課を抱えるうちは、いわば現場監督みたいな役どころです。そこで一番重宝されるのは経験値と協調性、つまり、現場での経験と人を上手く使う力なんですよ。それ、あんたに一番ないものじゃないですか」
「…………」
 目から、何かが落ちたような気分だった。
 明凛は眉根を寄せたまま、カップに指をあてた。
「氷室さんは、多分最初からそれが分かってたんだと思います。だから最初の二ヶ月くらいは、にこにこして、誰の意見も無条件に採用してましたよ。しょせんお飾りだって陰口も叩かれてましたけど、気づけば、区役所も含めた全員があの人のペースにはまってた」
「…………」
「俺が言いたいのは、あんたはそういった区の事情や前提を何も斟酌しないまま、以前の所属と同じ感覚で課長をやってるってことなんです。その良し悪しに、俺が口だす筋合いはないけど、知ってると知らないとじゃ、周囲の反応の受け止め方みたいなものが、まるで違うと思うから」
「…………」
「それ言いたくて、引き止めました。……余計なことだったら、すみません」
「…………」
 しかめた眉根はいつしか解け、明凛は目を閉じていた。
 全く、余計だ。
 まさかこんな形で、こんな相手に、自分の欠点をつきつけられるとは思ってもみなかった。
 そういう意味では自分は、沢村という男を全く見くびっていたのかもしれない……。
「で?」
 温くなったミルクを一口飲んでから、明凛は表情を緩めて顔をあげた。
「沢村さんの意見を聞きたいから、思ったことを言って。私はこれからどうしたらいいと思う?」
 沢村の目から張り詰めた何かが解けるのが、わかった。
 平然と語っていたように見えた彼もまた、相当の覚悟を決めていたのかもしれない。
 明凛もまた、部下の前で懸命に保っていた虚勢が、この瞬間解けたのを感じていた。
「正直言えば、どうしたらいいか、見当もつかないの。局長からは、何もしなくていいようなことを言われたし」
「阿古屋さんと二人で、区役所を回ったらいいんじゃないっすか」
 頷いて、あっさりと沢村は言った。
「区役所を?」
「そう。それでうちの非を認めて、謝罪すればいいんですよ」
 むっと明凛は眉を寄せた。
「でも、それは」
「判ってます。なにもあんたが悪いわけでも本庁が悪いわけでもない。でもそういうデモストレーションが、形だけでもあの人たちには欲しいんです。何も区役所管理課の全員が仕事を拒否してるわけじゃない。収まりのつかない一部の連中が、上げた拳の落とし所を探してるだけで、本音をいえばあの人たちだって、早く来年度の体制を固めて、仕事の話がしたいんですよ」
「…………」
「まぁ、不本意なのは判りますけどね」
「…………」
 上げた拳の落とし所を探している――
 唇を軽く噛んだ明凛は、眉を寄せたまま顔をあげた。
「詳しいのね、区の事情に」
「え? ああ、俺、以前は中区の管理だったんで、昔の知り合いから、色々情報も入ってくるし」
「……そう」
 額に指をあて、明凛はしばし、自身の矜持と戦った。
 が、結論はもうでている。
 ふりあげられた拳を受けるのもまた、課長である自分の仕事なのだ。
 沢村は少しだけ苦笑して、カップを持ち上げた。
「ついでに現地で区役所管理課の仕事ぶりを見て、お疲れ様ですの一言でも言ってやれば、あの人たちも根は単純な土建屋だから、一発であんたのファンになると思いますよ。まぁ、それもそれで、面倒くさいかもしれないですけどね」
 ああ、そうか。
 と、明凛は再度、額を指で押さえていた。
「アルコールと、鎮痛剤……」
「え?」
「ううん。なんでもない」
 知識として知っているはずなのに、いざとなると頭から飛んでいる。
 以前氷室さんから確かに聞いた。
(区の管理課は仕事嫌いの変人揃いなので、僕はまず、相手の特性を知るところから始めたんです。どんな人間にも落とし所というのがあって、まぁ、それを掴んでしまえばあとは楽勝ですよ)
 そう言って笑った横顔がなんとも冷ややかだったので、少しばかり嫌な気がしたことを覚えている。
 一見凡庸に見える氷室が、その実、何に挑む時でも用意周到なことを、明凛はよく知っている。あの人のことだ、区役所ばかりでなく、課内全ての職員の個人情報まで、全て押さえていたのではないか――。
 しかし、今からそれをするのは時間的に無理だ。
 難局に挑むにあたって、いかに自分が準備不足だったか、今さらながら思い知らされる。
「区役所に一番顔がきくのは?」
「阿古屋補佐です。入庁以来、ずっと管理畑を転々としてきましたから」
 一瞬眉を翳らせた明凛の心を読んだかのように、沢村は続けた。
「知ってました? 実は阿古屋さんの娘さんと柏原課長は、同い年なんすよ」
「え?」
「阿古屋さん。いかにも冴えないオヤジでしょ。ハゲてるし加齢臭もすごいし」
「……そこまで、思ったことはないけど」
「家じゃ奥さんにも娘さんにものけものにされて、全然居場所がないそうです。うちの鬼嫁と鬼娘。口癖みたいにそう嘆いてんの、聞いたことないっすか」
「いえ……」
 記憶にない。仕事に集中している時は、周囲の雑音は極力排除するようにしているから。それに、言っては悪いが、阿古屋の私生活など想像したこともない。
 そうか。私と同じ年の娘がいるのか。
「それもあって、柏原課長を最初から苦手に思ってたみたいですよ。苦手な娘が上司になったようなもんでしょ。見てて、いちいち緊張したり遠慮したりしてんのが、おかしくておかしくて」
 さすがにそれにはむっとする。
「私は、笑うどころじゃなかったんだけど」
「俺には、笑うとこでした」
 そして本当に沢村は笑った。
 普段は怖い目元が、別人のように柔和になる。
 前も思った。思いの外子供っぽい笑顔だ。
 そうか、目尻が案外垂れている。それでこんな可愛い顔になるんだ。ふーん。
「そういう目で見てみれば、課長にも面白さが判りますよ。課長が声かけるたびに、肩がびくって、あれ、間違いなく娘さんにするリアクションっすから」
「………」
 そういうものかな。
 ふっと口元が緩みかける。
 それが妙に気恥ずかしくて、明凛は急いで持ち上げたカップに唇をつけた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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Copyright2011- Rui Ishida all rights reserved.この物語はフィクションです。